第30話
先ほどの銃撃戦で人員が減ってしまったのか、研究員たちの足音を聞くこともなく、私たちは休憩室へ辿り着いた。
午後4時5分。合崎の言う崩落開始まではあと3分ほどしかない。整然とした休憩室には、デザイン性の高いテーブルや椅子がいくつも並べられていた。銃撃戦を繰り広げた後では、こんな何気ない光景さえも非日常的に見える。
合崎はタッチパネルに触れ、職員用エレベーターを呼び出していた。彼が触れた部分にも、赤い液体が残る。
合崎は俯いたまま、何を見つめるでもなく視線を伏せていた。返り血に塗れた彼の姿は、どうしようもなく痛々しい。彼は私よりもずっと強いはずなのに、いつでも壊れてしまいそうな不安定さを漂わせていた。
二人の間に流れる沈黙は、穏やかなものではなかった。いつになく重苦しく感じてしまう。だが、切り出す言葉も見つからなかった。何を言っても不謹慎で、実のない言葉になる気がしてならないのだ。私はただ、合崎の隣で立ち尽くすことしかできない。
そうしているうちに、エレベーターのドアが開いた。業務用のエレベーターなので、飾り気のない質素なものだ。無言で乗り込むなり、合崎はディスプレイの「5F」と表示された部分に触れると、再び視線を伏せた。私の存在さえ、空気と同化させているようなそんな隔たりを彼から感じる。
でも、そうすることで合崎が自分を見失わないのならば、それで構わなかった。彼は私と違って感情の抑制が上手だ。
一方の私も、自分の中で蘇ろうとする鮮烈な赤を押さえつけ、思考を置き去りにし、無関心な振りをすることで正気を保っていた。ここでフラッシュバックでも起こればすべて終わりだ。ぎゅっと握りしめた小銃の冷たさに、ここが現実なのだと思い知る。
「降りるぞ。射撃体勢をとれ」
「了解」
合崎の指示に従い、私はすぐさま彼と左右に別れ、ドア付近に身を寄せた。人口知能の声が到着を知らせる。合崎は今までと同様、周囲の安全確認を行った。
「大丈夫だ、行こう」
彼のその言葉に続いて、薄暗い5階へと足を踏み出した。
5階に残された光源は、廊下の足元に一定の間隔で取り付けられた青白い誘導灯と、「非常口」と書かれたパネルから発せられる緑色の光だけだった。予想通り、一大プロジェクトが終わったばかりの5階には人の気配を感じない。
私たちは非常階段を下りるよりも先に、東側のフロアへと移動することにした。人が多い下のフロアで東側まで移動するのはリスクが高い。最初の崩壊まで、もう1分を切っていた。
私たちは、人気のない広い廊下を走り続ける。10メートル先は暗すぎて何も見えないが、人の気配の有無だけは常に注意していた。寂れたフロアに二人分の足音が響き渡る。仄暗さが何とも不気味だった。それに、温度調節機能を切っているのか、どことなく冷えた空気である。僅かに肩が震えるような、不快な温度だ。
ガラス張りの部屋を通り過ぎる度、視界の端に歪んだ影が映った。千翔がこの場にいれば、きっとこの不気味な雰囲気に泣いてしまっているだろう。今回の作戦から千翔が外されたことは、つくづく幸運であったと思う。彼女にはできるだけ、こんな醜い場所には踏み入ってほしくない。あの澄んだ瞳で、返り血を浴びたこの姿を見てほしくない。
やがて、職員用エレベーターと東西の境にある中央エレベーターの半分くらいの所まで来ることが出来た。ここまでで、エレベーターを降りてから1分半ほどが経過している。
そして、遂に崩壊が始まった。鈍い爆発音とともに、建物が僅かに振動する。音の方向からして上の階だ。ほどほどに離れているように感じた。
「始まったな」
足を止めることもないままに、合崎は告げた。上の階ならば学院の生徒たちが負傷するようなことはないだろうが、この先は分からない。どのみち、西側の崩落まではあと15分ほどなので、安心できるような状況にはなかった。
このまま誰にも会わず、脱出だけに集中できるのならば、この建物から出ることは余裕なように思われるが、そう上手くもいかないだろう。再び銃撃戦が繰り広げられることも覚悟する必要がある。
私たちはそのまま、無言で走り続けた。もうすぐ、中央エレベーターホールに辿り着く。そこからロビーまで、命を散らすことなく非常階段を降りられれば、生きて帰ることが出来る。心地よい白を、甘いレモンティーを、どうしようもなく恋しく思った。
そんな中、ふと合崎がスピードを緩める。彼は左手で私の行動を制した。集中すると確かに20メートルほど前方に人の気配を感じる。彼は私に視線を送り、警戒態勢に入るよう促した。無言で頷きを返し、銃を構える。
何人かいる。微かに聞こえ始めた足音と気配からそう感じた。この薄暗さでの銃撃戦は正直に言って不安だ。「至心の広間」の人数に比べたら極端に少ないが、不安はこちらの方が大きい。明瞭な視界が半径10メートルの範囲にしかないのだから当然だろう。プロの軍人でも至難の業だ。
足音が近づいてくる。私も合崎も、射撃体勢に入った。もう、非常階段は目と鼻の先だ。会談での銃撃戦には極力持ち込みたくないので、ここで決着をつける必要がある。
ふと、足音に混じって聞いたこともない不思議な旋律の歌が聞こえてきた。女性の美しい歌声だった。物悲しいくらい綺麗なその旋律は、人を惑わすような魅力的な何かがある。
「――『影』の宗教歌のようなものだ。あまり聞き入るな」
合崎が小声で警告してくれる。「了解」と小さく頷きながら、銃を握る手に力を込めた。知覚による一種の洗脳のようなものだろう。音楽には殆ど知識はないが、「外」の世界があったころ、多くの組織がそのような手段で思想を広めていたことはよく知っている。「歌、教典などによる洗脳」は帝国の定める法律で厳しく禁じられている事項の一つだが、「影」にとってはそんなものを守る義理もないのだろう。
次第に近づいてくる歌声に、思わず身構えた。何処か冷たささえ感じるほどの美しい歌声は、脳髄にまで響き渡るようだ。やがて、淡い誘導灯が彼らを照らし出す。
立ちはだかったのは、5名の研究員だった。暗がりに浮かぶ彼らの瞳は、周りの闇よりも深く染まっている。何かに憑りつかれたような、焦点の定まらない目をしていた。
5名くらい、何てことはない。私たちは暗がりを背にして立ちはだかる彼らに銃口を向けた。




