第四十三話「一進一退」
第四十三話「一進一退」
日曜日。
達也が植物研究室の扉を開けると、鉢植えの間で記録用紙をめくっていた太田が顔を上げた。
「あ、井上さん。おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を返して鞄を下ろそうとしたところで、太田が手にしていたバインダーを胸の前で抱え直した。何か言いにくそうに、少しだけ視線が泳ぐ。
「すみません。午後なんですが、千葉さんのところへ顔を出してもらってもいいですか?」
「千葉さんのところですか?」
「ええ。実験で進展があったそうで、井上さんにも協力してほしいそうなんです」
「へぇ。何だろう? 分かりました」
「せっかく来てもらっているところ、申し訳ないんですけどね」
太田はすまなそうに、研究室に並んだ鉢植えへ目を移した。どの鉢にも、今日確認する予定の札が差してある。
達也は鞄を下ろし、いつものノートを取り出した。
「じゃあ、午前中にできるところは進めましょうか」
「ええ。お願いします」
太田はほっとしたように表情を緩め、それから小さく肩をすくめた。
「……千葉さん、いつも急なんですよね」
独り言のような呟きに、達也は思わず笑ってしまった。ノートを開き、達也は太田と並んで一鉢ずつ確認を始めた。
ーーー
午後。魔法運用研究班の研究室を訪ねると、千葉は机の前で誰かと話していた。こちらに向けられた広い背中に、見覚えがある。
「あれ、ケンちゃん?」
「おう、たっちゃん」
振り返ったのは、健吾だった。
「ケンちゃんも呼ばれたの?」
「ああ。実験に協力してほしいってな」
「へえ、そうなんだ」
二人が話している間に手元の確認を終えたのか、千葉が顔を上げた。
「あ、井上さん。お待ちしてました」
「こんにちは。今日は二人で実験ですか?」
「ええ。今回は土属性と光属性、両方のデータを取りたかったので」
千葉は嬉しそうに二人を手招きした。
「ちょっと面白いところまで来ましてね」
机の上には、見慣れない装置が置かれていた。金属製の台座に透明な石が固定され、そこから伸びた細い配線が、隣の測定器へとつながっている。
「これ、もしかして……」
「覚えてます? 以前、高城さんが見つけた透明鉱石です」
「あっ! 属性で光の色が変わった石ですよね!」
「そうです、そうです!」
千葉は何度も頷いた。以前は魔力を流して反応を確かめていた透明鉱石が、今では触れるだけで魔力に反応し、その光り方の変化を数値として記録できるようになったという。
「触るだけでいいんですか?」
健吾が身を屈めて装置を覗き込む。
「ええ。意識して魔力を使わなくても反応するんですよ」
「へえ……」
「そんなことまでできるようになったんですね!」
達也が感心すると、千葉は得意げに頷いた。
「まだ試作品ですけどね。では、早速試してみましょうか」
最初に呼ばれたのは達也だった。
「ここに触れてもらえますか?」
「はい」
達也はそっと指先を伸ばした。ひやりとした感触が伝わった瞬間、石の内側に淡い光が灯る。
「あ、光った!」
「おお、本当だ」
横から健吾が覗き込む。千葉は測定器の画面を確かめ、近くにいた研究員へ声をかけた。
「今の数値、記録お願いします」
「はい」
透明鉱石の光は一定ではなく、呼吸でもするように、ゆっくりと明るさを変えていた。
「井上さん、今は魔力を使っていませんよね?」
「はい。触ってるだけです」
「いいですね。これまで測定した土属性の方と似た反応です」
「へえ、これが僕の反応なんですね」
達也は指先の下で灯る光をまじまじと眺めた。
「前は魔力を流さないと光らなかったのに」
「そうなんですよ。そこが今回の進歩でしてね」
千葉が測定器を指さす。画面には、細かな線が上下しながら伸びていた。
「これ、全部記録できるんですか?」
「ええ。以前は光り方を観察するしかありませんでしたが、今はこうして数値で比較できるようになったんです」
「すごいですねえ」
「でしょう!」
千葉の声が弾んだ。
達也が手を離すと、光はゆっくりと弱まり、やがて溶けるように消えた。再び触れると、また淡い光が灯る。何度繰り返しても、似た反応が返ってきた。
「今のところ、安定していますね。同じ人なら、だいたい似た数値になるようです」
「なるほど」
「では、次は少しだけ魔力を使ってみてもらえますか?」
「魔力を、ですか?」
「ええ。普段、植物に働きかけるときのような感じで」
「分かりました」
達也は透明鉱石に指を置いたまま、植物に触れるときの感覚を思い浮かべた。葉や茎の内側へ、そっと意識を向けるように。すると、淡かった光がわずかに強さを増した。
「あ、明るくなった」
「おお、変わりましたね!」
千葉が測定器を確認し、健吾も横から画面を覗き込む。
「数値も上がってるな」
「ええ。意識して魔力を使うと、反応が変わるようですね」
達也が意識を緩めると、光は元の明るさへ戻っていった。
「なんだか、植物に触ってるときみたいですね」
「そうなんですか?」
「まあ、植物の方は光りませんけど」
横で健吾が、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「じゃあ、次は俺ですか?」
健吾が尋ねる。
「ええ。お願いします」
達也と入れ替わりに、健吾が透明鉱石の前に立った。
「普通に触ればいいんですよね?」
「はい。魔力は使わずにお願いします」
「分かりました」
健吾が石に指を置くと、達也のときとは違う色の光が、透明鉱石の内側に灯った。
「おお!」
達也が身を乗り出す。
「やっぱり違うんですね!」
「以前も属性で色が変わってたけど、触るだけでも違うのか」
健吾も興味深そうに石を見つめている。千葉は測定器の画面を切り替え、達也の結果と並べて表示した。二本の線は、上下する幅も形もまるで違っていた。
「見てください。こちらが井上さんで、こちらが足立さんです」
「へえ、全然違う」
「本当だな」
「まだ人数が少ないので断定はできませんが、属性によって反応の傾向が違うようなんです」
健吾が手を離すと光は消え、もう一度触れると、先ほどと似た反応が戻ってくる。
「ちゃんと同じようになるんだな」
「ええ。これがもっと安定すれば、色々なことに使えるかもしれません」
千葉は記録を確認しながら頷き、続いて健吾にも少しだけ魔力を使ってもらうことになった。
「光を出せばいいんですか?」
「いえ、光球は作らなくて大丈夫です。少しだけ魔力を使う感覚で」
「なるほど」
健吾が石に触れたまま意識を向けると、光が強くなり、測定器の線も大きく跳ねた。
「おお、変わった」
「足立さんも反応が出ましたね」
「俺、光は出してないんですけどね」
「それでも魔力は使っているようですね」
健吾は石から離した自分の手を、しげしげと眺めた。
「こうして見ると、なんか不思議ですね」
「分かる。僕もさっき思った」
二人が顔を見合わせる横で、千葉は満足そうに測定結果を書き留めていた。
しかし、ここまで順調だった実験にも、まだ問題が残っていた。
「実は、ちょっと困ったことも分かりまして」
千葉は近くで記録を取っていた研究員を呼び寄せた。以前の適性検査で、ダンジョンに入れなかった人物だという。
「この方にも試してもらいます」
研究員が透明鉱石に触れる。しかし石は透明なまま、何の反応も示さなかった。
「あ、光らない」
「本当だな」
「今のところ、適性検査で入れなかった方には反応が出ていないんですよ」
「じゃあ、ちゃんと違いが出るんですね」
「ええ。ここまでは、なかなかいい結果なんですけどね」
千葉は机の端から黒い石を取り上げた。
「今度は、これを持って触ってもらえますか?」
研究員が受け取ったのは、以前から実験に使われている、魔力を蓄えた黒い石だった。片手にそれを握ったまま、もう片方の手で透明鉱石に触れる。すると、先ほどは何の反応もなかった石の内側に、小さな光が灯った。
「……あれ?」
達也が目を丸くする。
「光ったぞ?」
健吾も思わず身を乗り出した。
「でしょう?」
千葉は苦笑した。
「適性検査で入れなかった方でも、魔力を蓄えた石を持っていると反応してしまうんです」
「それ、駄目じゃないですか」
「そうなんですよ」
研究員が黒い石を机に戻し、改めて透明鉱石に触れる。今度は光らなかった。
「黒い石の魔力を拾ってるんですか?」
達也が尋ねる。
「おそらくは。ただ、どこからどう伝わっているのか、まだ調べているところです」
「じゃあ、持ってなければ大丈夫なんですか?」
健吾の問いに、千葉は首を横に振った。
「それが、そうでもないんです」
千葉が黒い石を装置のすぐそばに置く。誰も触れていないはずの透明鉱石が、かすかに光を帯びた。
「……え?」
「おい、誰も触ってないぞ」
記録を取っていた研究員も顔を上げた。
「やっぱり出ますね」
「ええ。近くにあるだけでも反応することがあるんですよ」
一同が透明鉱石を見つめる。千葉が黒い石を少し遠ざけると光は弱まり、近づけるとまた強くなった。
「距離でも変わるんですね」
「そうなんです。これが厄介でしてね」
千葉は測定器の設定を切り替え、小さな反応を拾わないように感度を下げた。透明鉱石はかすかに光ったままだったが、画面の数値は小さくなり、やがて反応を示す線が平らになった。
「あ、線が消えましたね!」
「ええ。では井上さん、もう一度お願いします」
「はい」
達也が透明鉱石に触れる。石の内側には、さっきと同じ淡い光が灯った。
しかし、画面の線は動かなかった。
「……あれ?」
「井上さんの反応まで拾えなくなりました」
「駄目じゃないですか」
「困ったものでしょう?」
千葉はおかしそうに笑った。
「じゃあ、少し戻したらどうなんですか?」
健吾が尋ねる。
「それも試してみましょう」
千葉が設定を少しだけ戻すと、画面の線が小さく揺れた。
「お、出た」
「でも、この設定だと……」
千葉が黒い石を近づけると、線の振れ幅がわずかに大きくなった。
「ああ……」
「また拾ったな」
「でしょう?」
千葉は測定器を見つめながら苦笑した。
「余計な反応を消そうとすると、必要な反応まで消えてしまうんです」
その後も設定を変えながら何度か試したが、結果は変わらなかった。黒い石の影響を除こうとすれば、達也や健吾の反応まで拾えなくなってしまう。
「これじゃ、適性があるかどうか分からないですね」
「ええ。今のままでは、とても判定には使えません」
千葉は小さく息をつき、測定器の設定を元に戻した。健吾が腕を組んで透明鉱石を眺める。
「でも、触るだけで分かるところまでは来たんですよね?」
「ええ。そこは大きな進歩です」
「前は魔力を使わないと反応しなかったもんな」
「そうだね」
達也も頷いた。光の色が変わることを確かめるだけだった透明鉱石が、今では触れるだけで反応を示し、その違いを数値として残せるようになっている。けれど、測れるようになったからこそ、見えてきた問題もあった。
「難しいですねえ」
「ええ。でも、そこが面白いんですよ」
千葉は楽しそうに笑った。
ふと、達也の目が机の上の黒い石に留まった。
「……そういえば、青い花も黒い石から魔力を取り込んでましたよね」
「ええ。根から取り込んでいましたね」
「あのとき、根だけでも魔力を取り出せましたよね」
「覚えてますよ。あれには驚きました」
「今も使ってるんですか?」
「ええ。あれから随分進みましたよ」
千葉によると、青い花の根を使った実験も続いているらしい。乾燥のさせ方や根の太さを揃えることで、黒い石から取り出せる魔力の量が安定してきたという。
「へえ! じゃあ、うまくいってるんですね」
「ええ。ただ、取り出す量を途中で変えたり、止めたりするのが難しくて」
「ああ、調整が難しいんですね」
「そういうことです」
魔力を取り出すことはできる。けれど、それを思いどおりに扱えるかどうかは、また別の話だった。千葉たちは今も、加工方法や実験条件を変えながら調べ続けているという。
「そっちも装置になるんですか?」
「できれば、ですね。今の測定装置とは別に進めています」
「へえ。楽しみですね」
「ええ。仕事は増えますけどね」
千葉が笑った。達也は研究室の中を見回した。机や棚の上には、透明鉱石の装置のほかにも、用途の分からない試作品がいくつも並んでいる。
「そういえば千葉さん、交流会で見せてた光の箱って、どうなったんですか?」
「ああ、あれですか。今は照明として使えないか試しているんですよ」
「へえ! じゃあ、魔法の電球ですね」
「そうなんです。ただ、一つ困ったことがありまして」
「何ですか?」
「消せないんですよ」
「……え?」
達也が首を傾げる横で、健吾が顔を上げた。
「消せないって、あの光球ですか?」
「ええ。足立さんが作ってくださったものと同じです」
能力者が光球を作っている間なら、大きさや明るさを調整できる。しかし、いったん制御を離れてしまうと、それ以降は手を加えられない。鉱石のように線をつなぐこともできず、今のところは内部に保持した魔力が尽きるまで光り続けるのだという。
「まあ、俺も作るときなら明るさを変えられるんですけどね」
「ええ。そこなんですよ。作ったあとも調整できればいいんですが」
「じゃあ、どうするんですか?」
達也が尋ねる。
「今は箱を閉じて、光を遮るしかありませんね」
「……それ、箱の中はずっと明るいんですよね?」
「ええ。魔力がなくなるまでは」
「なんだか、もったいないですね」
「だな」
健吾も頷いた。箱を開ければ照明になり、閉じれば周囲は暗くなる。けれどその間も、箱の中では光球が光り続けている。光を遮ることはできても、光球そのものを消せるわけではなかった。
「前は箱に光を入れるだけでよかったのにな」
健吾がぼそりと呟いた。
「今度は消す方なんですね」
「ええ。研究が進むと、別の問題が出てくるんですよ」
千葉は楽しそうに笑った。
「……また箱が増えたりしませんよね?」
「どうでしょうねえ」
「そこは否定してくださいよ」
達也が笑う横で、千葉は何も答えず、ただにやりと口の端を上げた。
ーーー
その後も、二人は何度か透明鉱石に触れて測定に協力した。手の位置や触れている時間を変え、数値の変化を確かめていく。千葉たちは結果を一つずつ記録していったが、黒い石による誤反応を防ぐ方法は、結局見つからなかった。
「うーん、今日はここまでですかね」
千葉が壁の時計に目をやった。
「お二人とも、ありがとうございました。おかげでデータも増えました」
「いえいえ。面白かったです」
「俺も、こういう実験は久しぶりでした」
「またお願いすることがあるかもしれませんが」
「はい。日曜日なら、太田さんに聞いてもらえれば」
「俺の方は実働部隊を通してもらえれば」
「分かりました。今度は早めに相談しておきます」
千葉が笑う。
達也が帰り支度をしていると、机の上に置かれた二枚のメモが目に入った。一枚には、透明鉱石による魔力反応の測定。もう一枚には、黒い石と青い花の根を使った魔力供給の安定化。どちらにも、試したい条件や調べたいことがびっしりと書き込まれている。
「調べること、増えましたね」
「ええ。でも、次に何を調べればいいかは分かってきましたから」
「それも進歩ですね」
「そういうことです」
千葉は満足そうに頷いた。
廊下に出ると、研究室の中の声が扉越しにまだ聞こえていた。何を言っているかまでは分からないが、千葉の声だけがひときわ弾んでいる。
「たっちゃん、このあとどうすんだ?」
「太田さんのとこ戻るよ。午前中の続きがあるから」
「日曜なのに忙しいな」
「ケンちゃんだって来てるじゃん」
「俺は呼ばれたんだよ」
「僕も呼ばれたんだけど」
顔を見合わせて、二人で小さく笑った。
植物研究室の前で健吾と別れると、扉の向こうで、太田がちょうど鉢植えの札を差し替えているところだった。達也に気づくと、顔を上げる。
「あ、お帰りなさい。どうでした?」
「面白かったです。光りました」
「……光りました?」
「はい。光りました」
首を傾げる太田の横を抜けて、達也は午前中に確認しきれなかった鉢の前にしゃがみ込んだ。指先で葉に触れると、いつもの感覚が静かに伝わってくる。
透明鉱石は光ったけれど、この葉は光らない。それでも、触れれば分かることがある。
「……面白いなあ」
達也は小さく呟き、ノートを開いた。
午前中の続きから、また一つずつ。
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