第103話
その後、私たちは合崎の部屋で休憩をすることにした。外出許可の時間は限られているので夕方には病室へ戻らなければならないが、それでもまだ3時間ほどある。お茶を嗜むには充分な時間だった。
座り心地の良いソファーに深く腰掛け、部屋の内部を見渡す。部屋の一角に本棚がある以外は、私の部屋と大差ない装いだ。部屋の奥に併設されたキッチンを見れば、合崎がお茶の用意をしてくれている。
目の前のテーブルには、分厚い2,3冊の本と読書用の眼鏡が無造作に放置されていた。試しにその眼鏡をかけてみると、案の定視界が歪む。かなり度が強いのだろう。気分が悪くなりそうだ。
「憐の目には強すぎるだろう」
ふわりとレモンティーの香りが漂い、すぐ傍で合崎の苦笑いする声が響く。彼はティーカップとマフィンの皿をテーブルの上へ置くと、自然な仕草で私のかけている眼鏡に手を伸ばした。すぐに、歪んでいた視界が明瞭なものへと変わり、小さく笑う合崎と目が合った。今日の合崎はいつになく穏やかな表情をすることが多いようだ。
合崎は人一人分の距離を空けて私の隣に座り、私の前にティーカップを移動してくれる。
「どうぞ。柊の淹れるものにはまだまだ敵わないけど」
湯気の立つレモンティーにそっと口をつける。ほのかな甘みが広がった。柊が淹れてくれるものとは確かに違うが、これも美味しい。上品な味わいだった。悔しいが、合崎はやはり器用だ。普段私が自分で淹れているものとは比べ物にならない。
「……美味しい」
レモンティーの温もりと共に、安心感が広がっていく。また、合崎とこうしてお茶を飲めたことが思った以上に嬉しかった。
「やっぱり、憐はお子様なんだな。そのくらい甘くないといけないのか」
くすくすと笑う合崎の目は楽し気で、心配していたほど情緒不安定ではなさそうだった。
「甘いもの好きというのなら、合崎だって同じだろう。昼食はチョコレートマフィンばかりじゃないか」
「ほら、そうやってすぐムキになるところも子供っぽい」
合崎はふっと微笑んでレモンティーを口に運んだ。その優しげな表情に、一瞬だけ目を奪われたが、すぐに視線を逸らして平静を装った。
まだ回復しきっていない右手でフォークを取り、リハビリもかねてマフィンを一口大に切ろうと試みる。この一週間、柊に甘やかされたせいか予想以上に動きが鈍かった。
「……手、もう使えるのか?」
さりげなく尋ねてくる合崎の声に、未だ心配をかけているのだなと気づかされる。無理もない話だろうか。死の淵にいた私を見ていたのだから。
「積極的に動かしていかないと、いつまで経っても治らないだろ」
不格好ながらも、どうにか一口大に切ったマフィンを口に運ぶ。口の中一杯に広がる甘さに、思わず頬が緩んだ。マフィンは何度食べても美味しい。
「久しぶりに見たな。そんな幸せそうな表情の憐」
そう呟いた彼の目は、確かに「空兄様」のものだった。その優しげな雰囲気に、「一条」としての振る舞いが流されそうになる。だが、それよりも羞恥心が勝るので、いつもと同じようにそっけない返事をした。
「悪かったな。どうせいつも幸薄そうな顔してるよ」
怜のように朗らかに笑えたら一番なのだろうとは思うが、生憎、私にはもう無理そうだ。
合崎は軽く笑いながら、ソファーの背もたれに背を預けた。制服のときは隠れて見えない首筋の傷が、普段着だと露わになっていて思わず目を逸らす。いつまで経っても直視できない。この傷を合崎が自ら付けただなんて信じたくない。気を紛らわすように、私は再びティーカップを取り、口に運んだ。
「――……もしかして、知ってるのか?」
一連の私の行動を不審に思ったのか、合崎がそんなことを訊いてくる。一瞬、心臓が跳ねたような気がした。私のしたことと言えば、せいぜい視線を逸らしたくらいのものなのに。合崎は妙に鋭いから困る。私は何とか誤魔化すように苦笑いをして、ティーカップを置き、チョコレートマフィンの皿を引き寄せた。
「……まあ、自分が幸せそうではないことくらいは自覚してるつもりだが?」
先ほどの会話と無理やり繋げて、誤魔化してみる。動揺を悟られないように細心の注意を払った。マフィンを切ろうとする右手は、先ほどよりずっと動きが悪いようだ。
「そんな話じゃないって、分かってるだろ」
その言葉と共に、合崎の右手が私の右手に重なった。必然的に合崎の腕の中に閉じ込められる形になる。
「誰から聞いた?」
耳元で囁かれる合崎の声は、まるで戦闘中のように冷たかった。僅かに肩が震える。人一人分の距離は空けて座っていたはずなのに、一瞬でここまで近づけるのは流石だ。日に日に合崎は軍人としてのスキルを身に着けているように思う。彼だって、少なくとも一週間は訓練を受けていないはずなのに、全く腕が落ちていない。
「……言いたくないといえば、お前もナイフを使って脅すのか?」
シアンの半面を思い出しながら、茶化すように笑ってみせる。この張り詰めた空気の中で、これが正しい選択だったのかは微妙だが。
合崎はくすくすと笑ってみせるが、どこか冷ややかだ。先ほどまでの優しい「空兄様」の面影はどこにもない。
「あんな狂った殺人鬼と一緒にしないで貰えるとありがたいけど」
「お前ならやりかねない」
「嫌だな、まだそこまで病んでないよ」
その言葉を鵜呑みにしていいものか。私は軽く溜息をついて、マフィンの皿の上にフォークを置いた。
「……知ってどうするんだ」
「まあ、撃ちに行こうかな」
全く、この一週間は何だったのだろう。何の反省もしていないようだ。合崎のような力のある奴に、反感を抱かせたままというのは危険すぎる。どうせ上は柊が止めるのだろうなどと楽観的に考えているのだろうが、本気の合崎には私と柊が力を合わせても敵わないというのに。
「それなら、尚更言えないな。生憎、今回の案件で尋問にも拷問にも耐性が出来たんだ。好きにすればいいさ」
まあ、冗談だとは思うが、本気で「白」の人間に再び銃を向けようものなら、合崎だってどうなるか分からない。それに、合崎が余計な恨みの感情を抱くよりは。私が秘密にしておいた方が無難だろう。
「そんな軽薄なこと言って、俺があいつよりひどいことをしたらどうするんだ?」
そんなこと、とっくにしているじゃないか。「実験」が終わり、「空兄様」が私の首を絞めたあの日、「憐」は確かに死んだのだ。それは、シアンに腕を裂かれ、撲殺、絞殺寸前まで追い詰められ、得体の知れない薬物を飲まされるよりも、ずっと酷いことだとは思わないのか。
思わず、私は合崎の腕の中で笑ってしまった。あまりに可笑しくて、久しぶりに声を上げて笑った気がする。
「……これ以上、お前には何をされたってひどいとは思えないだろうな」
「錯乱状態で、憐を殺そうとしても?」
「それで病んだお前の気が済むのなら、命くらいくれてやるよ。そうして正気に戻って、せいぜい幸せに暮らすといい」
「……憐はそんな自己犠牲タイプの人間だったか?」
そんな自覚は私にもない。自分を犠牲にしていたら、この帝政を生き抜けない。
でも、「空兄様」のためになるのなら話は別なのだ。そんなこと、こいつは気づきもしないのだろうが。
「……私には、そのくらいしか出来ない。今回、誘拐されてつくづく思ったよ。私は、お前の重荷になっているだけだ」
私は合崎の腕を肩から離し、そっとソファーへと降ろした。
「合崎、私といたら駄目だ。私じゃやっぱり駄目なんだよ。このまま私といても、お前が幸せになる日は来ない。もっと、別の誰かを探すんだ。一緒にいて、毎日笑い合えるような、そんな人を」
合崎には、そんな人が必要だ。何があっても彼を信じ切って、いつも笑いかけてあげられる人が。その存在に一番近かったのは咲さんなのだろうが、残念ながら彼女はもうこの世にはいない。
彼を幸せにしてあげられるその存在が、私だったらどんなによかったか。そう思わなかったといえば嘘になる。けれど、私はもう彼の望む「憐」ではないのだ。「空兄様」に似た目に見つめられるたびに、失った何かが苦しいほど悲鳴を上げる。
そんなとき、不意に私の手の上に重ねていた合崎の手に力がこもる。彼はそのまま、自嘲気味な笑みを含む声で囁いた。
「それは、嫌いな奴から逃げるための口実か?」
嫌い。その言葉にはっと気づく。誘拐される前、何気なく発したその言葉を私は未だに一度も訂正できていないじゃないか。
思わず合崎の方を振り返ると、予想以上に至近距離で彼と目が合った。先ほどまでの優しい眼差しとは打って変わって、不安定な闇を宿らせた合崎の目に脈が早まる。耐えきれず、不自然に視線を逸らしてしまった。
「誤解だ。あのときは……ごめん、言いすぎたよ。嫌いだなんて、言葉の綾だ」
「それ、本気で言ってるなら目を見て言えよ」
責めるような言い方に身が竦む。逃げ出したい衝動に駆られるが、私にはこの手を離す力も勇気もない。
沈黙が脈を早めていく。同じ言葉を、目を見てもう一度繰り返せばいいだけだ。頭ではよく分かっているのに、なかなか言葉が出てこない。
――空兄様が求めているのは謝罪の言葉ではないですよ。
「影」の牢で聞いた千翔の言葉が蘇る。そのくらい、私にもわかっているが、何分、私たちの間にある想いの形はあまりにも複雑で何といえばいいのか分からないのだ。
だが、この沈黙に私の心臓はいよいよ限界を迎えようとしていた。意を決して、合崎の目を見上げる。深い色の瞳の奥に宿る闇色の光が、今日も私を捕らえている。きっと、初めて会ったその時から、私はこの光に魅せられているのだろう。それは、この先何年たっても変わることは無い。変わるはずがないのだ。
「……私は、空兄様に惹かれているよ。ずっと昔から、今も、きっとこの先もずっと」
目を見開いたまま言葉を失う合崎を、私はソファーに膝立ちになってそっと抱きしめる。
「だから、空兄様には幸せになってほしい。それだけだよ。そのためには、私が傍にいたら駄目だと思っただけで――」
「――憐がいないと駄目だ」
ふっと、合崎の腕が背中に回され、息が苦しいほどに引き寄せられた。そのまま合崎は私の方に頭を預ける。
甘えるようなその仕草に、思わず微笑んでしまう。歪んでいるが、これが私たちなりの想いの形なのだろう。
「……そうだね。私も空兄様がいないと駄目なのかもしれない」
その言葉に一層腕の力を強める合崎の頭をそっと撫でてみる。さらさらとした黒髪は触り心地が良かった。
「……もう、どこにもいかないでくれ、憐……」
「……いかないよ。私はここにいるよ」
私たちにしては、あまりにも穏やかで甘すぎる時間だ。まあ、普段銃撃戦ばかりの私たちにはちょうど良いのかもしれない。たまには、次期軍師としてではなく、「空兄様」と「憐」として過ごすのも悪くないだろう。私は軽く微笑みながら、この優しい時間が終わるまで、彼の黒髪に指を通し続けた。




