第101話
規則的な電子音が響いている。今日で帝国に戻ってきて6日目になろうとしていた。流石に少々退屈を感じ始めるころだ。柊は今日も傍にいてくれて、彼とこんなにも長い時間を共に過ごせるという点では嬉しいのだが、どうせなら病室の外に出も連れ出してくれればいいのにと思う。
私は左手でティーカップを持ち、柊の淹れてくれたレモンティーを味わっていた。時折、看護師が私の点滴を確認しに来るが、柊に遠慮しているのか長居することなくすぐに去ってしまう。
「浮かない顔してる」
柊は穏やかに笑って、レモンティーのカップをテーブルに置いた。柊には何でもお見通しのようだ。
「この穏やかな時間も悪くないが……ずっとこの部屋にいるのも飽きてきたなと思ってな。私は、いつまでここにいなければならないんだ?」
「出来ることならずっといてほしいけど、どうしてもっていうなら3か月くらいで――」
「冗談でもよせ、気が滅入る」
3か月間もこんな部屋でじっとしていられるわけがない。合崎の謹慎処分より重いじゃないか。
「まあ、その手はしばらく治らないけど、ここにいたって仕方がないのは確かだね。歩けるくらいに回復したら、憐の部屋での治療に切り替えてもいいよ」
「もう歩けるぞ! 何なら走れるくらいだ!」
走れるというのは流石に言いすぎたかもしれないが、病室から出してもらえるのなら試してみてもいい。そのくらい、この白い空間にはもう飽き飽きしていたのだ。
「そうやってすぐ無茶しようとする……。駄目だよ、今はまだ」
柊は呆れたように溜息をついた。だが、ここで諦めるわけにはいかない。
「やってみないと分からないだろ」
「そんな急いで治そうとしなくていいよ」
「そこは普通、早く治せっていうところじゃないのか?」
「治ったら、憐はまたどうせ危ないことをするからね」
「それは……仕方のないことだろう。次期軍師なんだから」
私たち軍人候補生の生活に、危険のない日なんてない。少しでも手元が狂えば、負傷してしまうことなんて日常茶飯事だ。
「君は、次期軍師である前に、憐なんだ。穏やかに過ごす権利だったあるんだよ」
「そんなものとっくに諦めたよ。それに、多少のスリルがあったほうが面白い」
「……まだここにいてくれないか」
不意に、柊は私から視線を逸らしてぽつりとそんなことを呟いた。少し面白くなさそうな表情だ。
「どうせ、明日、謹慎が解けたら空に構うんだろう。……だから、今くらいは、憐を独り占めさせてほしい」
数秒の沈黙。一瞬、柊が何を言っているのか分からないかった。やがて、脈が早まっているのを感じ、思わず左手を自分の頬に当てた。
何だか、柊にそんなことを言われると頬が熱くなる。こんな感情を私は知らない。自分でコントロールできないだけに、厄介な感情だった。自然と口元が緩んで、腑抜けた顔になってしまいそうだ。
「憐? 顔が赤い、まさか熱でも出してるんじゃ……」
私に視線を戻した柊がはっとしたように私の額に手を当てる。その綺麗な目に至近距離で見つめられると、余計にどうしたらよいのか分からなくなってしまった。
「ひ、柊のせいだ……」
「え?」
「とにかく、柊のせいだ!」
今にも、この正体不明の感情が暴れだしそうだった。思わず白い毛布を頭まで被って、ベッドの中に潜り込む。相変わらず、脈が速かった。きっとまだ本調子ではないのだ。そう言い聞かせて、ぎゅっと目を瞑り、この訳の分からぬ感情をやり過ごした。
翌日。
柊の計らいか、単なる偶然か、私に病室からの外出許可と面会の許可が出た。点滴も夜眠る間につけるものだけになったので、随分楽に移動ができる。
傷も大分痛みは引いたので、日常生活を送る程度の動作であれば難なくこなせるようになった。死の淵にいた私が一週間でここまで回復するのだから、「白」の技術は素晴らしい。
ただ、かれこれ2週間は訓練が出来ていないので体はかなり鈍っているだろう。訓練を再開する前に、基礎的なトレーニングが必要になりそうだ。
ふと、病室のドアが開き、司令室の黒衣姿の柊が入室してくる。今日も私の様子を見に来てくれたのだろう。私は左手で上体を起こし、病衣を軽く整えた。
いつもと違ったのは、柊の後ろから薄桃色のワンピースを身に纏った少女が現れたことだ。普段二つに結っている髪は、ワンピースの色の合わせたカチューシャで留められており、いかにも令嬢らしい形をしている。
「憐姉様!」
ベッドに向かって駆け寄ってくる彼女を見て、自然と笑みが零れる。思いのほか、元気そうだ。所々包帯が巻かれているが、走れるほどに回復していることに心底安心する。
「千翔! 久しぶりだな」
駆け寄ってきた勢いのまま、私に抱きついてくる千翔を受け止める。ふわりと甘い香りが漂った。
「はい! この一週間、早く憐姉様にお会いしたいとずっと思っておりました!」
随分と可愛らしいことを言ってくれるものだ。一週間ぶりでも、千翔はいつも通りの彼女だった。
「もう退院できたのか?」
「はい! 通院はまだ必要ですが、自宅療養の許可が出ましたのでこれから帰るところです」
「そうか、それは何よりだ」
千翔だって、病室にいくら人がいて寂しくないとはいえ、早く自宅に帰りたかっただろう。久しぶりに、ゆっくりと休んでほしいものだ。
「でも、明日から家庭教師漬けの毎日ですよ……。ただでさえ馬鹿なのに、誘拐なんてされちゃったから、遅れを取り戻さなきゃいけないんです……」
ふふふっと引きつった笑みを浮かべる千翔に、失笑してしまった。千翔には悪いが、また、試験の点数一つに落胆できるような平和な日々が戻ってきたのだと実感する。私も千翔も、こうして笑い合えているのだから何よりだ。
「まあ、無理はするなよ。全快したというわけでもないのだし」
千翔を溺愛する水野夫妻が彼女に無理をさせるとは思っていないが、千翔自身が頑張りすぎる可能性は大いにある。
「ええ、大丈夫ですよ。ほどほどにしておきます」
苦笑いを浮かべる千翔は、今日は一段と可愛らしく見えた。見慣れないその服装のせいなのだろうか。
「今日は、いかにも令嬢らしい姿だな。千翔によく似合ってる」
「ちょっと恥ずかしいんですが……でも、ありがとうございます」
そう言って照れたように笑う千翔の表情が、ひどく眩しかった。
今の千翔は孤児院にいたときとは比べものにならないくらい、満ち足りていた。昔から、私や合崎よりはずっと表情豊かな子だったが、最近は更に繊細な表情が増えた気がする。それも、決して無理をしているような様子ではなく、ごく自然にしているのだ。彼女の背負った過去は消えずとも、水野夫妻の愛情を一身に受けて彼女の心が潤ってきているのだろう。
それこそ、もう私がいなくても、きっと彼女は笑顔を忘れずに生きていけるのだろう。いつの間に、彼女はこんなにも成長したのだなと改めて思わされて、何だか寂しいような誇らしいような気分だ。
いつか私も、千翔に負けないくらいの成長を遂げられたらいいのだが。再びやってきた日常の幸せを噛みしめながら、ふと、そんな小さな願いに思いを馳せるのだった。




