第36話
あまりの激痛に、ふっと目が覚めたように視界が少し明瞭になる。違う、此処は非現実ではない。彼が、幻覚ではないということは、ここにいるということは、つまりどういうことなのだろう。
「――っ」
「憐……!? どうした、痛むのか……?」
夢から覚めたように、ぱっと視界が明るくなる。目の前には、私に顔を寄せて、酷く心配そうな目でこちらを見つめる合崎がいた。その現実を受け止めるなり、ただでさえ出血しているのに、更に血の気が引いていく。
「……合崎? なん、で……」
合崎は少し困惑したような顔をした。「一条」の自我が急に戻ったからだろうか。
「……憐を一人残して行ける訳ないだろ」
「だ、って……シャッター閉まって……」
「完全に閉まる直前に滑り込んだ。今思えば、なかなかスリルのある行為だったな」
彼はいつも通り、余裕たっぷりな笑みでそう言った。こんな状況でも、合崎は合崎だ。
「……馬鹿っ! 馬鹿だっ! お前は……帝国一の愚か者だ! こんなところに、いたら……お前まで……」
「喧しいな、あまり大声を出すと余計に出血するぞ」
溜息交じりに彼は無愛想な声で言う。聡明な彼に限って、この状況が何を意味するか分かっていないはずがない。
「シャッター……閉まったんだぞ……。逃げ、られないじゃないか……」
「そのようだな」
「この、ままじゃ、合崎まで……」
「死ぬだろうな」
何でもないことのように、彼は笑った。本当にどうしようもない奴だ。涙が滲む。やりきれなさが胸の痛みに重くのしかかった。どうしてこんなにも悲しいのだろう。今にも涙が溢れそうだった。
「……泣くのか?」
「ああ、お前の、せいでな……」
「どうして?」
彼は意地悪く笑って再び顔を寄せる。この状況でよくもそんな余裕があるものだ。彼は、死ぬのが怖くないのだろうか。
「……言うものか」
「そうだな。それを聞いてしまったら、未練もなく安らかに死にそうだからやめておくよ」
憎々しいほどに、合崎はいつも通りだった。彼の手がそっと私の頬に添えられる。
「憐、痛いか?」
「まあ、ね……」
「……とても苦しそうだ」
合崎は、私の乱れた髪をそっと耳にかける。壊れ物に触れるような、優しい手つきだった。
「……私は、あと、どれくらい、だ……?」
霞む合崎に向かって、何とか微笑みかける。彼の目は、じっと私を見つめていた。私の終末を見据えているのだろう。やがて、その瞳が苦し気に揺れる。
「……あと、11分だな」
「……合崎、は?」
「俺はあと20分くらいだ」
もうすぐ、こんな痛みからも解放される。それを知っていくらか気が楽になった。死ぬのが怖くないわけではないが、こうして合崎が傍にいてくれるだけで、かなり心は落ち着いていた。悔しいが、いつまで経っても合崎は私の大切な人なのだ。
「……千翔が、可哀想だな。私も……空兄様もいなく、なって……」
「そうだな。……きっと泣くだろうな」
脈打つ度に、意識が遠のくようだ。目を閉じてしまえば、二度と何も見えなくなるだろう。もう空兄様の笑顔を見ることも叶わなくなる。
その前に。すべてが、手遅れになる前に。
そっと空兄様に手を伸ばすと、急激に呼吸が乱れた。負傷した胸の辺りが焼けるように痛い。思わず胸を押さえた。
「――憐! どうした? 苦しいのか?」
もう終わる。自分でもそんな気がした。本当の死は11分後でも、きっと意識は先に絶えてしまうだろう。霞む視界に涙が滲んだ。
「……空、兄様」
「……大丈夫だ、ここにいるから、憐」
彼の顔が、泣き出しそうなほど悲痛なものに変わる。私の手を握りながら、いつになく彼は必死だった。こんな空兄様は珍しい。私はそっと、「憐」として笑いかけた。
「……笑、って」
「――え?」
「……笑って、ほしい、の。空、兄様……」
「憐……」
空兄様の目が、戸惑うように揺らめく。こんな状況で、無理を言っているのは分かっている。だが、これが私の最期の我儘だ。
「早、く……。見えなく、なるから」
もう、意識はいつ途絶えてもおかしくなかった。だが、最後に彼の笑顔を見るまでは、この生を諦めてはいけない。
やがて彼は決意したようにじっと私を見つめると、ゆっくりと顔を近づけてきた。そのまま何の前触れもなく、口付けられる。予想外の行動に驚くが、もう、何の反応もできなかった。
そうして彼は少しだけ顔を上げて、微笑んでみせた。その深い色の瞳には、温かな光がある。泣き出しそうな悲しみを堪えて、不器用に笑う空兄様の優しさは痛みさえ吹き飛ばしてくれた。
「憐、俺は我儘だな」
彼は、笑いかけるような穏やかさで言葉を紡ぐ。
「こんなに苦しんでいる憐をみても……まだ憐に、生きていてほしいって思ってる。こんなところで、死んでほしくなかった」
既に、声を出すことは叶わなくなっていた。その代わりに、私は何とか微笑んで見せる。意識が、どんどん遠ざかるのを感じていた。
「でも……せめて一緒に終われてよかった。憐と一緒に死ぬことが出来て、幸せだよ」
空兄様は、解き放たれたような安らかな笑みを見せた。その笑顔が嘘のように鮮やかに目に焼き付く。私と一緒に死ぬことを幸せだと言わせてしまうなんて、あまりにも寂しい。もっと素敵なことで、彼に幸せだと言わせてあげたかった。だがそれももう、叶わぬ夢だ。
次の瞬間、涙が頬を伝う感覚と共に目の前の光景が消え去った。何も見えない。だが、不思議と怖くはない。私は最期に、囁くように彼の名を呟いた。
そうして、眠るように私の意識は消えていった。




