第107話
4週間ぶりに受ける授業には正直不安があったが、真琴がくれたノートのコピーのおかげで何とかついていくことが出来た。今日の午後にでも熟読すれば、明日からは何も問題ないだろう。
真琴の少し癖のある丸い字は、柔らかく読みやすかった。カラフルな吹き出しが描かれ、その中にメモ書きがされている。所々、ノートの隅には可愛らしいクマの落書きが記されていて、それを眺めるだけでも楽しかった。時折そのキャラクターが、難しい定義などを説明してくれている。私の普段のノートにはない、可愛らしい工夫だった。
一方で、板書を取る手はなかなか苦戦していた。右手はやはり思うようには動かない。制服の袖から見え隠れする包帯を、溜息交じりに眺めた。
「無理しない方がいいよ。痛むの?」
真琴は頬杖をついたまま、私の顔を覗き込む。咄嗟に右手を隠してしまった。
「いや……平気だ。痛まないよ」
「その分だと、今日はもしかして訓練には参加できないの?」
そう言った真琴の表情は、なぜか残念そうだ。不思議に思いながらも、肯定の意を示す。
「ああ、今日はもう終わりだ」
その言葉と同時に午前の授業終了のチャイムが鳴る。委員長の号令が響き、賑やかな昼休みが始まった。
「そっか、残念だなあ。憐の銃捌き、久しぶりに見たかったのに」
真琴は溜息交じりに椅子に深く腰掛ける。見るからにしょんぼりと肩を落としていた。
「……私の訓練風景を見たことがあるのか?」
真琴とは、確かに同じクラスだが訓練中はまるで接点がなかったはずだ。だが、真琴は信じられないとでも言いたげに見つめ返してきた。良く表情の変わる子だ。
「見たことあるのか……って、そりゃあるよ。学院の生徒ならみんな見てるんじゃないかな」
「……そういうものか」
次期軍師というだけなのに。少し気が重かった。背負った名ばかりが目を引いてしまう。
「女子はみんな合崎先輩がかっこいいって言ってるけど……私は憐の戦闘姿の方が好きなんだよね。何て言うか、ひとつひとつに魅せられるの。やっていることは血なまぐさいことのはずなのに、どこか優雅にも感じる。合崎先輩は確かにかっこいいけど、微妙に残酷そう」
先輩に言わないでよ、と冗談交じりに真琴は笑ってみせた。合崎に関しては、的を得ているだろう。あいつはいざとなると手段を選ばない残酷さがある。それを訓練風景から見抜くなんて、なかなか洞察力の鋭い人だ。
「さーてと、お昼買いに行かなくちゃ。憐も途中まで一緒に行かない?」
真琴がまるでずっと友人だったかのように自然と誘ってくれたことに、私は密かに感動してしまった。なんて学生らしい会話だろう。この三年間、こういうことを待ち望んでいた気がする。頬が緩むのを隠せない。
「……行く。調度、私もレモンティーを買おうと思っていたんだ」
鞄を片手に真琴と共に席を立つ。隣に並ぶと、同じくらいの身長だ。私は女子の中では背がある方なので、彼女も高い部類に入るのだろう。いつもは見下ろすか見上げるかの二択だったので、同じ目線というのは新鮮だった。
「レモンティー、よく飲んでるよね」
昼休みの雑踏の中を、真琴と二人並んで歩く。まだお互い名乗り会って、数時間しかたっていないが、朝よりは随分と楽に話せるようになっていた。
「昔から好きなんだ」
正確には柊の影響なのだが、初めて飲んだときでさえ懐かしいと思ってしまうほど美味しかったのをよく覚えている。きっと、本当の家族と過ごした日々に口にしているのだろう。
「いやー、味覚が大人で羨ましいよ。私はいつもココアなんだ」
苦笑する真琴を横目に、私たちは購買へ足を踏み入れた。白と黒の制服で賑わっている。
「私はココアも好きだぞ」
「へえ、甘党なんだね。私と一緒だ」
他愛もない会話が、嬉しかった。私には無理だと諦めていた「友だち」が出来た気分だ。
私はレモンティーを、真琴はココアと小さなお弁当を手に会計へと並んだ。購買の店員は4週間前と変化なく、今日も丁寧に対応してくれている。
いつもの癖でポケットから学生証を取り出そうとして、ふと気が付いた。この制服は、誘拐された後に新調したものであるということを。つまり、学生証は前の制服の中にあるのだ。帰ったら柊に尋ねなければならない。
学生証はこの学院の生徒にとって必需品だ。身分を証明する意味ではもちろんのことだが、あらかじめ現金をチャージしておけばプリペイドカードとしても使える。混雑する昼休みの購買では、まさに必要不可欠な代物だ。
とはいえ、無いものは仕方がないので現金で支払う。速やかに済ませられれば良かったのだが、現金を用いて買い物をしたことなど数えるほどしかないので手間取ってしまった。
それでも私の方が先に会計を終えたらしく、購買の外に真琴の姿はなかった。先に帰ったとも考えられるが、彼女が一言も無しに去るとは考えづらい。レモンティーを鞄にしまい、彼女を待つことにした。
そんな中、ふと、妙に周りの女生徒の視線が注がれていることに気づいた。4週間ぶりの私の姿が珍しいのだろうか。
「もう帰るのか」
突然に降ってきた声に顔を上げると、いつの間にか私の隣には黒い制服姿の合崎が立っていた。どうやら彼女たちの視線を集めていたのは彼らしい。
「……ああ、そうだ。これから検査だからな」
塔長や織城先生直々に診てもらうのだ。多忙な大人たちが私のために時間を空けてくれているというのに、さぼるわけにはいかない。
「……一人で帰るのか?」
憂いを帯びた視線に捕らわれる。私が誘拐された日のことでも思い出しているのだろうか。やはり、あの事件が合崎に与えた影響は軽くないらしい。
「何だよ、心配しているのか? お前らしくもない」
敢えて茶化すように誤魔化してみても、合崎の目は変わらなかった。じっと見つめられていると、彼の憂いに飲み込まれてしまいそうで胸が苦しくなる。
「……大丈夫だ。人の多い大通りを通って帰るから。前みたいにはならない」
「白」に繋がるメインストリートはほぼすべての空間が監視されていると言っても過言ではない。あの通りで法に触れることをしようものなら、一分と経たずに捕らえられるだろう。帝国の中で最も治安のいい場所の一つだ。
「……そうか、気を付けて」
「ああ、千翔によろしく」
本当は千翔に会いに行きたいが、生憎、診察の時間が迫っているのだ。止むを得ない。
そのまま合崎と別れ、改めて辺りを見渡すと少し離れたところに真琴が立っていた。買ったばかりのココアをストローで飲んでいる。視線が合うと苦笑してこちらへ近づいてきた。
「噂の合崎先輩、か。いやあ、二人揃うとやっぱり目を引くね」
「どうして合崎がそんなに人気なのか理解しがたいんだがな……」
明らかに視線を集めているのは合崎の方だ。私一人では、雑踏の中で目立ったりしない。
「酷い言いようだね……。でも、ちょっと考えたらわかるでしょ? 眉目秀麗、頭脳明晰、稀代の軍師の才能と、支配者の風格。そしていつか彼が君臨する地位」
わざわざ考えたことは無かったが、確かに否定できるところは何もなかった。事実、私でさえ時折魅せられるほどなのだから。
「でもそんな一見完璧な合崎先輩が、もう一人の次期軍師こと一条憐に向ける親し気な微笑と病んだ目がたまらない、とも言われている」
まあ、それは一部の生徒だけどね、と真琴は笑う。そんな話は初耳だった。世の中、いろんな人がいるらしい。病んだエリートなど単なる危険分子でしかない気がするのだが。
「真琴もそうなのか?」
ココアを口に運ぶ彼女に何の気もなしに尋ねてみると、彼女は物憂げに視線を伏せ、ストローを軽く噛んだ。
「……そこにあるのがただの恋愛感情なら、まだいいとしても……そうじゃないんでしょう? そんな単純な感情だけで病んでしまった訳ではないのでしょう? 上の立つ者の葛藤や苦痛を知りもしないで、色々噂するなんて……」
やはり、彼女は正義感の強い人のようだ。今更、そんな噂程度で傷つくような繊細な心は持ち合わせていないが、彼女の思いやる心には感動した。やはり、今のご時世には珍しいタイプの軍人候補生らしい。
「きっと、いいことばかりじゃなかったんでしょう? 次期軍師の名を負うまで」
私は自然と頷いていた。次期軍師の名を得るために、失ったものが大きすぎる。その苦しみを推し量ってくれる人がいたなんて。
「私でよければ、愚痴くらいいつでも聞くからね、憐」
そう言って笑った真琴の屈託のない笑顔が目に焼きついた。今朝までただのクラスメイトだった人に、ここまで心を動かされるとは思ってもみなかった。
明日が楽しみになる学院生活。長い間待ち望んでいたそれが、ようやく始まる予感がしていた。




