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スノードームを殺してくれ  作者: 染井由乃
第3章 怜れみと憐れみ

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第106話

 4週間ぶりに教室に足を踏み入れる。そのこと自体には特にこれといった感慨を覚えることもなかった。だが、担任教師がやってくるまで残り1分しかなく、遅刻寸前であったことは明らかだ。軽く息をつきながら辺りを見渡せば、親しくはないものの見慣れた顔ぶれがいつものように賑やかに過ごしていた。私の存在に気づいた数名が気まずそうに視線を逸らしたが、それもいつものこと。気に留めることなく、席につこうとするも、どうやら席替えをしたらしく私の前の席には別の女生徒が座っていた。


 生憎、席を尋ねられるような間柄の友人もいないので、教壇横のディスプレイで確認する他に無い。溜息交じりに教壇の傍へ歩み寄り、幅1メートル以上はあるディスプレイを見上げる。出来れば一番前などではないことを祈るばかりだ。


「おはよう」


 明るいクラスメイト達の声を聞きながら、一人ディスプレイに手を伸ばす。ホームルーム開始のチャイムが鳴るまで、あと数十秒しかない。さっさと確認して、座らなければ。


「もー、おはようってばー、一条さん!」


 先ほども聞いた明るい声に不意に名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせて振り返る。目の前には、快活に笑う黒髪の少女がいた。肩につかないくらいの髪の長さが、余計にボーイッシュな印象を与えている。紛れもなく女生徒だが、男子生徒に混ざってスポーツでもしそうな勢いの持ち主だ。


「……おはよう」


 いかにこの状況が何を意味するのか分からなくても、挨拶を返すくらいの礼儀はわきまえているつもりだ。名前は何だったかと記憶を辿っているうちに、すぐに彼女が何者か思い出した。黒川さんだ。


 黒川さんは、私が音森に大々的に責められていたときに唯一庇ってくれた人だ。特別親しいわけでもないが、傍観者の中から一歩踏み出した黒川さんの姿は今も鮮明に覚えていた。今時、正義感のある軍人候補生もいたものだと勝手に感心した気がする。


「席、あっちだよ。私、一条さんの隣の席なんだ! よろしくね」


 またしても邪気のない笑みを見せて、彼女は私に手を差し出した。その白い手をまじまじと眺めているうちに、担任教師が入室してくる。談笑していた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように自席へと戻っていった。私たちも当然それに倣うように着席する。


 よろしく、と言われたところで何も返せなかった自分のコミュニケ―ション能力の低さに気づかされる。初対面に近しい人と話すのなんて何時ぶりだろうか。


 委員長がきびきびと号令を出し、全員が起立する。毎朝お決まりの敬礼を交わして、再び着席する。この儀式めいた朝の挨拶をあと何度繰り返すのだろう。淡々と述べられる担任からの連絡事項を聞き流していると、ふと視線を感じて隣の席を見やった。


 黒川さんは、軽く頬杖をついて私に笑いかけている。ボーイッシュだが、笑うと可愛らしい少女だ。顔の形が整っているからこそ、短髪も似合っているのだろう。艶のある黒髪にも女子らしさを感じた。前髪を留めた二つのピンには気取った飾り気がなく、彼女に良く似合っている。


「色々、大変だったんでしょう? もう大丈夫なの?」

 

 気さくに話しかけてくれる彼女を不快には思わないが、生憎、私は明るく談笑するのに慣れていないのだ。どうしてもぎこちないテンポになってしまう。


「ああ……もう平気だ」


 その返答に女生徒はにこりと笑うと、不意に思い出したように自身の鞄を漁り始める。小さなクマのキーホルダーがゆらゆらと揺れた。


 黒川さんは鞄から白い紙の束を取り出すと、それをそのまま私に差し出してきた。


「これ、一条さんが休んで多分のノートのコピー。いくら一条さんでも、覚える材料がなきゃ困っちゃうでしょ?」


 さばさばとした物言いだったが、不快感は感じない。嫌味のない、温かすぎる親切だった。思わず彼女の目を見つめてしまう。


「わざわざ……私のためにこれを?」


「そーだよ。だって私、一条さんの隣の席だし」


 屈託のない笑顔を前に、何といえばいいのか分からなくなる。何とか自分の中の語彙を繋ぎ合わせて、それらしい返答を生み出した。


「ありがとう……助かるよ」


「どういたしまして」


 歌うように黒川さんは答えると、鞄をテーブルの横にかけた。いつの間にかホームルームは終了しており、皆、一限目の準備に励んでいる。


「一条さん……じゃ、味気ないね。何て呼べばいい?」


「……苗字でも、名前でも、好きに呼ぶといい」


 どうして私はこうもぶっきらぼうな言い方しかできないのだろう。これでは親切にしてくれている黒川さんに失礼に当たってしまいそうだ。


「じゃあ、無難に憐って呼ばせてもらおうかな!」


「……構わないよ」


 楽しそうな表情の黒川さんを見つめ、私は勇気を振り絞って続けた。


「私は……その、黒川さんを何と呼べばいいだろうか……?」


 妙に緊張してしまう。思えば、まともに名前を呼び合うような関係は合崎、千翔、柊以外では初めてではなかろうか。


真琴(まこと)って呼んで!」


「……よろしく、真琴」


 中性的な名前が、彼女に良く似合っている。くっきりとした黒目を細めて、真琴は朗らかな笑みを見せた。

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