第八話「ツタと電話のベル」
第八話「ツタと電話のベル」
平日の朝、達也はいつも通りの時間に出社した。
適性が分かってからというもの、今までならほとんど気にも留めなかった植物が、妙に目につくようになっていた。道端の雑草。駅前の植え込み。会社の窓際に置かれた、小さな鉢植え。
もともと家でトマトを育てていたし、植物が嫌いだったわけではない。ただ、以前よりも少しだけ、元気ないな、とか、水が足りてなさそうだな、とか、そんなことを自然と考えるようになっていた。
自分のデスクに鞄を置く前に、達也はオフィスの隅へと足を向けた。そこには、誰が世話をしているのかも分からない観葉植物――パキラが置かれている。
近くまで来て、達也は足を止めた。
「……こんなに黄色かったんだ」
葉の何枚かが黄色くなり、全体的にぐったりと項垂れている。毎日のように視界には入っていたはずなのに、今までこんなふうに立ち止まって見たことはなかった。
鉢のそばに置いてあるじょうろを手に取り、給湯室で水を汲んで戻ってくる。水をやる前に、まずは土の様子を確かめてみた。
(水は……まだ足りてるな)
じょうろを元の場所へ戻し、今度は土へ指を這わせる。
(他は……なんか、窮屈そうだな)
指先から、いつもの感覚が流れ込んでくる。根が、伸びたい方向を持て余しているみたいだった。狭い鉢の中で、行き場を失っている。
「よしよし、そっちだろ。行きたいの」
独り言のように呟きながら、根の張っている辺りを指の腹で軽く撫でる。子供の頭を撫でるのと変わらない、何の気負いもない仕草だった。本人としては、少し土をほぐして、根が伸びやすくしてやっているだけのつもりだった。
数秒後。パキラの葉が、心なしかしゃんと立ち上がった。
「井上くん、おはよう。……あれ、この観葉植物、こんな元気だったっけ?」
通りかかった同僚が、足を止めて目を丸くした。
「あ、おはようございます。ちょっと根が窮屈だったみたいで」
「そんなの分かるの?」
「なんとなくですけど。少し土をほぐしただけですよ」
「少しって……先週、枯れそうじゃなかった?」
「そうだったんですか?」
「井上くん、今まで全然見てなかったんだね」
「……そうみたいですね」
同僚はおかしそうに笑いながら、自分の席へ戻っていった。
達也はもう一度パキラを見た。言われてみれば、少し不思議だった。今までなら、あそこに鉢があることすら意識していなかったかもしれない。
自分のデスクへ戻ると、鞄から百円ショップのノートを取り出し、少し考えてから空いている場所に書き加えた。
【会社のパキラ】
葉が黄色く、全体的に元気がない。
水分は足りている。
根が鉢の中で窮屈そう。
土を少しほぐした後、葉と根に反応あり。
能力の影響? 要確認。
会社での出来事も、気になったなら一応書いておく。本命は、週末のダンジョンだった。
ーーー
週末。達也は、いつも通り一人でダンジョンの最浅階層へと足を運んでいた。配信画面の頭部には相変わらずのトマト。手には百円ショップのノート、腰には家庭菜園用のナイフ。
『あ、今日もトマトきた』
『平和な草むしり配信、助かる』
『今日は何採るんだろ』
『ヘタ今日も元気だな』
コメント欄は、いつも通りのんびりとした空気だった。達也はそれに気づかないまま、足元の草を観察しながら、慎重に歩を進めていく。気になる植物を見つけるたび、配信画面のヘタがそちらへ傾き、やがて達也が足を止める。
「……これは、前にもあったな」
『やっぱり草だったw』
『今日も通常運転』
そんなやり取りが、少しずつ当たり前になり始めていた。
奥のエリアへ差しかかったところで、達也の足がふと止まった。それまで植物へ向いていたヘタも、ぴたりと止まる。
(……なんだ?)
茂みの奥から、やけに軽い足音が近づいてくる。最浅階層では、まだ聞いたことのない速さだった。
姿を現したのは、細身で俊敏な、灰色の毛並みを持つ狼型の魔物だった。本来なら、もっと深い階層でしか観測されていないはずの個体だ。
「……え」
間の抜けた声が漏れる。配信画面では、トマトのヘタがぴるぴると小刻みに震え始めた。
『あ、震えてる』
『それ怖がってる?』
『分かりやすすぎるだろw』
狼は低く唸ると同時に地を蹴り、一直線に達也へと迫ってきた。ヘタがびくっと跳ねる。
『え、待って何こいつ』
『最浅階層にいるやつじゃないだろ』
『ヤバい逃げて、トマト!』
『運営、救助呼べ!!』
視聴者たちが騒然とする中、達也の手には、まともな武器などなかった。腰にナイフはある。だが、この速さの相手に、刃物一本で立ち向かえるとは思えない。
そのとき、足元に生えている植物が目に入った。太く、頑丈そうなツタが、地面を這うように伸びている。狼へ向いていたヘタが、すっと足元へ傾いた。
『足元?』
『何かあるのか?』
狼が飛びかかってくる、その刹那。
(そっちだ!)
考えるより先に、達也の指先がツタへと伸びた。
触れた瞬間、会社のパキラに触れたときとよく似た感覚が返ってくる。
伸びたい。もっと先へ。
達也は、ほとんど反射的にその方向を意識した。
次の瞬間、地を這っていたツタが、びくりと震えた。
「え?」
一本のツタが急激に伸び、狼の前脚へ絡みつく。さらに枝分かれした蔓が、胴へ、後ろ脚へと回り込んだ。
「うおっ!?」
思わず後ろへよろける達也の頭上で――配信画面では、トマトのヘタが驚いたようにぴんと跳ね上がった。
『本人も驚いてるじゃねーかw』
『ヘタに全部出てるw』
『ていうか今の何だ!?』
狼型の魔物は勢いを失い、そのまま地面へ倒れ込んだ。なおも激しく暴れるが、ツタは外れない。むしろ動けば動くほど、絡みついた蔓が身体を押さえ込んでいく。
「……止まった」
達也は呆然と、拘束された狼を見つめた。何度か身体を捩っているが、抜け出せる様子はない。
(……動けないなら、とりあえず大丈夫かな)
そこでようやく、達也の意識が狼からツタへ移った。配信画面のヘタも、いつの間にかツタの方へ傾いている。
(パキラの時と同じ感覚だ)
だが、反応の大きさがまるで違う。会社では、少し元気になった程度だった。それがここでは、狼一匹を縛り上げるほどに成長した。
(……魔力が多いからか?)
理屈は分からない。分からないなら、書いておく。
「……これ、メモしとこう」
配信画面のヘタが、ぴんと立った。
『あ』
『嫌な予感』
達也は百円ショップのノートを取り出すと、足止めされた魔物の目の前でしゃがみ込み、観察記録をつけ始めた。
『は??????』
『今メモ始めたぞこいつ』
『狼より草優先なの草』
『いやトマトの人、戦えるじゃん』
『本人が一番びっくりしてるだろこれ』
ツタに縛られたまま唸る狼を時折横目で確認しながら、達也は周囲の植物にも視線を向けていた。狼は動けない。なら、今のところ問題はない。せっかくここまで来たのだから、採れるものは採っておきたい。そんな判断だった。
気になる植物を見つけるたび、ヘタがそちらへ傾き、達也もそちらへ移動する。
『今度は右か』
『完全に草センサーじゃねーか』
気になっていた植物を一通り採り終えると、達也は採取袋を担ぎ、最後にもう一度狼を見た。まだツタにがっちりと拘束されている。
(まあ、抜けられそうにはないな)
達也は頷くと、そのまま歩き出した。茂みの中には、ツタに全身を巻き付けられた狼だけが残された。配信画面では、トマトのヘタが達也の足取りに合わせて、のんきにぴこぴこと揺れている。
『え、倒さないのかよwww』
『拘束したまま置いてくのか』
『一番怖い帰り方してて草』
『あの狼どうすんだよ』
『ヘタだけは平和で草』
自分が今、配信の向こうで散々突っ込まれていることなど、達也は知る由もなかった。
ーーー
その夜。JDAのモニター室では、昼間の映像が何度も再生されていた。
「もう一度、ツタが伸びる直前からお願いします」
現場運用部の班長・内田誠司の指示で、職員が映像を巻き戻す。達也がツタへ触れる。狼が飛び込んでくる。そして、ツタが一気に伸びる。
「植物への干渉が、想定していたより強いですね……」
画面を見ながら呟いたのは、植物研究班主任の太田敬介だった。
「成長速度だけじゃありません。伸びる方向にも影響しているように見えます。本人が意図的にやったのかは、まだ分かりませんけど」
「ああ」
内田は短く答え、映像の続きを見た。狼を拘束した達也がしゃがみ込んでノートを書き始め、さらにそのまま周囲の植物を採取し始める。配信画面のトマトのヘタは、すっかりツタの方を向いていた。
内田の眉間に皺が寄った。
「……問題は、こっちだな」
「ですね」
広報担当の遠藤も、さすがに苦笑している。
「拘束された個体は?」
「まだ現地です」
「回収班を出してください。他の探索者が接触する前に処理を」
「もう手配しています」
「お願いします」
内田はそこで一度、額を押さえた。
「……で、なんで本人は草のメモを取って帰ってるんだ」
「本人としては、動けなくなったから安全だと思ったんでしょうね……」
太田の答えに、遠藤が「それで帰るか、普通」と呟く。
太田は画面を見たまま、少し考え込んだ。
「本人、魔物そのものにはあまり興味がないんでしょうね」
「分かってる。分かってるから困ってるんだ」
内田のため息に、その場にいた何人かが黙って頷いた。映像の中では、狼を置き去りにしたトマト頭が、何事もなかったように別の草の前へしゃがみ込んでいる。
「誰か護衛をつけるか……」
呟いたのは、実働部隊のリーダーで、警察から出向している坂口康介だった。
「ただ、こういう人が増えるたびに、うちの人間を一人ずつつけるわけにもいきませんよ」
遠藤の言葉に、内田が難しい顔をする。
「分かってる。井上さんだけの話じゃないからな」
戦闘には向かない。だが、ダンジョンの中でしか十分に活かせない能力を持っている。そういう適性者は、達也だけではなかった。
「民間の適性者にも、必要に応じて協力してもらえるような仕組みを考えた方がいいかもしれませんね」
太田の言葉に、坂口が顔を上げる。
「護衛を頼むってことか?」
「それだけじゃありません。探索や採取、調査なんかでも、専門的な能力を持っている人の力が必要になるでしょうし」
「JDAに所属してもらうほどじゃないが、必要なときには協力を頼める人間か」
「ええ」
「……外部から協力してもらう形か」
内田が腕を組む。
まだ名前もなく、制度と呼べるほどのものでもない。ただ、この頃からJDAの中では、組織の外にいる適性者の力をどう借りるかという話が、少しずつ出始めていた。
「まあ、それは今後詰めるとして」
内田はモニターへ目を戻した。画面の中では、達也がまた別の植物を覗き込んでいる。
「まずは井上さんの護衛だな。誰か行ける奴はいるか?」
「……俺が行きます」
報告のため同席していた健吾が、すぐに手を挙げた。
「足立、お前が?」
「はい。たっちゃ……井上とは、昔からの知り合いなんで」
「知り合い?」
「幼馴染です。幼稚園からの」
「そんなに昔からか」
坂口は少し驚いたように、健吾とモニターの中のトマト頭を見比べた。
「なら、性格もよく分かってるか」
「まあ」
健吾は画面を見た。見慣れた幼馴染は、狼を置き去りにしたことなどすっかり忘れたように、地面の草を覗き込んでいる。
「昔からあんな感じです。気になったものがあると、そっちばっかり見てるんで。周りに警戒しろって言うより、俺が見てた方が早いです」
坂口はもう一度画面を見て、それから頷いた。
「分かった。上には俺から話しておく」
「お願いします」
ーーー
一方、その頃。達也は何も知らずに帰宅していた。いつも通りテーブルに百円ショップのノートを広げ、昼間の出来事を思い出しながらペンを取る。
【地を這うツタ】
丈夫で切れにくい。
魔力の多い場所で、急激な成長を確認。
伸びる方向を意識すると反応した?
狼型魔物の拘束に成功。
拘束力はかなり強い。
会社のパキラと似た感覚あり。
魔力量による違い? 要検証。
「……このツタ、なかなか使えるな」
そう呟いて、達也は満足げにノートを閉じた。
JDAの施設が、今まさに自分のことで慌ただしくなっていることなど、達也の穏やかな夜には欠片も届いていない。
その静けさを破るように、スマートフォンが鳴り出した。
「……もしもし?」
『よお、たっちゃん。今、大丈夫か?』
「あ、ケンちゃん。大丈夫だよ」
『今日の件なんだけどさ。これから、お前の探索に俺もついてくことになったから』
「ケンちゃんが?」
『おう。護衛だってさ』
「護衛……」
達也は少し驚いたものの、すぐに肩の力を抜いた。
「ケンちゃんなら心強いな」
『だろ?』
電話の向こうで健吾が笑う。
『まぁ、周りは俺が見とくからさ。たっちゃんは今まで通り、植物の観察をしてたらいいぞ』
「それなら助かる」
『おう。じゃ、また明日な』
「うん。よろしく、ケンちゃん」
電話が切れる。達也はスマートフォンを置き、テーブルの上のノートへ目を落とした。
「……明日からケンちゃんも一緒か」
それなら、今までよりゆっくり植物を見られるかもしれない。そんなことを考えながら、達也はさっき書いたツタの記録をもう一度読み返した。
お読みいただきありがとうございました。
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