第44話
「……憐」
名前を呼ばれたような気がして目を覚ますと、右頬に手が添えられているのが分かった。ゆっくりと目を開けると、私を見下ろす黒い制服姿の人影が視界に入り込む。
「……良かった、ちゃんと目覚めたんだな」
そう言って合崎は笑うと、私から手を離した。私の寝顔を見て、不安に思ったのだろうか。そんなにも長く眠ってしまったかと思い、時刻を確認すれば、確かに朝食の時間は過ぎていた。若干の寝坊だ。
「もう朝か」
欠伸を噛み殺しながら、動く左手だけで伸びをする。消灯後すぐに横になったので随分と長い時間眠っていたはずだが、ほんの一瞬のことに思えた。それだけ熟睡していたのだろう。傷を癒すために体も必死なようだ。
「今日は学院に行くんだな」
合崎の制服は皺ひとつなく整えられていた。あれだけ返り血を浴びたから、恐らく新調したのだろう。黒は合崎によく似合う。彼の凛とした雰囲気を引き立てていた。口を開かなければ、学院の女子が噂するのも頷けるのだが。
「柊が行けってうるさいからな」
合崎は、大袈裟に溜息をついてみせた。あの作戦に参加した生徒の中では初めて登校するというだけあって、気が重いのもあるのだろう。
「うるさくて悪かったね、空」
病室のドアの方でふっと笑う声が聞こえたかと思えば、そこには白衣姿の柊が立っていた。一見すれば若い医者のようなその出で立ちは、今日も柊によく似合っている。白衣は「実験」のせいもあって苦手なのだが、柊が纏うと知的な雰囲気に磨きがかかるので好きだった。
「で? 学院は? 今から行っても遅刻寸前だけど」
爽やかに微笑む柊に、合崎は再び溜息をつく。合崎も、教育係には頭が上がらないらしい。
「憐が目覚めるのを見届けようと思っただけだ。言われなくてももう行く」
「それはよかった」
合崎は私を一瞥するとそのまま病室を後にした。柊がすれ違いざまに「いってらっしゃい」と声をかける。その柊の表情は、どこか安堵した風でもあり、温かかった。
合崎を見送ると、柊は病室に入室しベッドサイドの椅子に座る。忙しいだろうに朝から柊が来てくれるのは純粋に嬉しかった。
柊を前にして、病院服が乱れていることに気づき、軽く身なりを整える。多数の管が繋がれているため、ゆるく纏われた病院服は肌が露わになりやすかった。
「調子はどうだい?」
「かなり気分はいい。右手が動けば文句なしだな」
右肩に負った傷は深かったらしく、今でも動かそうとすると鈍く痛む。負傷した後に、無理をして銃を扱ったせいもあるのかもしれない。
「それは良かった。憐も空も快方に向かってるね」
「……合崎はまだどこか悪いのか?」
私が見る限りでは、合崎に傷が残っているようには思えなかったが、火傷の治療くらいは今もしているのかもしれない。
「……まあ、精神状態がね、ちょっと良くなかったから。憐が目を覚まさない間、錯乱状態の一歩手前に陥るくらいには情緒不安定だったんだよ。前みたいに、熱も出したんだ」
私が10日間眠っている間に、そんなことが起きていたのか。思わず茫然としてしまう。合崎はそんなこと、一言も口にしなかったではないか。
「今回はかなり酷くて、入院するレベルだったから精神科で治療しようって言ったんだけど、聞かなくてね。憐の傍から離れようとしなかった。それはもう大変だったんだよ」
柊は苦笑してみせたが、その目は憂いに沈んでいた。きっと今も合崎を心配しているのだろう。
「でも……昨日はあんなに笑っていたぞ」
私のせいで合崎が不安定になっていたなんて信じたくなかった。その一心で、そんなことを口走ってしまう。
「それは憐が目を覚ましたからだろうね。その証拠に、昨日から空の精神状態は劇的に回復してる。まあ、こういったら語弊があるのかもしれないけど……空を不安定にさせていたのも憐で、回復させたのも憐だ。幹部会曰く、君は空にとっての毒薬であり精神安定剤だそうだよ。……本当に、吐き気がするほど趣味の悪い人たちだ」
柊の最後の言葉には明らかな嫌悪が滲んでいた。彼も次期軍師の教育係として、幹部会の人間に準ずる立場にあるだけに違和感を覚えるが、それよりも私の脳内は「毒薬」と「精神安定剤」という言葉を解釈するので精一杯だった。
昨日、塔長が言っていたこともこのことを指していたのだろうか。少なからず衝撃を受ける。まるで自分の存在が合崎の足枷になっているような気がしたのだ。
「幹部会の人間や軍は、空をコントロールするために憐を使いかねない。気を付けようがないけれど、憐も一応念頭には置いておくんだよ」
こんな自分の存在が、合崎にとってそんなに大きなものだろうか。言葉もなく、私は自分の掌を見つめた。複雑な心境だった。私は彼の行く手を阻む壁であり、それでいて彼に必要とされる存在だというのか。その矛盾が私たちらしいとも思えてくるから不思議だ。思わず、薄く笑う。
「私は……いずれにせよあいつにとって重荷なんだな」
ただでさえ不安定な合崎の心を揺るがすなんて、褒められた話ではない。「私がいなければ」なんて安い言葉は吐かないにしても、胸が苦しいのは事実だった。
「いいや、空の想いを不当に歪めた幹部会が悪い。憐も空も何も悪くないよ」
柊はふっと笑ってみせたが、彼にしては珍しくどこか翳りのある表情だった。最早、憎悪と言ってもいいレベルの幹部会への負の感情が読み取れる。彼と幹部会の間には何かあるのかもしれないと思わせるには充分だった。
それはそうとして、柊の優しい言葉に救われているのも事実だ。彼はいつも、私が不安になると心の隙間を埋めてくれるような言葉をくれる。それは彼の人間観察の技術の賜物なのだろうし、何より、彼だけは私たちに親身になって寄り添ってくれる人だという安心感が生み出すものなのだろう。
「……今日も、髪を纏めようか。検査があるからね」
柊は柔らかい表情でそう告げると、寝起きの私の髪をそっと手櫛で梳いてくれた。温かい手が触れると妙に安心する。
柊はそのまま慣れた手つきで、昨日と同じように私の髪を編んでいった。その手を見ていると、言葉では言い表せないような安らぎと温かい感情が湧き出るのを感じる。不思議な感覚だったが、決して不快ではない。
その感情を、「懐かしい」というのだということを、この時の私はまだ知らなかった。




