第38話
何の前触れもなく、笑顔の千翔が消え去る。今度は、「白」の応接室の光景が浮かび上がった。目の前には、ようやく20歳を迎えたばかりの若い柊の姿がある。「実験」の日々から約一年が経過し、私と空兄様が「次期軍師」として正式に決定したころの記憶だ。
「……はじめまして。今日から君たちの教育係を務める柊晴人です」
柊は爽やかな笑顔で挨拶をすると、私たちに手を差し伸べる。握手を求めているようだった。
だが、私は反射的にその手を避けてしまった。「実験」の日々を思い出したからだ。「実験」の後から、見知らぬ大人を必要以上に警戒する癖がついており、手放しに相手を信用できるような甘い世界ではないのだと、8歳やそこらで悟ってしまったのだ。
空兄様も、握手を返すことなく冷ややかに柊を見つめている。私ほど警戒しているような素振りは見せていないが、親しくする気もないとでも言いたげな目だ。
「……僕が嫌い?」
柊は、私の目線にしゃがみ込み、不安げにそう尋ねた。そんな柊をよそに、色素の薄い柊の瞳を目の前にして、綺麗な色だと場違いな感想を抱いたことをよく覚えている。
「……知らない大人は、痛いことするから嫌い」
嫌いな大人なのに、その瞳を綺麗だと思ってしまったことが悔しくて、私はすぐに目を逸らしてそう告げた。
「――今まで、辛かったね」
たった一言、柊は震える声でそう言った。そのまま視界の端で柊が涙ぐむのを見て、思わず彼の方へ向き直ってしまう。
向き直った先で、柊は両目に涙を溜めて私たちを見つめていた。今まで、口だけの同情を述べた大人は沢山いた。だが、柊のように涙を浮かべた大人は一人もいなかった。もっともこの時まだ20歳の柊は、大人と呼ぶには未熟すぎるのかもしれないが、10歳に満たない私たちから見れば十分に大人だった。
私たちのために泣く大人が、この帝国にいたなんて。これには流石の空兄様も動揺したようで、柊のことをじっと見つめていた。
涙を浮かべる柊の瞳は、酷く美しかった。色素の薄い瞳が滲んで、その色が溶けだしてしまうのではないかと思うほどに。端整な容姿が一層儚さを増して、私は完全に彼に目を奪われていた。見目も、心の中も、こんなにも綺麗な人がこの世界にいたのか。驚きというにはあまりに拙く、頭の中を撃ち抜かれたような強い衝撃を受けた。
気づけば私は、柊の傍に歩み寄り、その目に浮かぶ涙を拭っていた。自分から知らない人に触れるなど、普段の私からは考えられないことだったが、そんなことよりもこの人の涙を拭ってあげたいと、どうしてかそう思ったのだ。
「……ありがとう、憐」
柊は彼の頬に添えた私の手を包み込むように手を重ねた。とても温かい手で、初対面で呼び捨てにされたことなどまるで気にならなかった。
「空くんもおいで」
柊は今一度、空兄様に手を差し出す。空兄様はまだ完全に警戒を解いたというわけではないようで、しばらくその手を見つめていたが、やがて柊の手に触れ小さく握手を交わした。
「二人とも、今日からよろしくね。……きっと、君たちを幸せな未来へ導くよ。そのためなら何でもする」
そう言った柊の言葉には熱がこもっていた。きっと心からの誓いだったのだろう。一介の教育係にしては過分な誓いだったが、柊の優しさを知った今ならばそれも理解できる。彼は必死に、私たちに寄り添おうとしてくれたのだ。
綺麗だけれど、変な教育係だ。柊に手を引かれながら思ったのは、そんなことだった。これまでの私たちをどれだけ知っているのか分からないが、少なくとも今までの大人たちとは違う。私たちの手を引く柊の表情はやけに楽しそうで、無理に手を離すこともできない。完全に彼のペースに乗せられていた。けれどもそれが不思議と心地よく、私たちの関係はこの頃とそう変わらないまま、今日まで続いていたのだった。
孤児院の光景や千翔と同じように、やがて柊も姿も見えなくなった。あっという間に今まで見えていた光景が消えていく。そうして私は、暗闇に一人取り残された。
これがいわゆる、走馬灯というものだったのだろうか。私の記憶力のせいなのか、やけに鮮やかな走馬灯だった。もう二度と、あの人たちに会うことは無いのかと思うと、どうしようもなく寂しくて仕方がない。まだ伝えきれていない想いが、言葉があまりにも多すぎる。後悔ばかりが積み重なっていった。
もしも、死後の世界があるのならば、私はどんな罰を受けるだろう。私がこの手で奪ってきた何十人もの命は、何をすれば償えるのだろう。待つのはやはり、深い苦しみだろうか。安らかに眠ることすら、私には許されないのだろうか。
そもそも、私が生まれてきたことは正しかったのだろうか。望まれて生まれた命だったのだろうか。私は、まだ何も知らない。本当の名前も幸福も愛も、何も知らないのだ。
こんなことになるのならば、最後に千翔に会ったあの時、一度くらい抱きしめてあげればよかった。私にはもったいないくらいに慕ってくれる彼女に、もっと応えてあげるべきだった。
柊に、伝えなければならない言葉があった。もっと彼の話を聞きたかった。彼の子どもの頃の話も、どうして甘いものが好きなのかなんていう他愛もない話も沢山したかった。
私は最期に、空兄様に何を言うべきだったのだろう。好きか嫌いで割り切れるような関係ならば、言葉に迷うこともないのだろうが、私たちの関係はそんな清々しいものではない。ただ、私が彼のことを最後まで大切な人だと思っていたのは確かだ。せめてその気持ちだけでも伝えるべきだったのかもしれない。
空兄様も、もう、死んでしまっただろうか。私と同じようにこんな暗闇で怯えながら走馬灯を見ているだろうか。
その時に、一瞬でも私のことを思い出してくれただろうか。
暗闇の中、自分の形さえ分からないのに私は泣いていた。涙が伝うような感覚は、消え入りそうな意識の中でも僅かに残っていた。私はいつまで、ここでこうしていればいいのだろう。
そんな嘆きと共に塞ぎこみそうになったその刹那、不意に暗闇が崩れだした。崩れた暗闇の後ろから、先ほどまで見ていた走馬灯のような鮮やかな記憶が姿を現す。やがて、揺らめく鮮やかな記憶は、見つめる間もなく音を立てて崩壊を始めた。バラバラと乾いた音の中に、記憶の中の声や音が混ざって不快な騒音になり果てる。耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、実体のないこの意識の世界では無理な願いだった。
数えきれない色と音が、崩れ落ちては溶けていく。それと同時に、僅かに残された意識さえもだんだんと遠ざかる感覚に襲われた。抗う術もなく、私の意識はみるみるうちに小さくなっていく。
これが、死ぬということなのだろうか。思っていたより苦しくはないが、酷く怖かった。嫌でも子供みたいに涙が零れ落ちる。砂時計の砂と共に落ちていくような感覚だ。そうしている間に、突如として抗いがたい強烈な眠気に襲われる。
憐。
崩れ行く記憶の中の声なのか、私の名を呼ぶ声がした。
憐、死んじゃ駄目だ。
騒音の中でも、その声だけははっきりと聞こえた。その声と共に、微かに電子的な機械音やアラーム音も聞こえてくる。「白」で暮らしていれば嫌でも分かってしまう。あれは医療機器類の電子音だ。
憐、駄目だ。
まだ、眠っちゃいけない。
その声は、誰だったか。もうはっきりと思い出せない。ただ、とても大切な人の声だということだけは感覚で分かった。その間にも、複雑な思考は奪われ、次第に恐怖さえも薄れ始めた。
憐、お願いだ。
戻ってきてくれ。
その瞬間、強く手を握られた気がした。消えかけていた意識が少しだけ明瞭になる。瞬間、暗闇の奥深くに小さな光が見えた。そこから手を引かれる感覚だ。
私はその手に引かれるままに、眠気に抗えずふっと意識を失ってしまう。ただ、閉じた瞼の外側で次第に光が強くなっていくのを感じていた。




