第32話
合崎は私からそっと手を離すと、端末で時刻を確認していた。随分と時間を食ってしまっただろう。この体で全速力で走るのは難しいだろうが、足を早めることは出来る。
先ほどの爆発のせいで使う予定だった非常階段はがれきで埋まってしまった。更に言えば、東側へ続く通路にも崩壊した壁の一部が散乱していた。所々、火が燻っているところもある。無理やり通れないこともないだろうが、耐久性に不安があった。このフロアで東側へ移動するのは控えたほうが無難だろう。
「第二エレベーターホールの非常階段を使おう。4階で東西分離シャッタ―よりも東側に移動する。……西側の崩落まであと10分程度だ」
第二エレベータ―ホールは、中央エレベーターホールと職員用エレベーターのちょうど中間くらいに位置している。つまり、今来た道を250メートルほど戻らねばならないのだ。
だが、迷っている暇はない。先に進めない以上、それが最善策だ。
私は床に落ちた銃を拾い上げ、右手に持ち替えた。僅かに手が震える。もう右手はメインで使えないかもしれない。右手が利き手である私にとっては、少々不利な状況だった。
「……傷が痛むのか?」
悲痛そうな表情を向けてくる合崎から視線を逸らし、私は余裕ぶった笑みを取り繕う。
「いいや? 全然痛くない。それより、急ごう。時間がない」
「……これからは、俺が撃つ。憐はなるべく手を動かさないでくれ」
「そういう訳にもいかないだろう。私も次期軍師なんだ。守られるのは性に合わない」
「なら、班長としての命令だ。撃つな」
いつになく強い口調だった。合崎の瞳が苦し気に揺らいでいる。役職を持ち出されてしまっては返す言葉もない。同じ次期軍師とは言えども、彼の方が学年も上で、戦場では上官の命令は絶対なのだから。
「……悪い、強く言い過ぎた。でも、頼むから極力控えてくれ。これでも心配しているんだ」
「分かったよ、別に気にしてない」
合崎は私を一瞥してから、元来た道を見つめた。その瞳の暗い光が、更に冷たさを増している。
「――行こう、なるべく足早に移動するぞ。辛かったら言え」
「了解」
あと10分。いよいよタイムリミットは迫っていた。この10分で、少なくとも西側から脱出できなければ終わりだ。だが、逆に言えばこの10分さえ切り抜けられれば生還の可能性は極めて高い。あと一息だ。
来た道を駆けだす合崎の後ろに私も続く。ガラス片やコンクリートの欠片がそこら中に散らばっていた。それらが足元で砕け散る音を聞きながら、私たちは第二エレベーターホールへ急いだ。
第二エレベーターホールまでの道のりは、来た道を戻るというだけあって何事もなく進むことが出来た。目的の非常階段のドアを見つけるなり、非常灯に照らされた白い階段をかけ降りていく。合崎は時折、私を振り返っては様子を確認しているようだった。酷く心配そうなその目は合崎というより「空兄様」のものに近い。
4階まではすぐに辿り着いた。安全確認をしながらフロアに降り立った瞬間、再び爆発音が響く。今度は下のフロアからだ。先ほどよりも大きな振動を感じる。
「……今度は何階だ?」
「はっきりとは分からないが、時間的に恐らく2階だろうな」
合崎のその答えに胸騒ぎがした。3階以下には、まだ学院の生徒が残っていてもおかしくはないのだ。爆発に巻き込まれていなければいいのだが。
「……人の気配がない。好都合だ。一気に東側まで移動しよう」
「了解」
合崎の指示に従い、私たちは東西分離シャッターの向こう側にある、中央エレベーターホールの非常階段を目指した。4階は既に随分と荒れ果て、人影は見当たらない。廊下中に散らばった書類や研究器具、点滅したまま放置されているディスプレイ、不自然に断線した電子回路や割れた窓ガラスは何を意味しているのだろう。私たち以外の学院の生徒が4階以上に上がってくる可能性は考えにくいので、銃撃戦があったというわけでもなさそうだ。証拠隠滅でも図ったのだろうか。
このフロアも温度設備は停止しているようで、冷気が漂っていた。5階よりも心なしか寒い。低い温度は右肩の傷に応えた。出血はそれほどではなかったものの、傷自体は思ったよりも深そうだ。私は左手で右肩の傷を押さえた。グローブ越しに、生暖かい血液が滲むのを感じる。妙に気色悪い感触だった。
不意に、両肩に重みが加わったかと思うと、見慣れた黒い制服の上着がかけられた。思わず、隣に立つ合崎を見上げる。彼は学院指定のワイシャツ姿で、血飛沫の付いた群青色のネクタイを軽く緩めていた。
「何のつもりだ、合崎。見ていて寒そうだぞ」
「汚れていてすまないが、預かっておいてくれ」
この寒さだ。どう考えても、上着を羽織らないのは体に悪い。
「……少しは自分の身を案じろ、馬鹿」
「その言葉は、さっきの一条にそっくりそのままお返しするよ」
彼は薄く笑って、着々と射撃準備を行っていた。研究員たちに巡り会ったわけでもないのに、準備が早い。
「――俺はこれから最低限ではない防衛を行う。多分、非人道的だろうからあまり見ないでくれ。一条は俺の後ろにいろ」
合崎は何でもないことのように淡々と言葉を口にするが、聞き流せる内容ではなかった。
「最低限ではないって……お前……」
ふと、合崎は俯き気味に笑った。その横顔が、錯乱状態のときの彼の表情とよく似ていて胸が痛む。彼は本気だ。その目を見ればわかる。
「――後で好きなだけ軽蔑すればいい」
彼は暗い瞳で私を一瞥して再び笑った。その声の冷たさに、何も言えなくなる。
「準備は整った。行くぞ」
そう言って合崎は物が散乱した廊下を駆けだした。私も合崎の上着を軽く左手で押さえながらその後に続く。上着が一つあるだけで随分と温かかった。彼の不器用な優しさが、温もりと共に身に染みる。
私はいつだって、彼に守られている。その上、彼に余計な心配までかけてしまう。きっと足手まといだろう。早く、彼の隣を走れるような「次期軍師」にならなければならない。そう決心しながらも、何だかこの背中にはいつまで経っても敵いそうにないと感じるのもまた事実だった。




