第105話
3章が始まります!
よろしくお願いいたします!
――知らなくていい。知らなくていいから、どうか。
ディスプレイの向こう側で、ニュースキャスターが今朝の特集を読み上げている。聞きやすく澄んだその声は、他愛もない話題を談笑を交えながら進めていた。
一方で私は、画面の左上に表示された時刻を見て軽い焦りを覚えていた。いつも部屋を出る時間まで、あと五分ほどしかない。
「影」に誘拐されてから今日でちょうど4週間が経つ。全快こそしていないが、ようやく私にも学院へ戻る許可が出されたのだ。千翔は3週間ほど前から、合崎は4,5日前からすでに復帰しており、私だけが取り残されているような状態だった。生憎、午後の訓練にはまだ参加できないので、自分で出来る範囲の運動をこなすしかない。だいぶ出遅れてしまった分、気を引き締めて基礎トレーニングにでもとりかかろう。
シアンに裂かれた右手の傷はかなり治ってはいるものの、未だ動かしづらかった。制服を着るのに既に普段の倍以上の時間を要している。シャツのボタンを留めるのも一苦労だ。
仕方ない、第一ボタンは諦めよう。シャツの上に白いブレザーのような制服を羽織り、ネクタイを手に取る。
『――昨夜、商業D地区で人身売買を行っていたブローカー5名を逮捕しました』
先ほどまでとは打って変わって、朝から随分と重い話題だ。だが、身近に千翔という存在がいる以上、片手間に流し見ることもできず、思わず手を止めてしまう。
画面に映し出されるのは、「商品」だった子どもたちが閉じ込められていたらしい暗い部屋。殆ど牢と言っても差し支えないだろう。壁からぶら下がったままの金属製の鎖や、冷たく閉ざされた鉄同士が禍々しい。うっすらと床に浮かび上がる赤茶色の染みは、「商品」の子どもたちが流した血なのだろうか。
思わず、息を呑む。千翔も、あんな場所で生きてきたのか。知識として知ってはいても、こうして現場を見せられると胸が痛む。どれだけ苦しかっただろう。
「商品」だった子どもたちは、たとえ解放されたとしても、その暗い過去に押しつぶされてしまうことが多いという。千翔のようなケースは稀なのだ。彼女のように恵まれた環境を与えられて、笑顔を取り戻すことのできる子どもたちはほんの一握りだろう。
中には捕らえられていた過去と帝政とのギャップに耐えきれず、自ら命を絶ってしまう子もいる。アフターケアが不十分であることは事実だが、あまりにもそのような境遇の子どもがいため、帝国は彼らの生活を保障するので精一杯だった。とてもじゃないが、個別に心理療法士をつけ丁寧にカウンセリングを行えるような数ではないのだ。
感傷に耽っているうちに、キャスターは次の話題へ移っていた。朝のニュースはダイジェスト的なものが多く、よほどの事件でない限り一つ一つの話題に多くの時間を割かないのだろう。同時に、画面の左上に表示された時刻がもうすぐ朝八時ちょうどを示そうとしていることに気づいて、私は慌てて鞄とネクタイを片手に部屋を飛び出した。
最悪の身だしなみで廊下へ出たはいいものの、まだ合崎の姿はなかった。もう少しゆっくりすればよかっただろうか。私は鞄を床へ置き、ネクタイをシャツの襟の下へと通した。指先が上手く動かない。自分の手なのにどうにももどかしい。思えば、寝癖も直していないような気がする。
「おはよう、憐。よく眠れたかい?」
白いシャツ姿の柊が、わざわざ見送りに来てくれたようだ。白衣でも黒衣でもなく、シンプルでラフなこの格好のときが一番優しげに見えるから好きだ。
「睡眠はもう嫌って言うほどとったさ。よく眠らなければならないのは柊の方だろう?」
今日も彼の目の下には薄い隈が出来ている。どうせ朝になるまで仕事をしていたのだろう。
「僕はあまり眠らなくてもやっていけるからさ……。それにしても、随分苦戦しているようだね?」
柊は、悪戦苦闘する私の手元に目を留めるとくすりと苦笑を零した。こっちは必死に結ぼうとしているというのに、笑われるとはまったくもって心外だ。
「誰かさんがリハビリを甘やかすからじゃないのか? まったく……」
食事をわざわざ一口大に切ってから出したり、レモンティーのストローさえも代わりに挿そうとしたり、ととにかくこの四週間の柊は過保護だった。それほど心配かけた私が悪いのだが、彼も少し改めるべきだと思う。
「治りが遅いだけだよ。本当は、まだ学院にも行ってほしくないくらいだ」
不意に柊の手が私の手からネクタイを取ると、私と向かい合ったままで結び始めた。その丁寧な仕草と長い指に目を奪われる。
柊は、器用だ。大抵のことは難なくこなせる。それは合崎にも共通することなのだが、年の差のせいか柊には絶対的な余裕がある気がする。人当たりも悪くない、つくづく優秀な人材だと思う。正直、教育係など勿体ないだろう。柊さえ望めば、どこまでも上り詰めていけそうな可能性を秘めている人だった。
「入学当初より酷い有様だね」
柊は綺麗にネクタイを結び終えると、再び苦笑を浮かべ私を見つめた。色素の薄い美しい瞳が間近に迫り、僅かに戸惑ってしまう。
「……ありがとう。柊は本当に器用だな」
「まあ、昔はこういうことを良くしてたからというだけで……褒められるほどのことでもないよ」
「昔? 昔は何をしていたんだ?」
寝癖で跳ねていたらしい髪を手櫛で直してくれていた柊の手が止まる。柊が過去のことを口にするのは滅多に聞かない。純粋に興味があった。
だが、柊の視線は既に私にはなく、私の肩越しに誰かを見つめているようだった。
振り返り、視線を追うとそこには制服姿の合崎がいた。今日もシャツのボタンをきっちりと締め、ネクタイを緩ませることもなく着こなしている。そのきちんとした着こなしが、彼の凛とした雰囲気を際立たせてよく似合っていた。
合崎は、今日も柊を見るなり軽く睨みを効かせるように鋭い視線を送る。私が「白」に戻ってからというもの、二人が話すところは見ていない。どうやら、柊が私の自決命令を出したことを未だ根に持っているらしかった。合崎だって、柊がやむを得ず自決命令を下したことくらい理解しているはずなのだが、それでも許せない部分があるらしく、ずっとこんな調子なのだ。間に立たされる私の身にもなってほしい。
「……おはよう、合崎」
早速流れ始めた気まずい空気を払拭するように、私は引きつった笑みを浮かべて沈黙を破った。すぐ傍で柊の申し訳なさそうな苦笑いが零れる。
「……気を付けて行っておいで。僕は仕事に戻るから」
柊は曖昧な笑みを見せると、踵を返して去って行く。追いかけるわけにもいかず、柊の後姿と合崎を何度も見比べて次にすべき行動を探った。
「――行くぞ」
合崎はそれだけ告げるとさっさと歩き出してしまう。私は慌てて彼の隣に駆け寄って、引きつった笑みのまま彼の表情を窺った。
「合崎はもう調子はいいのか?」
話題の転換を試みて、何でもないように話しかける。ここでわざわざ柊の話題を出してもめるのは少々面倒だ。
「もうほとんど普段通りだ。憐は今日から訓練にも参加するのか?」
「まだ、訓練の許可は下りてなくてな……。今日は午後から検査もあるし、見学もできなさそうだ」
体力の回復は驚くほどに遅かった。この分ではあと一週間くらいは訓練の許可は出ないだろう。だが、このままのんびりと過ごしていては合崎との差が開くばかりだ。
「合崎、明日からこっそり訓練に付き合ってくれないか? 昼休みの間だけでもいいんだ」
基礎トレーニングならば自室でもできる。だが、銃やらナイフやらを使う訓練はやはり学院でしか出来そうにない。それに、前々から先延ばしにしてしまったことを教えてもらいたかった。
「訓練? 射撃のか?」
「そうだ。出来れば、両手を使えるようになりたいと思ってな……」
初めにその必要性を感じたのは音森財閥で銃撃戦を行ったときだ。今回の誘拐事件だって、左手を使いこなせていれば結果は違っていたかもしれない。
今も耳の奥では、シアンの嘲笑と冷たい金属の鎖が揺れる音が響いている。ふとした拍子に寒気に襲われるほど、私はまだ心の傷を抱えているようだった。
「それは別に構わないが……どうしてそこまでするんだ? 今だって、同学年の中では群を抜いた成績を出しているだろう」
まあ、俺には敵わないんだろうが、といちいち一言多い合崎を軽く睨みつけるが、学院復帰初日に言い争う気にもなれないので目を瞑ることにした。
「……私も、次期軍師として目標が出来たからだよ」
シアンを、この手で倒したい。実に単純でそれでいて難しい願望だ。シアンはとにかく強いのだ。その戦闘技術も話術も何もかも、今の私では敵わない。敵ながら、見習うべきところは沢山ある。だからこそ、そんなシアンを倒せたのなら、ようやく私は、合崎の隣で次期軍師を名乗ることが許されそうな気がするのだ。
それを躊躇う原因があるとするならば、それは怜のことだろう。あんな冷酷な犯罪者でも、怜の大切な人なのだ。シアンを殺したとき、怜はどんな目で私を見るだろうか。考えるだけで足が竦んだ。
「そういうことなら、引き受けようか」
珍しくふっと微笑む合崎が何を考えているのか知らないが、勘繰るのは良そう。彼なりに私を応援してくれているのかもしれない。
「ああ、よろしく頼む」




