第29話
※この回には残酷な表現を含みます。
入り組んだ廊下を私たちは音もなく駆け抜けていた。研究員に出会ってしまえば、もう話は通用しない。私たちがデータを盗んだことも、三大明証が発見されたことも、そろそろ知られていてもおかしくはない頃合いなのだ。まず間違いなく、平和なやり取りにはならないだろう。その緊張感が一層集中力を高めていた。
この2分ほどで私たちは予定している道のりの半分を移動していた。幸先がいい。
例のごとく合崎は、曲がり角で身を寄せて次に行く道の安全を確認していた。大きな通路の方から、慌ただしい足音と怒鳴り声が聞こえてくる。
「――捜されてる」
合崎は小声で呟いた。それも当然のことだ。警戒しているとはいえ、何か所の監視カメラには映ってしまっている。素早く移動を行うためには、止むを得なかったのだ。
相手は「影」の信者。出会えば恐らく本気で私たちの命を狙ってくるだろう。
足音が遠ざかるのを待つが、次々に新しい研究員が通り過ぎていく。埒が明かない。時間ばかりが過ぎていくことに焦りを感じ始めていた。
合崎はそんな私の心の内を汲み取ったのか、諦めの混じった溜息をついた。
「……仕方ない。強行突破する。射撃は最低限の防衛に留めろ」
「了解」
強行突破は極力避けたい手段ではあるが、西側の崩壊が迫るこの状況では恐らく正しいだろう。私たちはあと10分強でエレベーターに辿り着く必要があるのだから。
合崎は躊躇いも見せずに角を曲がった。その後に私も続く。すぐ隣の廊下では、研究員たちの足音が響いていた。周りは敵だらけだ。
普段、馬鹿みたいに嘆き暮らしている自分の部屋がいかに安心できる場所なのかを今になって思い知る。銃撃戦が始まる予兆に満ちた不穏な空気は、余計に不安を駆り立てて酷く不快だった。
最低限の安全確認をしながらしばらく走り続けていると、閑寂とした半円状の広間に出た。一点の曇りもない白い壁と、冷たささえ感じる高貴な銀色のラインで統一された美しい部屋だった。
この広間は5つの廊下と繋がっており、廊下と反対側の直線部分の壁には音森財閥のロゴマークと社訓が記されていた。記憶の中の見取り図と照らし合わせて考えると、ここは「至心の広間」と呼ばれる場所だ。入社式や特別な式典を行う場所らしい。
ここまで来れば、あと200メートルほどで職員用エレベーターに着く。もう一息だ。ここにも無数の監視カメラが設置されていることは予想がつくので、早急に立ち去るに越したことはない。
私たちは広間に繋がる5つの廊下の中から、目的の廊下へ向けて歩き出す。
その瞬間だった。
5つの廊下全てから、足音が響く。それも、かなりの人数だ。私と合崎は、僅かに後退して銃を構える。
広間に現れたのは、拳銃や機銃を手にした研究員たちだった。逃げる術も時間もなく、私たちは音森財閥のロゴマークを背にして立ち尽くす。銃口は明らかに私たちに向けられていた。
「射撃準備だ」
肩が触れ合うほど近くに立った合崎は小声で指示を出した。
「先方の攻撃が確認され次第、防衛に入る」
「了解」
研究員たちは半円を描くようにして、私たちを取り囲んだ。その銃口の数は、ざっと見て30はある。皆一様に白衣を纏い、私たちを見つめていた。その姿が、「実験」の日々の白衣たちの姿と重なって、思わず唇を噛む。
口火を切ったのは、私たちのちょうど正面に立つ男性だった。まだ随分と若い。柊と同年代くらいだろうか。その男性は意味ありげに笑ってみせた。
「このフロアに足を踏み入れたらいけないと、先生に言われなかったのか?」
彼らは着々と射撃準備を整えている。一気に30人を相手にするのか。流石に身構える必要がありそうだ。彼ら何人分が、合崎一人分に相当するだろう。全員纏めて合崎三人分くらいの強さであれば、合崎と二人でならどうにか切り抜けられそうなものなのだが。
「影に惑わされてはいけないと、母親に教わらなかったか? 狂信者どもめ」
合崎が憎たらしいほどの余裕を含んだ笑みで応える。死線上に立っているようなこの状況で、研究員を挑発する合崎の気が知れない。
――人は、窮地に陥ると何をするかわからない。
そう言った柊の言葉を、合崎は忘れたのだろうか。研究員たちは明らかに不快な表情を浮かべている。そんな彼らに構うことなく、合崎はにやりと笑ったまま
続けた。
「憐れなるは敗北者だな。せいぜい、死線の先で大好きな母上殿に慰めてもらうといい」
研究員たちは完全に笑みを失い、殺気に満ちた目で合崎を見つめていた。一方で合崎は、小馬鹿にするような笑みを崩さない。これでは彼ばかり狙われてしまいそうだ。
何気なくそんなことを考えてからふと、それが狙いなのではないかと気づいてしまった。合崎は敢えて自分に矛先が向くように仕向け、私に向けられる弾数を減らそうとしているのではないか。
それが、私を心配して行っているものだとしたらお門違いもいいところだ。彼はいつも私を庇おうとする。対等には見てくれない。素人が30人集まったところで、負けるような生き方はしていないのは私も同じだというのに。
「先方の発砲音が、射撃開始の合図だ」
そう、合崎に耳打ちされる。いよいよ始まるのだ、私の戦場が。
「――了解」
先ほど口火を切った男性研究員が銃を構えた。他の研究員たちもそれに続いて態勢を整える。私も銃を持つ手に力を込めた。
何も考えてはいけない。ただ避けて、撃つだけ。
「招かれざる客を射殺せよ!」
男性研究員がそう叫ぶと、30の銃口から射撃される。すぐさま姿勢を低くして難なく避けた。恐らくこの先、同じタイミングで30発撃たれることはないはずだ。この一撃さえ避けてしまえば勝ち目は十分にある。皆、同じ高度から撃っていたのが幸いだった。
銃撃戦になってしまえば、撃ち合わせなどなくとも問題ない。こういう時に限っては、不思議なくらい合崎と気が合うのだ。私は主に向かって左側の15名を、彼は右側の15名を相手にしていた。
先ほど、同じタイミングで発砲したはずの初撃の30の銃声にさえ、かなりのずれがあったことから、彼らの射撃能力はそれほど高くないと窺える。今でこそ数で私たちと競り合っているが、それも時間の問題だろう。
私は姿勢を低くして銃弾を避けながら、最前列の白衣に向かって銃弾を連射した。清らかな白い広間に、鮮やかな赤が飛び散っていく。
何も考えるな。考えてはいけない。必死にそう言い聞かせながら、銃弾を浴びせ続ける。見る見るうちに相手方の数は減っていった。銃声と悲鳴と、そして断末魔が入り混じる。
ああ、これが戦場なのか。私の生きる世界はこんなにも醜い赤で塗りつぶされていくのか。この鉄のような異臭が体に染みついて、いつか取れなくなってしまいそうだ。思っていたよりも、私の人生は凄惨を極めている。思考とは別の次元で、諦めに近い何かが刻み込まれていくのを感じた。
残りが4,5人となった時点で再び20人ほどが押し寄せてきた。動揺することもなく、一人ひとり確実に射殺していく。
私が狙いを定めていると、隣で合崎の溜息を聞いた気がした。彼にとっての戦場は、どんなものなのだろう。ふと、そんな疑問が脳裏を過った。信者とは言えども、生きていたものを死なせているのだ。彼は何を思っているだろう。私は銃弾が命中してはじけ飛ぶ赤を見ながらぼんやりとそんなことを考えてしまった。
その報いか、一発の銃弾が肩を掠りそうになる。何とか避けるも、情けない。すぐに思考を捨て射撃に集中した。
甲高い悲鳴が、断末魔が、次第に少なくなっていく。集中さえ途切れなければ、合崎との銃撃戦と同じくらいのレベルだった。研究員たちの撃つ銃弾に正確性はない。数の暴力で押し切ろうとしている魂胆がバレバレだった。
偶然をあてにしている時点で、彼らに勝ち目はないのだ。私も合崎も、技術と動体視力を駆使して必然を狙って撃っている。彼らが再び援軍を呼ぼうとも、結果は同じだった。
だが、残りが数えるほどの人数になったとき、比較的傷の浅いある若い研究員の姿が目に留まった。彼は先ほどから無闇な攻撃はしてこない。他の研究員たちとは一味違った。最後に警戒すべき対象がいるとすれば、それは恐らく彼だろう。
私はその研究員を集中して狙った。小型の銃とはいえ10連射ならば、他の研究員たちは避けきれずに絶命していた。しかし、彼は軽やかにかわして見せたのだ。
研究員でありながら、戦闘の心得があるとは。私は彼を注意深く観察する。その目はいつか資料で見た信者と同じ、何かに憑りつかれたように暗く澱んだものだった。
彼の方も私を集中して狙ってくる。今までとは違う。恐らく必然を予期して撃っている。技術は私たちに到底及ばないものの、時折予想外のところへ撃ってくるその奔放さが怖かった。
彼が放つ銃弾を避けきったとき、ふと、この広間には私たちとその研究員しか残されていないことに気がついた。煩いほどに鳴り響いていた銃声が止み、一瞬の静寂が訪れる。
合崎の存在をすぐ隣に感じる。怖いくらいにぴったりと息が合っていた。私たちはほぼ同時に腕を伸ばし、若い研究員に狙いを定める。
二つの銃口が揃ったのを見て諦めたのか、その研究員は最期に笑ってみせた。
血飛沫が舞う。広間には私たちの息遣いだけが聞こえていた。
合崎は、間を置かずに端末を確認する。彼の髪からは、ぽたぽたと赤い雫が落ちて制服のシャツに染みを作っていた。返り血で酷い姿だ。恐らく、私も彼と大差ない姿をしているのだろう。頬に付着した生ぬるい液体を手の甲で拭いながら、そんなことを思った。思ったよりも冷静な自分に驚いている。
「……怪我はないか」
合崎が事務的に尋ねてくる。普段よりずっと抑揚のない声だった。
「無い」
私もただ一言そう告げながら、小型の銃に銃弾を装填する。
「では急ぐぞ、崩壊開始まであと五分しかない」
「了解」
立ち去り際、私は一度だけこの広間の惨状を振り返った。後で苦しむことは分かっていても、見ずにはいられなかったのだ。
赤い水溜まりが点々としている。飛び散った肉片のようなものが、まだ生々しく光っていた。これが現実だ。私の生きる世界だ。
数秒間、その光景を見つめた後、すぐに合崎の後について駆け出す。先ほどより静けさの増した廊下に、2人分の足音が響き渡った。




