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スノードームを殺してくれ  作者: 染井由乃
第1章 空の憐れみ

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第37話

「空兄様、これはなあに?」


 幼い日の私と空兄様の姿がぼんやりと浮かび上がる。これは確か、孤児院で眠る前に絵本を読んでいた時の記憶だ。まだ「実験」が行われる前の美しい日々しか知らない私は、空兄様に懐く無邪気な少女だった。


 幼い私は古い絵本に描かれた青白い丸いものを指さしていた。その背景には、紺色が一面に広がり、時折銀色の小さな粒が照明の光を反射して光っていた。


「こんな本、良く見つけたね。……これは、『外』の世界のことが描いてあるんだよ」


「『外』? なにそれ?」


 空兄様は少し笑って、幼い私の隣に腰を下ろした。


「僕たちが暮らす帝国の外側にも、世界は広がっているって先生が言ってた。この絵は帝国の外の世界のことを描いているんだって」


「なにそれ! 憐、行ってみたい!」


 幼い私が華やいだ声を上げる。一方で空兄様は困ったように私を見ていた。


「でも、『外』へ行くとみんな死んでしまうよ。だから、きっと無理だと思う」


「ええー? でも、憐行きたいもん! 行ってみたいっ!」


 駄々をこね始める私の頭を、空兄様の手がそっと撫でる。彼は幼いながらも、どこか大人びた雰囲気のある少年だった。


「駄目だよ、憐。死んじゃうよ」


「みんなは死んじゃうかもしれないけど、憐は大丈夫かもしれないでしょ?」


「どうかなあ、人はみんな死んじゃうからなあ」


「じゃあ、空兄様は? 空兄様は大丈夫かもしれない!」


 その言葉に空兄様は瞳を翳らせた。まだ10歳にもなっていない少年の目ではなかった。今の合崎の瞳を思わせる憂いを秘めた色を浮かばせる。


「……そうかもね。僕は人間じゃないって、前の施設のみんなは言っていたし」


「ええ!? なんで!?」


 ひどく驚いた様子で、幼い私は目を見開く。彼は暗い目のまま、小さくふっと笑ってみせた。ひどく寂し気なその表情に、どうして私は気づかなかったのだろう。


「……前にいたところでは、先生もみんなも、僕を死神の子だと言っていた」


「死神って、この前の絵本に出てきた黒い服の人?」


「そうだよ」


「だって、あの黒い服の人……誰かが死んじゃうってわかってても何もしなくて……みんなから嫌いって言われて、いっつも一人ぼっちで……」


「まさに、僕のことだよね」


 彼は何でもないことのように笑った。幼い私は急にしょんぼりとする。


「そんなの……嫌だよ! 空兄様すきだもん、一人ぼっちになんかならないよ!」


「……どうかな」


 子供のわりに随分と冷めた表情で彼は吐き捨てる。その目は、何に対しても期待していない、諦めに近いものだった。


「大丈夫だもん! 憐がひとりにしない! ずっと空兄様のこと、だいすきだから!」


「……そんなの、無理だよ。僕らはいつか大人になるから」


「無理じゃない! 大人になってもずっと、空兄様と一緒にいるの!」


「いつまでも一緒、なんていうのはお話の世界のことなんだよ、憐」


「そんなことない!」


「憐――」


「一緒にいるんだもん!」


 遂に私は、声を上げて泣き出してしまう。明らかに困惑する空兄様の前に、孤児院の先生が駆け付ける。


「ちょっと、空くん! どうして憐ちゃんのこと泣かせるの!」


 理不尽なお叱りを受け、空兄様は納得いかないとでも言いたげな表情をする。だが、分が悪いと感じたのか泣きじゃくる私の頭を撫で、暗い目のまま笑った。


「ごめんね、憐。……憐には、幸せに生きてほしかっただけなんだよ。僕と一緒だと、憐は多分――」


 幸せにはなれない。


 最後に彼がそう言ったのをよく覚えている。幼い私にその意味が分かるはずもなかったが、今思えば彼は覚悟していたのだろう。「終末がみえる」という能力を、帝国が放っておくはずもないと気づいていたのだ。自由が許されるような身の上でないことを、僅か8歳で彼はきっとわかっていた。




 突如として、一気に孤児院の光景が消え去り、今度は幼い千翔の姿が浮かび上がった。これは確か「実験」から9か月が過ぎたくらいの記憶だ。私と空兄様は一緒にいるものの、二人の間に会話はなく、背中合わせに別々の本を読んでいた。話す言葉もないのに、離れることは出来ない。今の私たちとよく似た関係が既に出来上がりつつある。


 そんな私たちから少し離れたところで、幼い千翔が男の子たちに結った髪を引っ張られたり、積み木を投げられたりしていた。生憎、この場に先生の姿は見当たらない。幼い千翔の泣き声だけが、か弱く響いていた。


「ねえ、なんでお前、肩に番号ついてんの?」


「ほんとだ! 625? なんだこれ」


「きっと悪いことしたんだよ、なにしたんだ?」


 抗うこともなくただただ泣き続ける千翔の右肩には、確かに黒で「625」と刻まれていた。このように番号を刻まれた子供たちを見ることは、時折あることだった。


 もっとも、その番号の意味を知ったのは私が孤児院を出た後のことである。いわゆる闇ブローカーによる人身売買の「商品」だった子どもたちが肩に商品番号を刻まれていたのだ。闇ブローカーによる人身売買は珍しいことではないが、摘発される際にブローカーの手によって「商品」は殺処分されるケースが殆どであり、生きて保護される子どもの数はとても少ない。


 しかしながら、その番号の意味するところを知らずとも、「実験」を経験した後の私には、それが千翔にとってコンプレックスとなり、何かしらの忌むべき証なのだということが分かってしまった。ただのからかいであれば、放っておくところだが、私は分厚い本を片手に千翔を囲む男の子たちの方へ歩み寄る。


「――なんだ? お前――」


 相手の言葉を遮るように、私は手に持っていた分厚い本で思いきり相手の頭を殴った。この時の私は、言葉よりも先に手が出るタイプだったようだ。不意打ちを食らった相手は、よろめいてその場に座り込む。


「お前! よくも――」


 間髪入れずに、遠心力を利用して、反撃しようとしてくる相手の顔を本で殴る。ぽたぽたと、男の子は鼻血をだして茫然としている。


 それと同時に空兄様が、三人目の男の子の背後から奇襲を仕掛け、睨むようにして彼らを追い払っていた。このころから、私たちの黒歴史は始まっている。


 千翔は、ぽかんとして呆気に取られているようだった。目には透明な涙が一杯に溜まっている。


「……大丈夫?」


 無愛想に私は千翔を見下ろして呟いた。彼女は涙を拭いながら顔を上げ、私と視線を合わせる。やがてその瞳には、明るく澄み切った光が差した。


「――はいっ!」


 千翔は元気よく返事をして、満面の笑みを見せた。涙の名残が目尻に溜まり、照明の白い光を反射して煌めいていた。忘れもしない。これが千翔との出会いだ。

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