第51話
「先輩、どうしましょう」
いつも通り、合崎と千翔と共に昼食を摂っていたラウンジで、不意に千翔が切り出した。その手には、赤い採点の跡が透けて見える答案用紙が握られていた。正直、良い点数とは言い難い得点だ。
「どうしようもないよ」
私の隣でチョコレートマフィンを口にしていた合崎が淡々と言い放つ。
「やっぱり、そうなんですかね……?」
あからさまにしゅんとした様子で彼女は肩を落とす。千翔は精鋭と言われる第六班に属しているものの、それは戦闘スキルや作戦考案といった実践的な技術を買われてのことで、座学はあまり得意ではないらしい。水野財閥の後を継ぐであろう千翔の将来を思えば、せめて逆であればよかっただろうにと思う。
早いもので、音森財閥の例の作戦から約3か月が経とうとしていた。今ではもう、合崎はもちろん、私も完全に回復したと言ってもいい。幸い後に残るような障害も傷もなく、私は至って今まで通りの学院生活を送ることが出来ていた。――音森からの嫌がらせが無くなった分、以前よりずっと平和であるというべきかもしれないが。
学院の雰囲気も元に戻りつつある。あの作戦で犠牲になった生徒の友人たちの心の傷が完全に癒えているとは思わないが、それでも何とか前を向こうとしている空気は感じられた。この学院は歴史的な悲劇から、今まさに立ち上がろうとしているのだ。
だからこそ、試験の点数一つで頭を悩ませられるようなこの状況は、千翔には悪いが喜ばしくも思えた。普通の学校のようには行かないにせよ、せめて学生らしい毎日を送りたいと願うのは罪ではないだろう。
「千翔は聡い子だよ。この間の実演演習の策略だって、見事なものだったぞ」
答案用紙を握りしめながらうなだれる千翔を励ます。水野の家のこともあるのか、彼女は相当落ち込んでいるようだった。
「せめて、教えてやれればいいんだが……」
何分、私は一秒も欠落しない記憶力を持っているので、座学は記憶力一本でそれなりの成績を取れてしまっていた。教えるとなると、結局は教科書通りの説明にしかならないのだ。
「駄目だな、一条。甘やかしすぎだぞ」
合崎は厳しすぎるのだ。自分にも他人にも。無論、千翔にそれだけ期待しているという捉え方もできなくはないが、たまには甘やかしてあげてもいいと思ってしまう。
「千翔はお前と違っていろんな可能性があるんだ。きっと、優秀な経営者になるぞ」
「相変わらず、一言余計な奴だな……。千翔も一条といるうちは悪影響から逃れられなくて伸びるものも伸びないだろう」
自然と、ほぼ毎日恒例の皮肉論争が始まってしまった。あの作戦の直後こそ、私も合崎もお互いを思いやるような素振りを見せていたが、学院に復帰すれば3日と続くはずがなかった。一週間が経ったころには、再び銃撃戦を展開して教官に叱られている。こうも毎日苛立っていたら、体に悪そうだ。
「合崎が軍師になった暁には、さぞ腐敗した帝政になるんだろうな」
「これ以上腐らせることが出来るなら、ある意味一種の才能として誇るべきだろう」
「班長には支配者としての慈悲深さが足りないのです! まずその歪んだ価値観を正すべきだと千翔は思います!」
誰も立ち寄らないラウンジに三人分の声が響いていく。合崎はどんな侮蔑も悪態も腹立たしい微笑み一つで受け流して皮肉を返していた。今、銃を手にしていたら、間違いなく銃撃戦に発展していただろう。音森財閥の第一研究所で、炎に巻かれながらも微笑んでみせたあの甘い空兄様は、やはり幻覚だったのかもしれない。
「戯言に付き合っているだけでも、充分慈悲深いじゃないか」
彼は薄く笑って、私たちを見下ろす。皮肉以外の言葉で会話が出来ないのだろうか。毎日毎日こればかりで、もう我慢がならなかった。
「そんな意地悪ばかり言う合崎なんて、もう嫌いだ!」
胸に燻る苛立ちを吐き出すように、私ははっきりとそう言い放った。拗ねたような言い方にも聞こえるかもしれない。少し子供っぽい発言だったかと思い、急に恥ずかしさを感じた私は隣に座る千翔の手を引き、そのままラウンジを後にした。
「今日の憐姉様は一段とご機嫌斜めなのですね」
「……いつも通りだろう」
おとなしく手を引かれながら、千翔はくすくすと笑う。彼女の小さな手は柔らかく、この手が銃を握っているなんて考えたくもなかった。
音森財閥の作戦が終わって以来、少しはお互いに歩み寄れるだろうかと合崎に期待した私が馬鹿だったのかもしれない。淡い期待を抱いているだけに、いつも通り皮肉ばかりの合崎に必要以上に苛立ってしまう。今更素直に言葉を交わすなんて、私たちには夢のまた夢なのだろうか。
「憐姉様の手は、あったかいですね」
その言葉に、私は千翔の手を握ったままであることを思い出し、慌てて手を離した。階段を下る途中だが、数段上にいる彼女を振り返ると、愛らしい笑顔を向けられる。
「悪かった、急に」
「どうしてですか? 手をつないでもらえるのなんて、孤児院にいたとき以来ですから嬉しかったですよ」
その言葉に嘘はないようで、彼女は屈託のない笑みを見せた。昔はよく、虐められていた千翔の手を引いていたものだ。その癖が残っていたのか、自然な成り行きで手を握ってしまった。
「……あの頃の千翔は泣いてばかりいたもんな」
まだ幼い千翔の姿を脳裏に思い浮かべれば、自然と笑みが零れてしまう。千翔は今でももちろん大変愛らしいが、あの頃の千翔は天使と見紛う可愛さだった。
「そうですね。……何もかもが今まで生きていた世界と違って、怖かったんです」
そう言って儚げに視線を落とす千翔の横顔は、過去を思い出しているのか憂いを隠しきれていなかった。ついつい忘れてしまうが、彼女の右肩には今も番号が刻まれているのだ。手術で消せないこともないらしいが、彼女はそれを拒んだ。恵まれた環境を与えられた以上、彼女と同じ境遇だった子どもたちを忘れたくないという殊勝な理由からだった。
その番号が、人身売買の商品であったことを示すものだという知識はあれど、実際彼女がどのような境遇に置かれていたのかは未だに知らなかった。易々とこちらから聞けるような話題でもないので、もしも彼女が話したいと思う瞬間があれば受け止めようというくらいの心構えでいる。けれどもそんな瞬間は、出会って8年近くたった今まで一度も訪れていない。だからこそ、彼女が自分から過去のことを口にするのは珍しいと思ってしまう。
ここは深く尋ねるべきかと逡巡しているうちに、千翔の方が先に口を開いてしまった。
「でも、憐姉様と空兄様がいてくださったので、今はもう怖くないですよ」
さっきまでの憂いを帯びた表情は嘘だったのではないかと思うほどに、千翔はいつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。それは彼女が口癖のように言っている言葉だ。彼女が今も昔も変わらずに、私たちを慕ってくれているのが分かる。時折、彼女のその感情は一種の刷り込みのようなものに過ぎないのではないだろうかと不安になることもあるが、たとえきっかけがそんな不可抗力でも、私たちの間にはそれ以上の想いがあるので問題ないと割り切ることにしていた。
彼女が私たちを必要としているうちは、変わらず私は彼女の手を引こう。心の中でそう誓いながら、明るい笑顔を浮かべる千翔に私もまた少し微笑み返したのだった。




