第四十話「身近になったもの」
第四十話「身近になったもの」
土曜日の昼前。達也は買い物かごを片手に、近所のドラッグストアの通路を歩いていた。洗剤と歯磨き粉をかごに入れ、いつものように日用品の棚を順に眺めていく。週に一度の、代わり映えのしない買い出しだ。
その途中、見覚えのある顔が目に留まった。
「あ」
通路の端に設けられた、小さな特設の商品棚。そこに貼られた広告の中で、姫宮りぼんが回復薬を手にしていた。いつもの明るい笑顔。手にした商品の名前がよく見えるよう、こちらへ向けている。
――東洋メディカルの回復薬。
先日、仕事の一環で見学したCM撮影の光景がよみがえる。
「もう売ってるんだ」
達也は棚へ歩み寄った。手のひらに収まるほどの小さな箱が、整然と並んでいる。探索者向けのものとは包装が違い、一般の人にも分かるよう、用途や注意事項が箱の表にはっきりと記されていた。隣には、使い方を説明する案内まで添えられている。
達也が箱を一つ手に取ろうとしたとき、すぐ横から声がした。
「ねえ、りぼんちゃんだ!」
見ると、買い物かごを提げた女性と、小学生くらいの男の子が棚の前で足を止めていた。
「あ、ほんとだ。CMの薬ね」
「これ魔法のやつ? 買おうよ!」
「どこも怪我してないのに、何に使うのよ」
「使ってみたいんだもん!」
「ダメダメ」
「……じゃあさ、怪我したとき用に買っとこうよ!」
「んー……まあ、家にひとつ置いておくならいいか」
女性は箱の説明を軽く確かめてから、かごに入れた。
「わざと転んだりしちゃダメだからね」
「しないよ!」
達也は少しだけ笑った。あの撮影では、何度も立ち位置を変え、舞う光の加減を細かく調整していた。出来上がった広告からは、そんな苦労は少しも感じられない。
親子はそのまま、別の売り場へと歩いていった。達也も棚から回復薬を一つ取り、箱を手の中で裏返した。
初めてあの植物を見つけたとき、こんな場所に並ぶ日が来るとは思いもしなかった。傷に使えるかもしれない――その小さな気づきから試験が始まり、研究が進み、製薬会社の手で薬になった。そして今、こうして街のドラッグストアに置かれている。
「……へえ」
達也はもう一度、箱の説明に目を通した。自分の知らないところで、ずいぶんと使いやすい形に整えられていた。
「……すごいな」
達也は小さく呟き、手にしていた回復薬を買い物かごに入れた。まだ買うものが残っている。達也は日用品の売り場へと戻っていった。
ーーー
買い物を終えた達也は、駅前の商業施設へ向かっていた。駅に近づくにつれ、人通りが増えていく。横断歩道の信号を待っていると、向こう側から拡声器を通した声が聞こえてきた。
「ダンジョンの安全管理を、今よりもっと徹底するべきです!」
駅前の広場で、数人の男女が横断幕を掲げていた。
「海外では実際に魔物が外へ出ています! 被害が起きてからでは遅いんです!」
演説の前で足を止めている人もいれば、気にせず通り過ぎる人もいる。信号が青になり、達也も人の流れに乗って歩き出した。
「安全対策の強化を求めています。よろしければ、こちらをどうぞ」
「あ、はい」
差し出されたチラシを、反射的に受け取る。そこには、ダンジョン周辺の警備強化や、探索者の管理についての要望が並んでいた。
達也が紙面に目を落としていると、少し離れたところから別の声が聞こえてきた。
「魔法技術を、もっと私たちの暮らしに役立てましょう!」
そちらでは、別の団体がチラシを配っていた。
「魔法の研究成果を、一部の組織だけに留めておくべきではありません!」
近くを歩いていた男性が、連れの女性に話しかける。
「さっきのところとは、ずいぶん違うこと言ってるな」
「でも、どっちも分からなくはないよね」
「まあなあ」
二人はそんな話をしながら、改札の方へ歩いていった。
達也も先へ進もうとしたところで、今度は署名用紙を持った男性に声をかけられた。
「探索者の待遇改善を求める署名を集めています!」
「あ、すみません」
軽く頭を下げて通り過ぎる。男性はすぐに、後ろを歩いていた別の人へ声をかけていた。
広場には、いくつもの声が飛び交っている。安全管理を求める声。魔法の利用を広げようとする声。探索者の保障を訴える声。その間を、買い物袋を提げた人や、旅行鞄を引いた人たちが行き交っていた。
「またやってるね」
「先週もいたよ」
通りすがりの学生らしい二人が、そんな話をしている。少し先では、受け取ったチラシを立ち止まって読んでいる人もいた。
達也は手元の紙にもう一度目を落とした。海外で魔物が外へ出たことは、達也も知っている。安全対策が必要なのは確かだろう。ただ、書かれていることがどこまで実現できるのかは分からなかった。
チラシを折りたたみ、買い物袋と一緒に持ち直す。そのとき、近くの商業施設の入口から、聞き覚えのある明るい声が流れてきた。
『姫宮りぼんです!』
顔を上げると、入口横の大型画面に、先ほどドラッグストアで見たばかりのりぼんが映っていた。回復薬のCMらしい。画面の中では、りぼんの周囲を光が舞っている。
その手前を、小さな子供が母親の手を引いて歩いていった。
「ねえ、りぼんちゃん!」
「ほんとだね」
母親は画面をちらりと見上げ、そのまま子供と一緒に建物へ入っていく。背後では、まだ演説の声が響いていた。
達也も商業施設の中へ入った。
ーーー
昼食を取ろうとフードコートへ向かうと、休日らしく、どのテーブルも家族連れや若者で賑わっていた。注文したうどんを受け取り、どうにか空いている席に腰を下ろす。
箸を割ろうとしたところで、隣のテーブルから弾んだ声が聞こえてきた。
「昨日の花ちゃんの配信、見た?」
「見た見た! あの大きい魔物と戦ってたやつでしょ?」
「そうそう! 最後の炎、すごかった!」
「花ちゃんって、戦ってるとき格好いいよね」
「分かる! 戦闘配信はあんまり見ないけど、花ちゃんのは見ちゃうんだよね」
二人の女性が、一台のスマートフォンを覗き込んでいる。
「そういえば、りぼんちゃんの配信も見た?」
「ああ、最後に光がいっぱい出てたやつ?」
「そう! あれ生で見てみたいんだよね。ライブとかやらないのかな」
「私は最近、魚さんばっかり見てるなあ」
「魚さん?」
「水辺を歩いてる人。水の音がすごくいいんだよ」
「ああ、あの人か。ほとんど戦闘しない人だよね」
「そうそう。寝る前とかに流してる」
「寝る前にダンジョン?」
「意外と落ち着くんだって」
二人が笑った。
達也はうどんをすすりながら、聞くともなしに耳を傾けていた。魚さんなら知っている。つい先日、水場の場所を教えてもらったばかりだ。
「そういえば、トマトの人も見てるって言ってなかった?」
「ああ、うちのお父さんがね」
「草採ってる人でしょ?」
「そう。なんか植物が面白いんだって」
「へえ。私は面の人とのやり取りの方が好きかも」
「あの二人、面白いよね」
達也の箸が、わずかに止まった。
(……お父さんも見てるんだ)
「でも、あの人って何でトマトなの?」
「知らない」
「だよね」
二人はまた笑い、話題はあっさり別のものへ移っていった。
達也は残りのうどんをすする。顔も知らない人たちが、自分の配信を見ているらしい。植物が面白いと言ってくれる人もいれば、健吾とのやり取りを楽しんでくれる人もいる。
(……いろいろなんだな)
最後の一口を食べ終え、達也は静かに箸を置いた。
ーーー
日曜日。ダンジョンの入口付近では、何組もの探索者が思い思いに装備を確かめていた。第三階層までの調査ということもあり、今日は達也と健吾の二人だけだ。
受付を済ませた二人は、入口へ向かって歩いていた。採取物の提出窓口の隣には、いつの間にか小さな販売所ができている。棚には水や保存食、回復薬が並び、これから探索に向かう人たちが買い物をしていた。
「回復薬、二本ください」
「はい。二本ですね」
販売所の職員が商品を手渡す。そのすぐ横では、探索を終えたらしい男性が、採取した鉱石を職員に差し出していた。
「こちら、第三階層で採取したものです」
「ありがとうございます。確認しますので、少々お待ちください」
達也は二つの窓口を眺めた。最初の頃は、受付の机が並んでいるだけだったのに。
「昨日、ドラッグストアでも見たよ」
「回復薬か?」
「うん。姫宮さんの広告が貼ってあった」
「ああ、CMの」
「普通のお店でも買えるようになったんだね」
「こっちじゃ、もう珍しくないけどな」
「そうだね」
達也は販売所の棚へもう一度目を向けた。採取物を持ち込む場所の隣で、今度は探索に必要なものが売られている。いつの間にか、ずいぶん便利になったものだ。
「たっちゃん、今日はどこから回る?」
「この前の水場に行きたいんだけど」
「水草、また見るのか?」
「ううん。今回は苔を見たくて」
「苔?」
「前に撮った写真を見返してたら、岩にそれらしいものが写ってたんだ」
「へえー……。じゃあ、行ってみるか」
「うん」
二人が入口へ向かう途中、近くにいた三人組の探索者が装備を確認していた。
「食料、持った?」
「持った。水も入ってる」
「回復薬は?」
「ああ、二本」
「予備は?」
「そっちも入れた」
「よし、じゃあ行こう」
三人組は鞄の口を閉じ、入口へと向かっていく。腰には剣や杖。鞄には水と食料、そして回復薬。四年前は、そのどれもが手探りだった。分からないことは今もまだ多い。それでも、準備の仕方は少しずつ形を変えてきている。
「おい、回復薬忘れてるぞ!」
背後で声が上がった。
「あっ、やべ!」
振り返ると、一人の探索者が仲間から回復薬の容器を受け取っているところだった。
「さっき買ったのに、置いてくるところだった」
「ちゃんと確認しろよ」
「悪い悪い」
健吾が苦笑する。
「買っただけじゃ意味ないな」
「そうだね」
健吾が入口へ向き直る。
「じゃあ、俺たちも行くか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。入口の黒い壁を抜けると、見慣れたダンジョンの景色が広がっていた。
「たっちゃん、足元気をつけろよ」
「うん」
達也は頷き、少し先の地面に視線を落とした。
「あ、あそこ」
「おう」
健吾は足を止め、周囲へ目を配った。達也は道端の草の前にしゃがみ込み、いつもの100均ノートを開いた。
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