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スノードームを殺してくれ  作者: 染井由乃
第2章 千を翔ける憐れみ

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第56話

 なにやら話し込みながら立ち去っていく二人の青年を見つめ、私は束の間の平穏にほっと息をついた。危なかった。本当に殺される寸前だった。


「憐姉様、大丈夫ですか?」


 膝立ちで擦り寄るようにして、千翔が私のすぐ傍へ移動してくる。先ほどの名演技とは打って変わって、今は酷く心配そうな表情だ。


「千翔のおかげで命拾いしたよ、ありがとう」


 本当に、彼女の言葉がなければ私は今頃バラバラにされていただろう。目も当てられない姿になっていたはずだ。


「迫力満点だったな。正直驚いたよ」


 千翔は少し照れたように笑っていた。こんな状況下でも彼女の笑顔は純真だ。私の方がよほど、彼女に救われているようだった。


 とりあえずは、私も千翔も人質として、相手の目的が果たされるまで命は保証されたようなものだろう。私が次期軍師であることは、明確には公でないものの「影」の情報網をもってすればすぐに調べがつくはずだ。


 だが、シアンと呼ばれたあの半面をつけた青年の口ぶりから察するに、千翔にも刃を向けられる可能性が高い。何としてでも、彼女だけは守らなければならないというのに。


「それにしても、次期軍師という肩書を出すだけで相手が引き下がるとは思ってもみなかったよ。すごいな、千翔は」


 次期軍師という肩書がもたらす影響を自分自身把握しきれていなかったのかもしれない。千翔はその点、客観的に判断出来ていたというわけだ。もっとも、彼らが情報番組で取り上げられていた追悼式の様子を見ていたというのも大きい。ただの虚言と受け取られる可能性もあったのだから。


 他愛のない会話をしたつもりだったが、千翔の表情は少し複雑なものだった。そしてどこか自嘲気味にも見える微笑を見せる。千翔にしては珍しい表情だった。


「せめてその日だけでも生き延びられればそれでいい……そんな毎日を昔は過ごしていましたから、こういうことは得意なんです」


 意味ありげな千翔の横顔に言葉を失う。彼女がただ快活なだけの少女ではないことは分かっていたものの、どうしても普段とのギャップが大きすぎる。暗い過去など何一つ持たぬような顔をして笑ういつもの方が、特殊なことというべきなのかもしれないが。


「憐姉様は私のことをどう思われているのかわかりませんが、恐らく私は憐姉様が想像もできないくらい狡くて汚くて卑怯な……自分のためならなんだってするような下劣な人間なんです」


 千翔は再び微笑みをみせた。ああ、彼女は諦めているのだなと直感する。抱えた過去は変わるはずもない、受けた傷とは一生付き合っていく他にないのだと。自分の現実をきちんと受け止めているとも表現できそうだが、それにしては後ろ向きな雰囲気を彼女の言葉から感じざるを得なかった。


 こういうところは、私たちと同じなのだなと安心する自分に吐き気がした。彼女にはいつでも幸せの中を歩んでいてほしいと願いながら、私や合崎と同じように暗い過去を思い出しては沈んだ表情を浮かべる彼女を見るとやはりほっとしてしまうのだ。彼女は私たちを置いて何処かへ行ってしまうわけではないのだと。彼女はただ、私たちよりも生きるのが上手なだけで、根本的な部分は変わらないのだと。


「……私だって似たようなものだ。思えば千翔の昔の話はあまり聞いたことがないな。……辛くなったらいつでも話していいんだぞ」


 無理に聞き出すつもりもないが、一人で抱え込むよりは楽なこともあるだろう。千翔は微笑みを崩すこともないままに、手首に繋がった鎖を眺めていた。


「いずれ……お話しすることもあるでしょう。いけませんね、鎖を見るとつい昔を思い出してしまいます」


 千翔は灰色の壁にもたれ掛かると、視線だけをこちらへ向けた。


「それにしても、憐姉様をこんなことに巻き込んでしまうとは駄目な妹ですね」


「馬鹿言うな。千翔一人だったらどうなっていたか……。何とか、千翔の命だけでも保証してもらえればいいんだが……」


 とはいえ、相手は影だ。たとえ、交渉の段階で「千翔を殺さない」と口約束をしたとしても、それを守る保証なんてどこにもない。何においても不利な状況だった。


「私のことは、恐らく二の次でしょうね。帝国としては、まずは先輩の命の保証が欲しいと思いますよ。私の場合、身代金目的でしょうから案外簡単に片付くと思います」


 冷静に状況を分析する千翔は、やはり賢いはずだ。知識の吸収が苦手だというだけで、思考力が劣っているような少女ではない。だが、自分が狙われる価値のある人間だとよく分かっているのなら、どうして一人で行動しようと思ったのだろう。


「……自覚があるなら、次からボディーガードの一人でも付けたらどうだ? 帝国有数の財閥令嬢が一人で出歩くなんて……」


「憐姉様でも抗えなかった相手に、一介のボディーガードが太刀打ちできるとお思いなんですか?」


「それでも、いないよりマシだろう。今回はたまたま私が一緒だったからいいが、千翔一人が誘拐されるようなことがあったらものすごく不安だ」


「……では、空兄様は今頃その不安におひとりで耐えていらっしゃるのですね」


 物憂げな千翔の表情にはっとした。そうだ、合崎は今頃どうしているだろう。妹が一気に二人とも誘拐されたと聞いたら、流石のあいつでも多少は戸惑っているかもしれない。


「千翔のことは心配するだろうが……案外、私がいなくなってあいつは清々しているんじゃないか?」


 もともと、合崎の足枷のような存在が私なのだ。数年ぶりに自由を謳歌しているかもしれない。彼の精神に影響を及ぼす因子がなければ、それは平和な日々だろう。


「……それ、本気で言っているんですか?」


 千翔が若干引いたような目で見てくるので、私は思わず視線を逸らした。本当は私だって分かっている。合崎のことだから、きっと強がりながらも内心私のことも案じてくれるだろう。だが、仲違いしているこの状況下で、しかも嫌いだと言ってしまった相手にそんな心配をかけるなんて情けない。何よりも、申し訳ないという気持ちが強かった。


「……もし、私が戻らなかったら、あいつにごめんと伝えておいてくれ」


「空兄様が求めているのは謝罪の言葉ではないですよ」


 くすりと千翔は笑う。どこかからかうような、悪戯っぽい笑みだ。


「そして、その言葉は憐姉様から直接伝えていただきますので、千翔は承りませんよ」


 暗に、ここで死ぬことは許さないと言っているのだ。千翔は案外強かな少女である。


「それに私に託したら、もしものとき、憐姉様は何の未練もなく死んでしまうではありませんか」


「……駄目か?」


「駄目ですよ! 憐姉様はまだ空兄様の想いに応えきれていませんからね」

 

 いつも通りの明るい表情を取り戻した千翔は、はっきりとそう告げた。普段は合崎に軽口を叩いている千翔だったが、なんだかんだ言って合崎の肩を持つことが多い。こんな可愛らしい味方がいて、合崎は幸せ者である。


 それから私たちは他愛のない会話に花を咲かせた。捕らえられているというこの状況下では不自然なことかもしれないが、それでも心は幾分か軽くなったように思う。今頃、帝国で対応に追われているであろう柊たちを思えば胸が苦しいが、精神状態を良好に保つに越したことはいない。この時の私は、千翔と二人でならばこの凶悪な誘拐事件を何とか乗り切ることが出来るような気がしていた。








 冷たい床の温度が応えてくる頃、再び金属のドアが開いた。相変わらずの耳障りな音に耳を塞ぎたくなるが、手を拘束されているのでそれも叶わない。


 入室してきたのは黒い外套を纏った数人だった。皆、目負荷にフードを被っていて性別すらも分からない。彼らの後ろから、やがてシアンが顔を出す。


「いやーお待たせ。ちゃんと確認してきたよ、憐ちゃん」

 

 馴れ馴れしく名前を呼ばれ少々不快だが、此処で下手に発言をして殺されても困る。私はシアンから顔を背け、沈黙を守り続けた。


「憐ちゃんっていういい切り札が手に入ったから、君から先に片づけるよ。水野の令嬢さん」


 シアンはゆっくりと千翔の前に足を運び、彼女を見下ろす。一方で千翔は、いつになく鋭い眼差しで彼を睨みつけていた。


「……水野財閥を、甘く見ないほうがいいですよ」


「もちろん、心得ているよ。君の父上の恐ろしさはこっちの世界でも有名だからね。完璧合法、正攻法で敵を潰す当主の手腕は誰もが知っている。この間の音森財閥の件だって、密告したのは水野財閥だろう? おかげでこっちは一つ大きな資金源を失ったわけだ。その埋め合わせはしてもらおうじゃないか」


 水野財閥が音森財閥の案件に関わっていたのか。意外なところで、千翔に皺寄せが来たものだ。


「大丈夫、殺しはしないよ。……まあ、君の態度次第だけど」


 そう言いながらシアンは後ろに控えている黒い外套の数名に何やら支持を下し、黒い布を手にしたものが千翔の目に目隠しをする。そして千翔の足枷が外され、手錠に繋がる鎖が強引に引かれた。千翔は多少よろめきながらも立ち上がる。


「――っ千翔」


 思わず、千翔の小さな背中に向けて叫んでしまう。殺しはしないとは言っても、どんな目にあわされるか分からない。そう思うと居ても立ってもいられず、膝立ちになって何とかここから離れようと足掻いた。もちろん、頑丈な銀色の鎖を前にしてそんな試みは無駄としか言いようがなく、ただ手首の痛みが増していくだけなのだが。


 千翔は半身こちらを振り返り、私を安心させるかのように小さく笑ってみせた。その表情に胸が熱くなる。


「千翔っ」


 焦りと不安で、息が上がっていた。シアンだけが、どこか面白そうにそんな私の様子を一瞥したが、すぐに一行は部屋を出て行ってしまった。最早、千翔の様子を知る術は残されていない。


「千翔……っ」


 千翔が傷つけられたらどうしよう。痛い思いをしたらどうしよう。不安で仕方がないのに、私はここで千翔の帰りを待つしかないなんて。


 自分の無力さに、涙が零れそうだった。力無く冷たい床に崩れ落ちると、手足の鎖が乾いた音を響かせた。不意に感じたひりひりとした痛みに手首を見やれば、手錠の部分は赤くなり、所々皮がむけている。痛みはフラッシュバックを引き起こす要因になりかねないのでなるべく避けたいところだが、この牢獄ではそれも不可能かもしれない。この絶望の中で、私は何とかして自分を保ち続けなければならないというのに。

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