第六話「100均ノート」
第六話「100均ノート」
「井上達也さん、少しお時間よろしいでしょうか」
実技訓練が終わり、機材を返却していた達也に、職員が声をかけてきた。わざわざフルネームで呼び止められて、達也は少し身構えた。
「あ、はい……」
案内されたのは、施設の隅に設けられた、簡素なパーテーションで区切られただけの小部屋だった。
(……何か、まずいことしたかな)
椅子に座りながら、今日の訓練を思い返す。
(触るなって言われてた草、触ったし……勝手に採ったし……投げたし……)
思い当たる節が、多すぎた。
向かいの席には、眼鏡をかけた男が座っていた。白衣こそ着ていないが、手元には何枚もの資料が広げられている。胸元の名札には、太田敬介と書かれていた。
「本日は、お疲れ様でした」
「あ、はい。こちらこそ……あの、僕、何か問題でも……」
「いえ、問題というわけではありません」
太田は手元の資料に一度目を落とし、それから達也を見た。
「あの植物について、いくつかお伺いしたいことがありまして。訓練中に使っていたものです」
「ああ……」
やっぱり草だった。達也は少しだけ姿勢を正した。
ーーー
「あの粘液が、空気に触れると固まる性質を、どうして知っていたんですか?」
「えっと……触ったら、なんとなく分かって……」
「……なんとなく」
「はい」
太田が黙った。その沈黙が、達也には妙に長く感じられた。
(やっぱりまずかった……)
「……もう少し、具体的にお願いできますか」
「具体的に、と言われても……」
達也は困った。本当に、なんとなくとしか言いようがないのだ。
植物に触れると、その植物がどれくらい水を欲しがっているのか、どんな土を好むのか、食べられそうなのか、何か変わった性質を持っているのか――そういったものが、言葉ではなく感覚として流れ込んでくる。
「触った瞬間に、頭の中に、こう……ふわっと分かる、みたいな……」
「ふわっと」
「はい。ふわっと」
太田は眼鏡の奥で目を細めた。信じていないというより、どう記録すればいいのか分からない、という顔だった。
「……先ほど、もう一種類、別の植物も使っていましたよね。根に強い臭いがある方です」
「あれも同じ感じです。なんとなく、虫が嫌がりそうだなって」
太田のペンが止まった。
「その『なんとなく』は、どの程度まで分かるんですか?」
「どの程度……植物によりますね」
「植物による?」
「はい。水が足りないとか、日当たりが欲しいとかは結構分かりやすいんですけど。変わった性質は……触ってみないと分からないこともありますし」
「では、触れれば全部分かる?」
「いや、そこまでは」
達也は首を振った。
「分からないものは、普通に分からないです」
「……なるほど」
太田は小さく呟き、何かを書き込んだ。
「ちなみに、鉱石のような石は? 土属性ということでしたので、植物以外にも何か分かるのかと」
「ああ……」
達也は少し考えてから答えた。
「見ても、石だなって思うくらいですね」
「……石だな」
「はい」
太田のペンが、また止まった。
ーーー
「植物について、何か記録は残していますか」
いくつか質問を重ねたあと、太田がそう尋ねた。
「あ、ありますけど……」
達也が鞄から取り出したのは、一冊のノートだった。表紙には何の飾りもない。駅前の百円ショップで買った、ごく普通のノートだ。
「これでよろしければ……」
「拝見しても?」
「どうぞ」
太田はノートを受け取り、最初のページを開いた。
(メモ帳か……)
疑問符だらけの走り書きが並んでいる。最初は、その程度にしか思わなかった。
だが、何ページか先で、太田の手が止まった。最初のページにあったのと同じ名前の項目が、今度はずっと細かく書き直されていた。
【赤っぽい葉】
表面に細かな毛。
採取地点――模擬区画北側。
土は湿り気あり。日陰。
葉を傷つけると透明な汁。
傷口につけると、出血が止まりやすい?
小さな傷で確認。
出血量が少なかったため、効果は不明。
要検証。
太田は顔を上げた。
「……これは、ご自身で試したんですか?」
「小さい傷ですけど」
「そういうことではなくてですね」
「あ、すみません」
「いえ、謝っていただきたいわけでもなくてですね……」
太田は額を押さえ、もう一度ノートに目を落とした。次のページ。
【細長い葉の草】
強い苦味があると思われる。
そのままでは食用に向かない?
処理によって食用にできる可能性あり。
未検証。
「これは、食べられるということですか?」
「たぶん、ですけど。まだ検証できていないので、食べてはいないです」
「分かりました。こちらに関しては、研究所で検証します」
「お願いします」
太田は、その記述をもう一度見た。食べられそうだと感じた。だが、確かめてはいない。だから、食べられるとは書いていない。可能性があることと、未検証であることだけが残されている。
「能力でそう感じても、ご自身では試さないんですね」
「危ないかもしれませんから」
達也は当然のように答えた。
「それに、今は持って帰って調べられるわけでもないですし」
「……なるほど」
太田はページをめくった。採取場所、周囲の土、日当たり、匂い、触れたときの感触。能力で感じ取った性質と、実際に確認できた結果。そしてその中に、「未検証」「要検証」「不明」という言葉が頻繁に並んでいた。
几帳面な研究記録とは言い難い。書き方も、最初の頃はかなりばらついている。それでも、何を感じて、何を実際に確かめて、何がまだ分かっていないのかだけは、妙にはっきり分けられていた。
「……これ、全部お一人で?」
「はい。忘れそうだったので」
「いつからですか?」
「最初の実地訓練からですね。最初は能力で分かったことだけ書いてたんですけど、あとから、実際に確認できたことも書くようにして」
太田の指が、あるページで止まった。
【青い茎の草】
触ると強い粘り気。
空気に触れると固まりやすい?
不用意に素手で触れない方がいい。
用途――不明。
要検証。
「……この植物、今日の訓練で使ったものですよね」
「あ、はい。今日、下に書き足しました」
太田が視線を少し下へ動かす。
魔物が踏み潰した際、粘液が急速に凝固。
足止めに使用できることを確認。
詳細――要検証。
「以前から、この性質には気づいていたんですか?」
「前に訓練施設で触ったときに、固まりそうだなっていう感じはしてました」
「実際に固まるところを確認したのは?」
「今日が初めてです」
「……なるほど」
「固まりやすい?」「要検証」と書かれた最初の記述の下に、今日の確認結果が続いている。感じたことと、確かめたことが、時間差で追記されているのだ。
「……このノート、少しお預かりしてもよろしいでしょうか」
「あ、どうぞ。コピーとか取ります?」
「ええ。できれば」
「じゃあ、お願いします」
あまりにも軽く渡されたため、太田は一瞬、返事が遅れた。
ーーー
「一つ、確認してもいいですか」
太田は、まだノートを開いたままだった。
「これ、能力で感じたことと、実際に確認したことを、意識して分けていますよね。どうしてです?」
「どうして……」
達也は首を傾げた。
「能力で分かることが、全部正しいとは限らないので」
太田の視線が止まった。
「……全部正しいとは限らない?」
「だって、なんとなくですから」
達也にとっては、それだけの話だった。
「僕が勘違いしてるかもしれませんし。食べられると思ってても、実際は違うかもしれませんから」
「だから、未検証のものは未検証のままにしている?」
「はい。確認できたら書き足してます」
太田はノートへ視線を落とし、もう一度、最初からページをめくっていった。
能力で感じたこと。そこから考えたこと。実際に確認できたこと。まだ分からないこと。書式は統一されていないし、測定機器を使っているわけでもない。正式な植物名すらない。
ただ、分かっていることと、分かっていないことだけは、混ざっていなかった。
「井上さん。この記録、研究班でも確認させていただいていいですか?」
「いいですよ」
即答だった。
「個人的な記録も含まれていると思うんですが」
「植物のことしか書いてないので」
「……そうですか」
「はい」
太田はノートの表紙を見た。値札こそ剥がされているが、どこからどう見ても普通のノートだった。
「では、コピーを取らせていただきます。原本は今日中にお返しします」
「あ、急がなくても大丈夫ですよ」
「いえ。返します」
そこだけは、太田が妙に強く言った。
ーーー
数十分後。太田は、コピーした紙の束を抱えて、施設内に設けられた植物研究班の作業室へ戻った。
「太田さん、どうでした? 例の、植物使ってた訓練参加者」
机に向かっていた研究員の一人が顔を上げる。
「話を聞いてきた。本人にも、よく分かってない」
「はい?」
太田は紙の束を机に置いた。
「ただ、記録があった。本人がつけてたものだ」
研究員が一枚手に取る。
「……手書き? これ、何の様式です?」
「本人の自作。百円ショップのノートだそうだ」
研究員が太田を見たが、太田は何も言わず、紙を指した。
「読んでみろ」
研究員は半信半疑のまま、一枚目に目を通した。しばらくして二枚目を取り、三枚目に進んだあたりで、表情が変わった。
「……これ、採取地点も書いてあるんですね。土の状態も。こっちの記述は?」
「本人が能力で感じ取ったものらしい」
「じゃあ、この下に追記されてるのは?」
「実際に確かめられたものだ」
研究員の指が止まった。
「……分けてるんですか? 能力で分かったことと、実際に確認できたことを?」
「本人いわく、間違ってたら困るから、だそうだ」
研究員は黙って、もう一度最初のページへ戻った。
「太田さん。これ、結構使えません?」
「ああ」
太田は短く答えた。だから持ってきたのだ。
「この植物、サンプル残ってましたっけ。止血作用があるかもしれないってやつです。採取場所は、模擬区画北側って」
「確認してくれ。残ってるなら採取する」
「分かりました」
会話を聞きつけて、別の研究員も近寄ってきた。
「何です?」
「訓練参加者の植物記録」
「見せてください」
一枚取って目を通すなり、その研究員が顔を上げた。
「……これ、虫除けって今日使ってたやつですか?」
「そうだ」
「忌避成分、調べます?」
「サンプルは回収してある。成分分析に回してくれ」
「了解です」
紙の束を中心に、少しずつ人が集まってくる。
「こっちは食用の可能性あり、ですか」
「ああ。本人もまだ試していない。サンプルがあるなら、まず毒性から確認してくれ」
「分かりました」
「能力で食べられそうって分かっても、食べてないんですね」
別の研究員が、ページを覗き込みながら言った。
「本人は『危ないかもしれないから』と言ってた」
「……意外と慎重なんですね」
「今日、未確認の草を魔物に投げた人間だけどな」
「ああ……」
二人して少し黙った。
太田は、別の一枚を手に取った。能力で感じた性質、実際の確認、未検証、要検証。まだ粗いし、足りない項目も多い。だが、少なくとも、どこまで分かっていて、どこから分かっていないのかは追える。
「……これ、同じように整理してみるか」
「整理?」
「採取済みの植物だ。場所、環境、外見、確認できた性質、未確認のもの。まず分けてみよう」
「この形式で?」
「そのままじゃなくていい。必要な項目はこっちで足す」
太田はコピーの束を軽く叩いた。
「ただ、分かっていることと、まだ分かっていないことは、混ぜない方がいい。井上さんの記録も、こっちで確認できたものから照合する」
「結構ありますよ、これ」
「だからやるんだろ」
研究員が苦笑した。
「今日、残業ですかね」
「たぶんな」
「聞かなきゃよかった」
そう言いながらも、誰も紙を置かなかった。
ーーー
その日の夜。
テスト配信の録画映像は、限られた関係者の間で共有され、その一部は、まだ利用者の少ない初期のネット掲示板にも、こっそりと流れ始めていた。
『あのトマト頭、なんなんだよ』
『草投げて魔物止めてたぞ、あれ』
『植物に関係する能力らしい』
『そんなのあるのか?』
『ていうか何でトマトなんだ』
『魔物より草見てない?』
『途中で普通に草触ってたぞ』
『怖くないのかあいつ』
名前らしい名前は、まだ誰もつけていなかった。断片的な映像を見た数人が、思い思いに感想を書き込んでいるだけの、小さな盛り上がりだった。
当の達也は、そんなことなど知る由もなく、電車に揺られて帰宅していた。太田とのやり取りを思い返すと、なんとなく落ち着かない。
(結局、怒られはしなかったな……)
ノートまでコピーされた。何に使うのかはよく分からなかったが、植物を調べる人たちの役に立つなら、悪いことではないだろう。
家に着くと、鞄を置いて、いつものようにベランダへ出る。トマトの鉢を覗き込み、土に指を触れた。
(水は……まだ大丈夫そうだな)
青い実は、少しずつ大きくなっている。達也はしばらくそれを眺めてから、部屋へ戻った。
机の上に、返してもらったノートを開く。
【青い茎の草】の下には、昼間に書き足した確認結果が並んでいる。達也はページを戻り、【茶色い根】の項目を探した。最初の日に「虫が匂いを嫌がってる? たぶん。」とだけ書いたところだ。少し考えて、その下へ書き足す。
魔物(芋虫型)にも忌避効果あり。
対象による差――不明。
要追加検証。
そこで一度、ペンを止める。今日、太田に何度も聞かれたことを思い出した。どうして分かるのか。どこまで分かるのか。自分でも、うまく説明できなかった。
「……まあ、分かんないものは分かんないよな」
達也は少し考え、ページの端に新しく見出しを作った。
【能力について】
植物に触れた際、性質が感覚的に分かる。
どこまで正確なのか――不明。
今後も要確認。
それを見て、ひとまず納得する。
「……今日もメモしとこ」
達也は、もう一度ペンを走らせた。
お読みいただきありがとうございました。
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