第三話「メモとナイフ」
第三話「メモとナイフ」
適性者と判定された者たちへの招集がかかったのは、健吾と再会したあの日から、一週間ほど経ってからだった。
場所は、郊外にある閉校になったばかりの学校だった。看板もまだ出ておらず、建物は学校そのままだ。後にJDA(ダンジョン開発機構)と呼ばれることになる組織の、最初期の訓練拠点である。
集められた人数は、達也が知る限りでも三十人近く。あの日、洞窟の中で見た老人や若者の顔もちらほら見えた。全員、これから何をさせられるのか、よく分かっていない顔をしていた。
「本日から、基礎訓練を行います」
集まった適性者たちの前でそう言ったのは、教官と呼ばれる男だった。JDA現場運用部の班長、内田誠司と名乗った。四十代ぐらいだろうか。物腰は丁寧だが、目の下には濃い隈があった。この混乱した現場を、彼のような立場の人間が取り仕切っているのだと、達也はなんとなく察した。
「といっても、正直、我々にも分かっていないことばかりです。今のところ判明しているのは、皆さんが何らかの形で戦闘、あるいは採取行動を取れるということだけです。ですので、本日はまず、基本的な武器の扱いから」
ーーー
最初にあてがわれたのは、木刀だった。訓練は、施設の一角にある体育館で行われた。板張りの床、隅に積まれたマットの山、天井近くの窓から差し込む光。学生時代の体育の授業を思い出させる空間に、木刀の素振りの音だけが、やけに大きく響いていた。
「振り方の基本だけ、覚えてください。上段から、まっすぐ」
内田の見本は、達也の目にも綺麗に映った。振り下ろされた木刀が、空気を切り裂くような音を立てて止まる。
次は達也の番だった。内田の真似をして振り下ろしてみたが、ふらついた。
「……もう一度」
言われるままにもう一度振ると、今度は勢い余って、隣にいた若者の足元近くまで刀身が流れた。
「すみません……!」
「あ、いや、大丈夫です」
苦笑いで一歩下がる若者の横で、内田が達也の構えを見て静かに言った。
「型が、まったく身につきませんね」
「はい、すみません」
「謝ることじゃないです。向き不向きの問題ですから」
その一言に、達也は妙に安心した。あのスライムとの一件を思い出す。あれはやはり、実力ではなく偶然だったのだ。
ーーー
午後になると、訓練は学校の裏手に作られた小さな模擬ダンジョンエリアに場所を移した。実際にダンジョン内から運び込まれた土や石、植物が植えられた、簡易的な実地訓練場だ。
「ここからは、採取についての説明です」
内田は、地面に生えた見慣れない草を指差しながら言った。
「正直に言うと、我々の知識は非常に限られています。石に関しては、現在までに触れて問題があったという報告はありません。しかし植物に関して、今分かっているのは、大きく分けて二つだけです。一つ、見たことのない植物には安易に触れないこと。毒がある可能性があります」
内田はそこで一度、資料らしき紙をめくった。
「二つ、どうしても採取が必要な場合は、必ず手袋を着用し、素手では触れないこと。以上です」
説明はそれで終わりだった。あまりにあっさりしていて、達也は思わず聞き返しそうになった。
(え、それだけ?)
内田は続けて、印刷したばかりらしい紙の束を配り始めた。A4サイズで、裏表合わせて二枚。表紙もなければ、体裁を整える余裕もなかったのだろう。ただ文字だけがぎっしりと詰め込まれている、いかにも役所仕事らしい資料だった。
ぱらぱらとめくってみると、紙面の大半を占めていたのは、魔物の種類ごとの危険度や戦闘時の注意点、そして魔物を倒すと稀に落とすという鉱物――「魔石」と呼ばれ始めているらしい――についての説明だった。目撃例のあった地域、既知の性質、取り扱い上の注意。細かい字でびっしりと書き込まれている。
だが、植物に関する項目に目を移すと、そこにはたった数行しかなかった。
【見たことのない植物には、安易に触れないこと。毒がある可能性がある】
【採取が必要な場合は、必ず手袋を着用し、素手では触れないこと】
さっき内田が口頭で説明した内容が、一字一句そのまま印字されているだけだった。それ以上の情報は、どこにも書かれていない。
(……植物のことは、本当に何も分かってないんだな)
しかし他の受講者たちは、特に疑問も持たない様子で頷いていた。無理もない。誰にとっても、ダンジョンの植物はまだ得体の知れないものでしかなかった。
休憩時間になり、達也は何気なく、地面に生えていたその草に手袋越しに触れてみた。
「……?」
何かが伝わってくる。
水。土。光。それから、口に入れたわけでもないのに、舌の奥に残るような苦さ。言葉として聞こえているわけではない。喉が渇いたときに水が欲しくなるような、日陰から日向へ出たときに暖かいと感じるような、そんな感覚だけが、ぼんやりと伝わってくる。
(……なんだ、これ)
もう一度、葉へ触れる。水は、それほど欲しがっていない気がする。土も、嫌がってはいない。それから、やはり少し苦い。
「……食べられるのかな」
口に出してから、達也は首を傾げた。苦いから食べられないとは限らないし、そもそも本当に苦いのかどうかも分からない。ただ、そう感じるだけだ。
隣に生えていた、赤みがかった葉の草にも手を伸ばしてみる。今度は、さっきとは違った。渋いような、きゅっと何かが縮むような感覚。葉そのものが縮んでいるわけではない。指先を離して、もう一度触れてみても同じだった。
(縮む……? 何が?)
さらに別の一株、茶色い根を持つ草に触れると、今度は鼻の奥を刺激されるような感覚があった。しゃがみ込んで、実際に根へ鼻を近づけてみる。
「……臭い」
思わず顔を離した。少し癖のある、強い匂いだった。
植物によって、伝わってくるものが違う。資料には「毒があるかもしれないから安易に触れないこと」としか書かれていなかった。それに比べれば、自分が感じているものはずっと細かい。けれど、それが何を意味しているのかまでは分からないし、この感覚を信じていいのかも、まだ分からなかった。
休憩が終わり、内田のところへ戻ろうとした、そのときだった。足元に気づかず踏み込んだ拍子に、近くの低木の棘が、軍手の手首の隙間をかすめた。
「痛っ」
小さく血がにじむ。傷口を見て、それから、先ほどの赤みがかった葉へ視線を向けた。きゅっと縮むような、あの感覚。
少し迷ってから、葉を一枚取り、汁を傷口へつけてみた。しばらく待つ。
「……あれ。本当に止まった」
思っていたより早く、血が止まっていた。
とはいえ、小さな傷だ。何もしなくても同じくらいで止まったのかもしれない。
「一回じゃ分からないか」
赤みがかった葉を覚えておくことにして、達也はふと、茶色い根の方へ戻ってみた。
根の周囲には、羽虫がほとんど寄っていなかった。少し離れた草むらには普通に飛んでいるのに、一匹が近づいてきても、根の近くまで来るとふっと方向を変えて離れていく。
「匂いかな」
これも、まだ分からない。最初の草が食べられるのかどうかも分からないままだ。それでも、気になることは増えた。
「……忘れないうちに、メモっておくか」
ーーー
その日の帰り、達也は駅前の百円ショップに立ち寄った。買ったのは、どこにでもあるノートと、ボールペン一本。それだけだった。
家に帰ると、テーブルの上にノートを広げた。
「何から書こう」
少し考えてから、とりあえず覚えているものから書いていくことにした。名前は分からない。だから、見た目で分かるように書く。
【細長い葉の草】
さわると水とか土?みたいな感じ。
ちょっと苦い感じもする。
食べられる?
分からない。
【赤っぽい葉】
さわると渋い? 縮む感じ?
傷に汁をつけたら血が止まった。
でも小さい傷だった。
たまたまかも。
もう一回試したい。
【茶色い根】
鼻にくる感じ。
実際かなり臭い。
近くに虫が少なかった。
虫が匂いを嫌がってる?
たぶん。
「……こんな感じかな」
書いたものを最初から読み返してみると、疑問符ばかりだった。分からないことの方が多い。それでも、書いておけば次に同じものを見つけたときに確かめられる。達也はページの下に、小さく書き足した。
次に見つけたら、もう一回見る。
字は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。文章というより、思いついたことをそのまま並べただけだ。それでも達也は、ノートを閉じる前にもう一度ページを眺めた。
「まあ、自分で分かればいいか」
この時は、それで十分だった。
この何気ない走り書きが少しずつ増え、書き方も変わり、何十年も先に「inoueアーカイブ」と呼ばれる鑑定データベースの原型になっていくことを、この時の達也はまだ知らない。
ーーー
訓練の二日目、達也は自宅から一本のナイフを持ってきていた。休日、ベランダで育てているトマトの手入れに使っている、収穫用の小ぶりなナイフだ。刃は分厚く、柄は手に馴染むよう何年も使い込んである。剪定にも、収穫にも使える、頑丈な一本だった。
「井上さん、それ」
腰に下げたナイフに気づいて、内田が声をかけてきた。
「あ、これ、家で使ってるやつです。木刀、全然振れないので……こっちの方が、まだ手に馴染んでて」
「正式な支給品ではありませんが、刃渡りも個人携行品の範囲内ですし、問題ありません」
内田はそう言うと、少し興味深そうに続けた。
「植物特化の方が、園芸用のナイフを使う、ですか。理にかなっているかもしれませんね」
「そう、ですかね」
達也自身は、深く考えていたわけではなかった。ただ、木刀よりも、この使い慣れたナイフの方が明らかに手が動いた。振り下ろすというより、収穫するときの動きに近い。慣れた手つきで、草を刈るように扱える。
剣術は、この先も大して上達しないだろう。達也自身、なんとなくそんな気がしていた。だが、ノートに書き溜めていく植物の知識と、手に馴染んだ一本のナイフ。この二つが、後に「トマトの人」と呼ばれる男の原点になることを、達也はまだ知らなかった。
ーーー
その夜、達也は帰宅すると、ベランダで育てているトマトに水をやった。いつもの習慣で、じょうろを傾け、土に水を染み込ませていく。ふと、葉の一枚に何気なく指先で触れてみた。
伝わってきた。水。土。光。今日、訓練場で触れた植物と同じ、ぼんやりとした感覚だ。けれど、知っている植物だからだろうか。こちらの方が少しだけ分かりやすい気がした。
(……水、もう十分だったかも)
乾いている感じはしない。むしろ、もう足りているように思える。
「……あ」
達也はじょうろを止め、自分の掌と目の前のトマトを交互に見た。
あの力は、ダンジョンの中にある得体の知れない植物にだけ働くものだと思っていた。だが、どうやらそうではないらしい。家で育てている、いつものトマトにも同じように働く。
「……そうか。植物なら、何でもか」
じょうろを置いて、もう一度トマトの葉へ触れてみる。今度は、すぐに答えを決めつけず、その曖昧な感覚をしばらく確かめた。
トマトの実は、今日もまだ青いままだった。
お読みいただきありがとうございました。
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