第42話
昼食時になると、また少し廊下が慌ただしい。残念ながら私には新たな点滴の袋が一つ追加されただけで、食事は提供されなかった。空腹ではないが口が物寂しい気がする。
合崎はベッドサイドの椅子に腰かけたまま、チョコレートマフィンを食べ終えたところだ。私も合崎も甘党を極めているが、これはすべて柊の影響だ。将来、私たちが病気になるようなことがあれば、柊に文句の一つくらい言ってやろう。
「憐も食べられるようになったら、買ってきてやるよ」
からかうような笑みを含んだ声で合崎は言う。私が食べたくてじっと見ていたことを分かったうえで言っているのだから、質が悪い。
時間にして、午後1時半。千翔が来るまではあと3時間ほどある。彼女に会うのを待ち遠しく思っている私がいた。
そんな中、不意に病室のドアが開く。白衣が目に入ったので主治医だと思い顔を上げれば、そこには黒髪を一つに結った知的な女性の姿があった。
「一条! 本当に目が覚めたんだな」
そう言って、合崎とは反対側のベッドサイドの椅子に座り、にこにことこちらを見つめてくるのは、他でもない雪柳塔長だ。「白」の第二位の権力者がこんな昼過ぎにふらふらしていることに呆れるが、追い返すわけにもいかず私も曖昧に微笑む。せめて、柊がいてくれたら適当にあしらってくれただろうに。
「回復して何よりだな! 幹部会の人間も一条のこと心配していたんだぞ」
私は小さく微笑んで、端末に「ありがとうございます」と打ち込んだ。それを見た塔長は、酷く心配そうに私を見つめる。
「……声、出なくなってしまったのか?」
「一時的なものらしいです。直に治ります」
合崎がすぐさま代弁してくれた。それを聞いた塔長は安堵の表情を見せた。院長に次ぐ、第二位の権力者のくせに表情の豊かな人だ。
「そうか、それならよかったよ。ゆっくり治すんだぞ」
そう言って笑うと、塔長はそのまま合崎に視線を移す。
「合崎、お前も良くなったようで何よりだな」
「……そうですね」
塔長とは対照的に、合崎は彼女から視線を逸らし、曖昧な返事をする。
「ちゃんと病室の手配もしていたんだが……この分じゃ入院は必要ないな。回復傾向にあると思うよ」
「回復傾向になくても、入院する気なんてありませんでしたよ」
薄く笑う合崎に、塔長は呆れたように溜息をついた。一方で私は、二人が何の話をしているのかいまいち掴めずにいた。完全に蚊帳の外だ。
「まあ、一番の精神安定剤がここにあるんだから、仕方ないか」
塔長は横目で私を一瞥する。精神安定剤と言われて辺りを見渡すが、視界に映るのは点滴の袋ばかりで、それらしき薬は見当たらなかった。
「幹部会ではみんなが懸念していたよ。精神安定剤に先立たれたら、合崎まで使い物にならなくなるって」
「……あんまり、憐の前でそういう話しないで貰ってもいいですか」
「優しい兄もあったものだな」
塔長は意味ありげな笑みを見せて、私と合崎を見据える。
「帝国に言わせれば歴史に残る失策、でも、私に言わせれば帝国がお前に与えた唯一の贈り物だな」
疑問を抱く部分が多すぎるが、聞くに聞けない雰囲気だった。塔長は再び私に視線を向けると、にこりと笑んで見せる。
「急に邪魔して悪かったな、一条。悪いが合崎のためを思って、当分の間はこいつと一緒にいてやってくれ」
よくわからないが、彼女の頼みを断れる立場にあるはずもなく私は微笑みを返しながら頷いた。塔長は私のその反応を満足げに眺めた後、席を立って合崎を見下ろした。
「あんまり執着しすぎると、嫌われるぞ。――診察は終わりだ」
「ご忠告どうも」
塔長は来た時同様に、颯爽と去って行く。常日頃から何を考えているのかよくわからない人ではあるが、今日は特に訳が分からなかった。もっとも、この場で話を理解していないのは私だけだったのだが。
去り際に、彼女が言った「診察」とは何だろう。彼女は若い頃は精神科医として勤務していたと聞く。私の精神疾患を疑ってきたのだろうか。
いや、それよりも。私は視線を伏せたままの合崎を見つめる。病室の手配、回復傾向、精神安定剤。それらのワードからして、疑うべきは合崎の方だろう。どうしようもない不安に駆られ、私は端末に手を伸ばす。
しかし、その手が端末に触れることは無かった。端末に伸ばした手を、合崎に掴まれてしまったからだ。驚いて視線を上げると、伏目がちだった合崎の目と目が合った。
「――……今の話は、聞かなかったことにしろ」
有無を言わせぬ威圧的な瞳だった。支配者の目だと、改めて実感する。言葉を表現するツールを奪われた私にとって、それ以上の反撃は不可能だった。聞かれたくないことならば、無理に尋ねる必要もない。
「――……悪いな」
合崎は、どこか儚い表情で笑った。繋いだ手は、ほんのりと温かい。今は、この温もりを実感できるだけで充分だ。
午後4時半を過ぎたころ、私は今か今かと千翔の来訪を待ちわびていた。合崎はベッドサイドの椅子に座り、澄ました顔で読書をしている。
「……少しは落ち着いたらどうだ? そのうち来るだろ」
呆れたような合崎をよそに、私は病室のドアが開かれるのを待ちわびていた。初めに彼女にどんな言葉をかけるべきだろう。やはり、心配させてしまったことに対する謝罪だろうか。
瞬間、不意に病室のドアが開かれる。ドアの先には、学院の白い制服を纏った少女が立っていた。
「憐姉様!」
華やいだ声が私の名を呼んだかと思うと、千翔は迷うことなくこちらに駆け寄りその勢いで抱きついてきた。彼女が手に持っていたらしい人工花の花弁が私たちを包み込むように舞う。
「憐姉様ぁ! 良かった……目が覚めて……!」
突然のことに思考を奪われていた私は、ようやく状況を理解して微笑みを返す。涙ぐんだ千翔の声を聞く限り、彼女には相当心配をかけてしまったようだ。
「……ただいま、千翔」
駄目もとで出してみようと思った声が、意外にもはっきりと発声された。自分でも驚きを隠せない。一日喋るのを我慢していた成果が出たのかもしれない。
「お帰りなさいませ! 憐姉様!」
ベッドのシーツの上には、千翔が持ってきたらしい人工花の花束があった。彩は鮮やかながらもどこか可憐だ。彼女のセンスが光っている。
「……感動の再会のところ悪いけど、俺がいることを忘れてないか?」
完全に千翔に相手にされていない合崎が、ふてぶてしくそう言い放つ。なんだかんだ言って、合崎は千翔をとても可愛がっていることを私は知っていた。「妹」に相手にされなくて拗ねている合崎なんて、なかなか見られないレアなものだ。
「あ、空兄様、羨ましいんですか? 一緒に憐姉様をぎゅってします?」
「そんな気恥ずかしいことはお断りだ」
「またまた、照れちゃって! ほら、一緒にぎゅってしましょう」
千翔は合崎の手を引くと、私を抱きしめるように促す。合崎は渋々といった調子で私と千翔に腕を回した。
いつの間にか、私と千翔を同時に抱えられるくらい背が高くなったのだなと、彼の腕の中で思った。こうして三人で身を寄せ合うのなんて、何年ぶりのことだろう。思わず嬉しくなって、声を出して笑ってしまう。二人の体温がとても温かく感じた。とても安心する。
「帰ってきたんだなあ……」
合崎の肩に頭を寄せ、千翔の頭を撫でているとその実感が湧いてくる。普段は合崎の言う通り、気恥ずかしくてこんなことは出来ないが、たまにはこんな風にくっついてみるのも悪くないかもしれない。心が安らいでいるのを感じながら、私は軽く目を閉じてこの温かい時間を堪能した。




