第四話「平日のオフィスと週末の講習」
第四話「平日のオフィスと週末の講習」
月曜日、達也はいつも通り出社した。
オフィスの光景は、何一つ変わっていないように見えた。上司は相変わらず朝礼で売上の数字を読み上げていたし、コピー機は相変わらず紙詰まりを起こしていた。
だが、空気は確実に変わっていた。
昼休み、給湯室で湯を沸かしていると、同期の一人がこそこそと近づいてきた。
「井上、お前もだったのか」
「何が」
「適性者。俺も先週、行かされたんだよ」
見れば、周りに数人、同じように顔を寄せ合っている社員たちがいた。皆、あの日、あるいは別の日に、同じ検査を受けた人間たちだった。
「俺、火属性だったんだけどさ」
一人が声を潜めて言った。
「週末の講習、マジで疲れたわ。手のひらから火、出せるようになったけど、これ、会社じゃ何の役にも立たないよな」
「俺なんて水属性だぞ。生活用水レベルの水しか出せない。会社で加湿器の補水でもしろってか」
別の一人が肩をすくめると、どっと笑いが起きた。誰もが、自分に付与された力の使い道の無さに、どこか安心しているようだった。日常が変わっていないことの、ささやかな証明のように。
「井上は何だったんだよ」
聞かれて、達也は少し考えてから答えた。
「俺は……ただの草むしりだよ」
「なんだそれ」
また笑いが起きる。達也もつられて笑った。
植物に触れると分かることや、百円ショップのノートのことは、誰にも詳しく話していなかった。話したところで、うまく伝えられる自信がなかったし、大した話でもないと自分では思っていた。
その日の夜、通勤途中に見かけた道端の雑草を思い出しながら、達也はまたノートを開いた。ページは、あの訓練初日よりも、少しだけ増えていた。
ーーー
土曜日。達也たちは再び、あの郊外の閉校した学校――JDA初期訓練施設に集められた。
「平日普通に働いて、休みの日にこれかよ……」
「金は出るらしいけど、休みが消えることには変わりないって……」
ぼやく声が、あちこちから聞こえた。全員、顔にうっすらと疲労の色が滲んでいる。無理もない。適性者たちは皆、これまで通りの生活を続けながら、休日を丸ごとこの訓練に費やしているのだ。
「本日は、まず皆さんに重要なお知らせがあります」
内田が前に立つと、その隣に、見慣れないスーツ姿の男が並んだ。JDAの広報担当、遠藤拓海だという。
「今後、皆さんがダンジョン内で行う活動については、原則として映像記録――いわゆる配信を義務化させていただくことになりました」
会場がざわついた。
「配信って、あの、ネットで流す、あれですか」
手を挙げて質問した受講者に、遠藤は頷いた。
「その通りです。目的は二つあります。一つは、国民の不安を和らげるため。ダンジョンの中がどうなっているのか、正確な情報を可視化する必要があります。もう一つは、活動補助金の支給に際して、実際の活動記録として提出していただくためです」
「でも、顔とか映るのは……」
達也も含め、多くの受講者が顔を曇らせた。ただでさえ、自分でもよく分からない力を持っている上に、休日まで潰されている。そのうえ、顔まで晒せというのか。
「その点はご安心ください」
遠藤が、手元のタブレットとヘルメットを掲げた。
「最新のアバター技術を導入いたします。通常の安全装備としての防護機能も兼ね備えたこちらのヘルメットには、皆さんの頭部や脳波の動きを読み取る専用の機材が内蔵されています。配信映像上では、選んでいただいた3Dモデルに頭部だけをリアルタイムで置き換えられるようになっており、声も、必要であれば加工可能です。個人が特定されることのないよう、十分な対策を取っています」
会場に、わずかに安堵の空気が流れた。
ーーー
配布されたタブレットには、選択可能なアバターの一覧が並んでいた。
「おお、これカッコいいな」
近くの受講者が、騎士風の兜を模したアバターを選んでいる。別の一人は洗練された仮面のようなデザインを、また別の一人は動物の顔を模したものを、それぞれ嬉しそうに選んでいた。皆、思ったより乗り気だった。
一方の達也は、一覧をスクロールしながら、どれもピンと来ずにいた。
(凝ったの選ぶのも、なんか恥ずかしいしなぁ)
派手な兜も、洗練された仮面も、自分には似合わない気がした。会社の給湯室で「ただの草むしりだよ」と笑っていた自分と、画面の中で格好つけている自分。想像すると、どうにも据わりが悪い。
さらにスクロールしていくと、一覧の末尾に「その他・未分類」という項目があった。あまり選ばれることを想定していないのか、簡素なアイコンがいくつか並んでいるだけの、寂しい区画だ。その中に、目も鼻も口もない、ただの丸い野菜――トマトのグラフィックがあった。
達也はしばらくそれを眺めた。
特に理由はなかった。ただ、なんとなく、これでいいような気がした。
「……うん、トマトでいっか」
指先でアイコンをタップすると、画面に「設定完了」の文字が表示された。
それと同時に、頭の中で――正確には、頭頂部のあたりで、何かがぴこっと小さく動いたような感覚があった。思わず頭に手をやったが、特に何も変わっていないように思える。
「気のせいか」
そう呟いて、達也はタブレットを内田に返した。
このとき動いたのが、アバターの頭部についた「ヘタ」だということに、達也自身はまだ気づいていない。それが驚いたり困ったりするたびにぴこぴこと揺れ、やがて視聴者たちから「トマトの人の感情表現」として親しまれることになるとは、なおさら想像もしていなかった。
ーーー
「それでは、本日最後の実技訓練に移ります。配信機材の動作テストも兼ねて、模擬エリアに入っていただきます」
内田の声に、受講者たちがそれぞれの位置につく。
達也は支給されたヘルメットを身につけ、腰には見慣れたあのナイフを差した。手には、まったく使いこなせないが、ないよりはましだろうと木刀を持つ。画面の向こう側では、まだ数えるほどしかいないだろう関係者たちが、試験的にこの映像を見ているはずだった。
誰も知らない。
この日、配信画面に映った一人の適性者が、後に「トマトの人」と呼ばれるようになることを。もちろん、本人もそんなことは微塵も考えていなかった。
ただ、慣れない機材の重みに少し戸惑いながら、達也は模擬エリアの入り口へと歩いていった。
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