第47話
また少し、鮮やかになった。
私はベッドにもたれ掛かりながら、サイドテーブルの上の人工花を眺めていた。時刻はもう午後8時を過ぎ、あと1時間ほどで消灯だ。あの後、他愛もない話をして午後6時過ぎには千翔は帰宅した。それ以来、この病室を訪れたのは点滴を取り換えに来た看護師だけで、合崎も柊も姿を見せていない。余程、用事が長引いていると見える。
手持ち無沙汰な私は、人工花の色を今朝の記憶と比較していた。僅かだが確実に色は深くなっている。それを繰り返して、一週間後には色褪せて散ってしまうのだ。造花との違いはそこにあった。私は生花を見たことがないが、人工花と似たようなものだと聞く。きちんと代用品の役割を果たしているようだ。
私は手首に絡んだコード類を解きながら、軽く溜息をついた。薬のおかげで痛むところはない。右手も今朝よりは動かせるようになっているように思う。着実に回復しているのだろう。やはり「白」の技術は偉大だ。あんな死の縁にいたものでさえ、こうして現世に呼び戻してしまうのだから。
その完璧な白の代償が、この閉塞感なのだろうか。日常レベルでは決して気づかない。けれども私たちの意識の根底には白がこびり付いていて、見えない鎖でつながれている。それは本当に些細なもので、一度も気が付かずに終わってしまいそうなくらい僅かなものだが、確かにある。帝国と「影」の違いは、その些細な違和感を受け入れたか否かによるのだろう。
完璧な安寧と、僅かな閉塞感。死の世界での一時間だけの自由。
この二つの違いが原因で生じた対立によって、何万人もの人が死んでいくなんて、やっぱり、この帝国も「影」もどこかおかしい。けれども私たちは、そのどちらかで生きていく他にないのだ。それならば、お互いに干渉せずそっとしておけばいいのに。
私は一人、溜息をついた。一人でいる時間が長いと思考が暗くなっていけない。合崎が置いていった本でも読んで気を紛らわせよう。
そう思い、サイドテーブルに手を伸ばしたその時、不意に病室のドアが開いた。その無遠慮な開け方は合崎だろうと思い見上げると、予想通りそこにはいまだ制服姿のままの合崎が立っていた。その表情には、出て行ったときには見受けられなかったはずの疲労が浮かんでおり、見ているこちらが不安になるほど情緒が安定していないようだった。
「……おかえり。随分、遅かったんだな」
「……ああ」
私は左手で体を支えて、ベッドから身体を離した。ベッドのサイドの椅子に座って軽くネクタイを緩めた合崎の目は、じっと見つめているとどこまでも沈んでいきそうなほどに暗い。こんな表情の彼を前に、どんな言葉をかければよいのだろう。
「レモンティー、冷やしてあるぞ」
当たり障りのないことを口にするも、当然彼の気が紛れるはずもなかった。何かがあったのは確実なのだろうが、生憎、それを問いただす勇気も正しい言葉も持ち合わせていない。いつになく気まずい沈黙に耐えながら、彼が口を開くのを待つしかなかった。
そんな重苦しい空気の中で、合崎は不意に笑ってみせた。その笑みがあまりにも苦し気で、思わず目を逸らしたい衝動に駆られた。
「……合崎?」
恐る恐る、彼の名を呼んでみる。合崎は笑みを崩すこともなく、深く俯いてしまう。
「――咲が死んだ」
唐突な彼のその言葉に思わず息を呑む。あまりにも急な訃報だった。
「……俺の、目の前で死んだんだ。延命治療を中止することになって……そのまま……」
彼の目に、涙はなかった。それでも十分に、彼が深い悲しみの中にあることは近い出来る。だが、彼の不安定さは単にその悲しみから来るものではないような気がしてならなかった。
「何で、なんだろうな。昔からそうだ。俺を大切にしてくれた人は、みんな死んでしまう」
咲さんは合崎の親友と言っても過言ではない存在だっただろう。彼女が合崎を大切にしていたことは、訊かずとも分かっていた。音森だって、合崎に心酔する勢いで想いを寄せていた。
でも、2人とも死んでしまった。
「偶然だって笑うかもしれないが、それが繰り返される俺にとっては……必然なんだ。……どうしてだろうな、もしかするとこれも能力のうちの一つなのかもしれない。……だとしたら、本当に死神だ。こんなことなら……心なんて無い方がよかった」
彼が自嘲気味に笑うたび、彼の悲しみは深くなっていく。その笑みは涙の代わりなのかもしれないと思えば、彼がどうしようもなく憐れだった。
「心なんか持ってしまったから、こんな風に歪むんだ。友人の死一つ、素直に悲しむこともできない。……今日だって、咲が死んでいく様を見ながらこれが憐じゃなくて良かったと思っていた」
合崎の深く沈んだ目が、不意に私を捉えた。見慣れたはずの合崎の目なのに、ぎゅっと心臓を掴まれたかのような緊張感が走る。どくりと心臓が脈打つのを感じた。
「だから、憐はそのまま……俺のことを嫌いでいて。いつまでも、死なないように」
その言葉に、私は殆ど衝動的に合崎を抱きしめた。右肩がずきずきと痛んだが構わなかった。きっと、彼の方がずっと心の痛みに苦しんでいる。涙を流すことも知らず、自嘲気味に笑う彼の姿をもう見ていられなかった。
「お前は……本当に馬鹿だ。お前を大事にする者が死んでしまうというのなら……私はとうに命を落としている。もう何年も前に、だ」
「……よく言うよ」
「約束する、もうどこへも行かないから……だから、大丈夫。私は明日も明後日も、きっと何年先の未来でも空兄様の傍にいる」
「口だけだろ」
私の腕を振り払うこともなく、合崎は笑みを含んだ声で続けた。
「でも、いいよ。恨んだりはしないから。……もう慣れてる」
どうすれば、彼に寄り添えるのだろう。私は彼の頭にそっと頬を寄せ、腕の力を強めた。
「――信じてよ」
私は、切実な思いと共に呟いた。「憐」としても言葉なら、空兄様に届くのだろうか。
「空兄様は……もう、一人じゃないんだよ」
拙い言葉だと、我ながら思う。正直な思いを伝えるのは、妙に緊張してしまうが、これ以外に方法が思いつかなかった。
「私は……ずっと空兄様と一緒にいたいと思ってるよ」
僅かに脈が早まっているのを感じる。素直に想いを告白するのは、やはり不得手だ。
「憐は……こんな病んだ人間と一緒にいたいのか? ……こうやって、憐に縋ることでしか生きられないなんて……どうかしてる。怖いと思う。まだそれを怖いと思えるうちに、憐から離れるべきじゃないかとさえ思う」
「……病んでいても空兄様は空兄様だよ」
私は腕の中の合崎に視線を合わせ、微笑んで見せる。
「だから、離れていかないで。一人で塞ぎこまないでよ。悲しいなら、私と一緒に泣こう」
こんなこと、普段の調子の合崎には口が裂けても言えそうにない。今でさえ、緊張で頬が火照っていた。
ふと、合崎が軽く私の左肩に寄りかかる。いつの間にか、彼の表情から自嘲気味な笑みは消えていた。
「なら、憐が死んだときはどうやって泣けばいい?」
深く沈んだ彼の瞳を見て、彼が抱えてきた闇の深さを思い知る。私はただ微笑んで、そっとその黒髪を撫でた。
「そのときは、泣かなくていいよ」
何十年後の話だろう。私か彼が死んで、残された方が大きな孤独の中を生きていくことになるのは。
「……笑って、見送ってくれたらそれでいい」
私の死で彼が塞ぎこんでしまうことなんて望まない。彼は、私がいなくなった後も幸せに生きていかなければならない。
でも、きっとそのころには合崎にも大切な人が増えて、忠実な部下がいて、奥さんがいて、もしかすると子どももいて、今よりもずっと温かい幸せの中で生きているはずだ。そうなれば私の存在も、足枷のように重いことはだろう。彼はいつか解放される。生きていけば必ず、彼の中の私は薄れていく。
それは、やむを得ないことなのだ。人が人を愛せる限界はきっとある。その限界を超えないように、大切な人が増える度に無意識に誰かを忘れていく。そうして目の前の大切な誰かを目一杯大切にする。きっとそんなことの繰り返しで、想いは巡っているのだ。
私には、それが出来ない。誰のことも忘れられない。誰かに向けた想いも、記憶から薄れることは無い。恐らく私はたくさんの人を愛することは出来ない。
だから、きっと私は寂しいだろう。彼が私を忘れて行っても、私はいつまでも彼への想いを鮮明に覚えているのだから。
ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に抱きしめ返された。少し息苦しいくらい、強く引き寄せられてしまう。
「……やっぱり、考えたくない。自分から言い出したことなのに、おかしいな」
そう言って、ふっと笑った彼の笑みは先ほどまでのように痛々しいものではなかった。少し、安定してきたのかもしれない。思わず、私も微笑み返す。
「……そうだね、変な空兄様」
張り詰めていた空気が少しずつ解けていくのを肌で感じた。心から安堵する。
「……憐」
合崎は私の肩に頭を預けたまま呟いた。
「頼むから……いなくならないで」
その言葉とほぼ同時に、合崎の体から力が抜けた。私は慌てて彼を支える。意識を失ってしまったのだろうか。以前、熱を出したときとよく似ている。錯乱状態から回復する兆しであることは確かだったが、少々不安だ。しかし、彼を支えたままでは人を呼ぶ手段がない。
都合よく誰かが入室してくれればいいが、そうもいかないだろう。私は、彼が倒れないように支えることしか出来なかった。僅かに肩と腹部に痛みを感じるが、このくらい何てことはない。合崎の安らかな息遣いに私もどこか安堵していた。




