第四十八話「これからの子どもたち」
第四十八話「これからの子どもたち」
月曜の朝、達也はいつもより少し早く席に着いた。
ふくらはぎに、土曜日の探索の張りがまだ残っている。鞄の内ポケットには、角の丸くなった100均ノートが入っていた。週末に書き足したページには、まだ土の匂いがしみている気がする。
土曜日は、岩場の陰で、葉の縁が細かく裂けた草を見つけた。そのページの最後にも、いつもの「要検証。」が書いてある。
鞄を机の脇へ置き、パソコンを立ち上げてメールを確かめる。いつもの月曜日だった。
ただ、その朝の営業部のフロアは、いつもより少しだけにぎやかだった。
「おはようございます。……ご無沙汰してます」
入口で頭を下げたのは、達也の隣の席の先輩だった。一年の育休を終えて、今日から復帰する。スーツは前と同じもののはずなのに、どこか着慣れない様子で、さっきからネクタイの結び目を何度も直している。
「お、おかえり」
「おかえりなさい」
あちこちから声がかかり、課長が「今日は無理しなくていいからな」と笑った。先輩は照れくさそうに頭をかきながら、自分の席に鞄を置いた。一年ぶりの机は、出ていったときのまま、きれいに片づいていた。
達也は、まとめておいた資料を差し出した。
「これ、お休みの間の動きです」
「助かる。……うわ、一年でこんなに変わるのか」
「取引先の担当が四社変わってます。あと、受注の入力画面が新しくなりました。去年の秋からです」
「そこからか……」
先輩は資料をめくりながら、ひとつずつ確認していく。達也が横から説明を補い、先輩が「ああ、そういうことか」と頷く。そんなやり取りを何度か繰り返すうちに、その顔からも少しずつ固さが抜けていった。
一段落したところで、向かいの席の同僚が身を乗り出した。
「で、写真は?」
「……言うと思った」
先輩はまんざらでもない顔でスマートフォンを取り出した。画面には、ソファにつかまって立つ小さな子どもが写っている。周りから「立ってる」「もうこんなに大きいのか」と声が上がった。
「夜泣き、どうなんですか」
「まだある。夜中の二時と四時。最近は離乳食も交代で作ってるんだけど、俺が起きる前に嫁さんが起きてることの方が多くて」
「それ、あとで言われるやつですよ」
「もう言われてる」
笑い声が起きて、そのまま始業のチャイムが鳴った。
ーーー
昼休み、達也が自分の席で弁当を広げていると、隣で先輩がまたスマートフォンを眺めていた。朝とは別の写真らしい。仰向けで、両手を上げたまま眠っている。
「よく寝てますね」
「昼はな。夜に寝てくれればいいんだけど」
先輩は苦笑して、それから画面を見たまま、ぽつりと言った。
「こいつが大きくなる頃には、魔法ももっと普通になってるんだろうな」
達也は箸を止めて、頷いた。
ダンジョンが現れて五年になる。最初の頃は、ニュースの向こう側の出来事だった。今では、通勤電車の中で配信の話をする学生がいて、薬局には回復薬の名前が並び始めている。その元になった草のいくつかには、達也も採取や調査で関わっていた。
この子が大人になる頃には、たしかにもっと当たり前になっているのだろう。
「井上は適性あったんだよな」
先輩が言った。達也に適性があることは、職場でも知られていた。
「はい、一応」
「俺はなかったけど……この子はどうなんだろうな」
がっかりしているようには聞こえなかった。かといって、期待をかけているようでもない。ただ、この子がどんなふうに大きくなるのかを考えていたら、ふと浮かんできた。そんな声だった。
「どうなんでしょうね」
達也は少し考えてから、画面の中の子どもに目をやった。
「でも、それが分かるのは、まだずっと先ですよ」
「だよな。検査、十八からだもんな。まだ十七年先か」
先輩は笑って、画面を指でずらした。次の写真では、子どもが大きく口を開けて泣いていた。
「まあ、元気に育ってくれればいいんだけどな。……これ見て、これ。泣き顔がさ、俺にそっくりって言われるんだよ」
「……似てますね」
「だろ」
話はそのまま、来週の打ち合わせと、紙おむつの値段の話に移っていった。
ーーー
午後は、海外の取引先から届いた英文のメールの返信から始めた。納期の確認と、先月分の数量の修正。何度かやり取りしてきた相手なので、言い回しにはもう迷わない。送信を押してから、見積もりの数字をもう一度確かめる。
手が空いたわずかな合間に、昼の会話がふと戻ってきた。
小学生の頃、学校の帰り道に、健吾と将来の話をしたことがある。
「俺、警察官になる」
ケンちゃんは迷わずそう言って、たっちゃんは、と聞いてきた。分かんない、と答えたら、ずるいと言われたのを覚えている。
健吾は、本当に警察官になった。
達也は、あの帰り道から長いあいだ、何になりたいのか決められないままだった。決められないまま会社に入り、ベランダでトマトを育てて、それなりに楽しく暮らしていた。そこへダンジョンが現れて、今は週末ごとに土の上を歩いている。子どもの頃の自分に話しても、きっと信じないだろう。
あの頃の「何になる」の中に、魔法という答えはどこにもなかった。親もきっと、息子がどんな魔法を使えるようになるかなんて、考えたこともなかったはずだ。考えようがなかった。魔法も、ダンジョンも、どこにもなかったのだから。
それが今は、一歳になったばかりの子どもについて、そんな話をする。
先輩は楽しそうだった。あの子の将来を想像するのは、きっと幸せなことなのだろう。ただ、五年という時間が、こんなふうに会社の昼休みにまで入り込んでいることが、少し不思議だった。
達也は画面の数字に目を戻した。
ーーー
会社を出る頃には、空はすっかり暮れかけていた。
帰りの電車で吊り革につかまっていると、スマートフォンが短く震えた。健吾からだった。
土曜、いつもの時間でいいか。
それだけの短い文面だった。達也は「うん」と打ちかけて、指を止めた。
昼間に思い出した帰り道のことを、書いてみようかと思った。警察官になるって言ってたよね、とか。ずるいって言われたの、覚えてる? とか。
少し考えてから、書くのはやめた。今さら何の話だと言われそうだったし、うまく続きを書ける気もしなかった。
うん。いつもの時間で。
そう返すと、すぐに既読がつき、親指を立てたスタンプがひとつ返ってきた。いつもと同じだった。達也は小さく息をついて、スマートフォンをポケットにしまった。
降りた駅の前の大型ビジョンでは、どこかの探索者の配信の切り抜きが流れていた。炎が魔物を包み、短いテロップが躍る。足を止めて見上げる人は、もうほとんどいない。達也もそのまま、家のほうへ向かう人の流れに混ざった。
駅からの帰り道、公園の前を通りかかると、塾の鞄を背負った子どもたちが、フェンスの前でたむろしていた。授業が終わったばかりなのか、まだ帰る気はなさそうだった。
「僕のお父さん、探索者なんだ! だから僕も、強い探索者になる!」
ひときわ大きな声が聞こえた。弾むような声だった。
「すげえ。何の魔法?」
「火! お父さん火だから、僕もたぶん火」
「いいなあ。俺、風がいい。空飛べるやつ」
「風で空って飛べるの?」
「飛べるよ。たぶん」
「私は光がいい!」
女の子が勢いよく手を挙げた。
「りぼんちゃんみたいなやつ。笑うと、きらきらってなるの。可愛いもん」
「それ、戦えなくない?」
「戦わなくてもいいの。薬の草を探す人とか、戦わない人もいるんだよ」
「ふうん」
子どもたちは笑いながら、使いたい魔法の話を次々に続けた。
達也も、最初は微笑ましく聞いていた。健吾も、あんなふうに迷わず警察官になると言っていた。
けれど、「お父さんが探索者だから」という一言が、なぜか耳に残った。
昼間の先輩の声を思い出す。
この子はどうなんだろうな。
お父さん火だから、僕もたぶん火。
そう思ったとき、別の声が重なった。
「お父さんもお母さんも使えないんだって。僕も使えないかも」
一般公開の日、橙豊香の鉢を熱心に見比べていた男の子だった。
あの子も、フェンスの前ではしゃいでいる子も、まだ検査を受けられる年ではない。本当のことが分かるのは、何年も先だ。
子どもたちは明るく話し続けている。誰も悲しい顔はしていない。それなのに、胸の奥が少しずつざわついてくる。
何がそんなに気になるのか、達也は自分でもうまく言えなかった。あの子の夢を否定したいわけではない。声をかけるような言葉も、何ひとつ浮かばない。
信号が変わり、達也は歩き出した。背中のほうで、子どもたちの笑い声が少しずつ遠ざかっていった。
ーーー
部屋に戻ると、達也は鞄を置いて、まず窓際の鉢を見た。
橙豊香の葉が、また一枚開いている。朝はまだ巻いていたはずの葉が、照明の下で薄く広がっていた。達也はそっと指先で触れた。水は足りている。根も落ち着いている。いつもと変わらない、穏やかな感覚が返ってきた。
栽培ノートを開いて、ペンを持つ。
書きながら、ふと昼間の写真を思い出した。両手を上げて眠っていた小さな子ども。それから、フェンスの前の弾んだ声と、鉢を見比べていた男の子の横顔。
ペンが、少しだけ止まった。
達也はもう一度葉に目を戻し、定規を当てた。
【橙豊香】
新しい葉が一枚開いた。
長さ六・二センチ。
前の葉より色がやや薄い。
水、根の状態に変化はなし。
色の違いが成長の段階によるものかは、まだ分からない。
要検証。
日付を書き足して、達也はノートを閉じた。
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