第三十二話「実った」
第三十二話「実った」
土曜日。
JDAの植物研究室には、大小さまざまな鉢がずらりと並んでいた。窓から差し込む朝の光が、葉の一枚一枚を明るく縁取っている。
「おはようございます」
「おはようございます、井上さん」
達也は挨拶を返しながら、台車を押して研究室へ入った。車輪が床の上で、ごろごろと小さく鳴る。
台車に載っているのは、いつもの鉢だった。第三階層で採取した橙色の実。その種から育てた株だ。
大きくなりすぎないよう定期的に剪定を続けているため、以前ほど背は高くない。それでも枝は着実に増え、葉の間には二つの実がついていた。一つはまだ小さく、葉の陰に隠れるようにしている。もう一つはそれよりずっと大きく育ち、小さな紙袋にすっぽりと覆われていた。
「井上さん、その袋って何です?」
「これですか?」
達也は、実を包んでいる紙袋へそっと触れた。
「果物って、こういうのつけてることあるじゃないですか」
「袋掛けですか?」
「名前は分からないですけどそれです。ここまで持ってくる途中で傷ついたら嫌だなと思って」
「なるほど」
「やり方合ってるかは分からないですけど」
「まあ、実が無事なら問題ありませんよ」
見様見真似だった。実が大きくなってから、研究室へ運ぶときだけ、果樹園などで見たことのある方法を真似て紙で保護している。もう一つの小さな実は、まだそのままだった。
達也は鉢を、いつもの台の上へ置いた。
「今週の記録、ここに置いておきますね」
「はい。あとで確認します」
鞄から栽培ノートを取り出す。温度と湿度。水を与えた量。光の状態。葉や枝の変化。植物親和で感じたこと。自宅で育て始めてから、毎週欠かさず続けている記録だ。
「あ、そうだ。太田さん」
「はい?」
「これ、今朝見たら色が違ってたんですけど」
「色?」
「はい」
達也は、実を包んでいた紙袋を丁寧に開いた。
「……え?」
太田の動きが、ぴたりと止まった。紙の中から現れた実は、先週までとはまるで雰囲気が違っていた。青みはほとんど消え、全体が鮮やかな橙色に染まっている。
「井上さん」
「はい」
「これ……今朝ですか!?」
「はい。家を出る前に見たら、こうなってて」
「先週は!?」
「まだ青かったです」
「……!」
太田が、実へ顔を近づける。
「一週間で、ここまで……」
しばらく食い入るように実を見つめていた太田が、弾かれたように振り返った。
「みんな! ちょっと作業止めて来てくれ! 全員だ!」
「どうしたんですか太田さん、そんな大声出して――」
「井上さんの株! 実が橙色になってる!」
その瞬間、研究室の空気が一変した。
「マジで!?」
「うそ、もう!?」
「見せて、見せてください!」
「うわっ、本当だ!」
「すっげぇ綺麗な橙色になってる!!」
「先週まであんなに青かったのに!?」
ぞろぞろと集まってきた研究員たちが、目の前の実に釘付けになる。誰もが口々に声を上げ、輪はみるみる厚くなっていった。
「……あれ?」
一人の研究員が、ふと少しだけ顔を近づけた。
「なんか、いい香りしません?」
「香り?」
太田も実へ顔を寄せる。
「……しますね」
「甘い感じ?」
「ちょっと離れてても分かりますよ」
達也も近づいてみる。鼻先を、ほのかに甘い匂いがかすめた。
「あ、本当だ」
「井上さん、昨日もしてました?」
「どうだろう。気づかなかったです」
「色が変わるのと一緒に、香りも強くなるのかな」
「可能性はありますね」
「前に採った実はどうでしたっけ?」
太田が、少し考え込む。
「そもそも、木になったまま成熟した状態を見るの、これが初めてですよね」
「あ」
「そうか」
「最初に見つけたときは、もう採れたあとか」
「じゃあ比較できないですね」
「できませんね」
太田が、橙色の実をじっと見つめた。
「これも記録しておきましょう。香りが強くなった時期は不明、と」
「次の実がありますよ」
誰かが、葉の間に隠れている小さな実を指した。
「ああ、そっちで見られる!」
「毎日確認したいな」
「井上さん」
「はい?」
「香りもお願いします」
「分かりました」
「よし、昨日までの写真はあります!?」
「あります」
達也がスマートフォンを取り出し、画面を向ける。
「これ、昨日の朝です」
「見せて!」
「うわ、昨日はまだ少し青い!」
「こっちが一昨日?」
「はい」
「一気に変わってる!」
「水量は!?」
「井上さんのノート!」
「先週の記録も出して!」
「カメラ持ってきて!」
「秤も!」
「定規!」
「採る前に全部残しますよ!」
さっきまでの静けさが嘘のように、研究室が一気に慌ただしくなった。カメラ。電子秤。定規。採取用のトレー。次々と机へ運ばれてくる道具が、かちゃかちゃと賑やかな音を立てる。
「井上さん!」
「はい」
「今朝、触りました?」
「触りました」
「どうでした?」
「……もう採っても大丈夫そうな感じでした」
集まっていた研究員たちが、どよめいた。
「採れる!?」
「今日!?」
「太田さん、採りましょう!」
「待て!」
「でも採れるって!」
「分かってる! 採る前の記録が先だ!」
「写真!」
「撮ります!」
「動画も!」
「回します!」
「剪定ばさみ!」
「まだです!」
太田自身も、いつもより明らかに声が大きい。
「井上さん、もう一度確認してもらっていいですか?」
「はい」
達也は手袋を外し、葉へ指先を触れた。植物親和を通して、感覚がぼんやりと流れ込んでくる。水。根。葉。枝。そして、その先に実った橙色の実。少しのあいだ目を閉じ、その感覚をていねいに確かめた。
「……やっぱり、大丈夫そうです」
「よし!」
「採れるぞ!」
「待って、まだ!」
「分かってます!」
「じゃあ測ります! 急いで!」
そこからは早かった。枝についた状態を撮影する。実の大きさ。色。枝や葉の状態。一つずつ確認し、手際よく記録していく。
「写真、終わりました!」
「測定も終わり!」
「動画回ってます!」
「トレー準備できてます!」
「剪定ばさみ!」
「今度こそ持ってきて!」
「はい!」
剪定ばさみが差し出された。太田はそれを受け取ると、そのまま達也へ手渡した。
「井上さん」
「僕が採るんですか?」
「井上さんが育ててきた株ですから」
「研究用ですよね?」
「それでもです」
「分かりました」
達也は剪定ばさみを受け取った。ひんやりとした金属の重みが、手のひらに伝わる。
橙色の実へ、そっと手を添えた。カメラのレンズが、いっせいに向けられる。さっきまで騒いでいた研究員たちは、いつの間にかすっかり静かになっていた。
枝にはさみを当てる。固唾をのんで見守る視線を背中に感じながら、ゆっくりと力を込めた。
プツン。
小さな手応えとともに、橙色の実が達也の手の中へ収まった。
「……採れました」
一瞬の静寂。
その直後、研究室全体が揺れるような歓声が上がった。
「やったぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「採れた! 本当に採れたぞ!!」
「地上での完全な結実だぁぁぁ!!!」
「やったー!! すごすぎる!!」
「フー!!!」
拳を突き上げる者。隣の研究員と勢いよくハイタッチする者。両手を上げたまま、その場で跳ねる者までいる。太田も満面の笑みで、大きく拍手していた。
達也は、手の中の実を見つめた。思っていたよりも、しっかりとした重みがある。
二年前、第三階層で見つけた、名前も分からない橙色の実。持ち帰った種を植えた。芽が出た。葉が増えた。枝が伸びた。大きくなりすぎて、枝を切った。それでも、また伸びた。花芽ができた。花が咲いた。小さな実がついた。毎朝見て、水をやって、記録して。週末になれば、鉢ごとここまで運んできた。
そして今日。もう一度、橙色の実になった。
「本当に、実りましたね」
「実りましたねえ!」
太田が、嬉しそうに答えた。
「よし! じゃあ測りますよ!」
「写真!」
「重量!」
「中も見たい!」
「待って、まだ切らないで!」
「種あるかな!?」
「だから順番に!!!」
「はい!」
歓声を上げていた研究員たちが、その勢いのまま測定へなだれ込んでいく。達也は言われるまま、橙色の実をトレーの上へそっと置いた。
「重量!」
「はい!」
数字が読み上げられ、記録される。
「次、大きさ!」
「縦から!」
「横も!」
「写真もう一枚!」
「さっき撮ったでしょ!」
「採ったあとの写真です!」
「ああ、そっち!」
記録が、次々と積み上がっていく。
「香りは?」
「さっきより強くなってない?」
「採ったから?」
「分からない。記録しとこう」
「中見たい!」
「だからまだです!」
「早く見たいんですよ!」
「私もですよ!」
研究員たちの声が、あちこちから飛び交う。達也はその様子を見守りながら、鉢に残された、もう一つの小さな実へ目を向けた。
「こっちは、まだかかりそうですね」
「ええ」
太田も小さな実に視線を移す。
「でも、今回の記録がありますからね」
「次と比べられますね」
「はい」
太田が、少し嬉しそうに研究室の奥を指した。
「それと井上さん。こっちも見てください」
「こっち?」
達也は誘われるまま、研究室に並んだ鉢の前へ移動する。どれも、同じ橙色の実から採った種を育てたものだ。
「これです」
太田が、一鉢を指した。達也は枝の先を覗き込む。
「あ」
葉の間に、小さな膨らみがいくつもできていた。
「花芽?」
「だと思います」
「できたんですね」
「やっとです」
太田が、嬉しそうに笑った。
「これ、ケンちゃんの光の?」
「はい。足立さんの光を当てている株です」
「じゃあ、こっちは?」
隣の鉢にも、同じような小さな膨らみが見える。
「そちらは、別の光属性の方に作ってもらった光ですね」
「あ、こっちにもある」
「はい。ただ、足立さんの方が多いです」
達也は、二つの鉢を見比べた。健吾の光を当てている株には、いくつもの花芽。もう一人の光属性適性者の光を当てている株にも花芽はあるが、その数は少ない。
「同じ光属性でも違うんですね」
「今のところは、そう見えますね」
「自然光のは?」
「まだです」
太田が、少し離れた鉢を示した。葉も枝もよく伸びているが、花芽らしいものは見当たらない。
「植物育成用のライトの方も、まだ成長途中です」
「じゃあ、今のところ花芽が出てるのは、能力の光を当ててる二つだけ?」
「はい」
「光属性の光が関係してるのかな」
「可能性はあります」
太田は、二つの鉢を見比べる。
「ただ、足立さんともう一人の方でも差がありますからね。光そのものの違いなのか、それ以外の条件なのか。まだ分かりません」
「要検証ですね」
「ですね」
達也は、健吾の光で育った株の花芽を、もう一度じっと見つめた。
「ケンちゃんに言ったら喜びそう」
「三日おきに作ってもらってますからね」
「ずっと作ってくれてますもんね」
「ええ。結果が出たと伝えておきます」
「僕からも言っときます」
その横では、初収穫された橙色の実を囲んで、研究員たちがまだ忙しそうに動き回っていた。
ーーー
「井上さん、そういえば」
「はい?」
初収穫の大騒ぎがひと段落し、研究室にはまだ歓声の余韻が漂っていた。そんな中、太田が別の机から達也を呼んだ。机の上には、採取袋がいくつか並べられている。
「あ、五階層の」
「ええ。先日採取していただいた分です」
達也が健吾、そして杉本と一緒に第五階層へ入った際、採ってきた植物だった。岩の隙間に生えていた草。地面を這うように伸びるツル。乾燥した場所に根を張る、小さな植物。太田たちが一つずつ分類し、状態を記録している。
「これなんですが」
太田が、その一つを指した。達也も身を乗り出して覗き込む。細長い葉の先。その一部分だけが、黒く変色していた。
「枯れてるんですか?」
「最初はそう思ったんですが」
太田がピンセットで、葉をそっと持ち上げる。
「少し違うように見えるんですよね」
「違う?」
「ここです」
葉の縁が、黒くなっている。その周囲だけ、乾いたように縮れていた。達也は顔を近づけた。
「……焦げてる?」
「私も、そう見えます」
「翔太さんの火かな」
「杉本さんの炎ですか?」
「第五階層で何回か使ってましたから」
達也は、採取したときのことを思い返した。杉本が炎を使った場所。魔物と戦った場所。植物を採った場所。岩場の景色が、頭の中で一つずつ重なっていく。
「でも……」
「何か?」
「この草を採ったところで、火を使ってたかな」
「覚えてませんか?」
「戦った場所全部までは」
「そうですよね」
太田も、無理に結論を出そうとはしなかった。
「採取したあとに傷んだ可能性もありますし、杉本さんの炎が原因とも限りません。まずは他の試料も確認してみます」
「はい」
達也はもう一度、黒くなった葉先を見つめた。
「次に行ったとき、生えてる場所の周りも見てきます」
「お願いします」
達也はノートを取り出し、新しいページを開いた。
【岩場の細長い葉】
第五階層岩場。
細長い葉。
葉先に焦げたような跡。
原因不明。
周辺――要観察。
短く書き留めて、ノートを閉じた。
「井上さん!」
研究室の奥から、声が飛んでくる。
「そろそろ切りますよ!」
「あ、はい!」
「太田さんも!」
「今行く!」
太田がすぐに振り返った。
「行きましょう、井上さん」
「はい」
二人は連れ立って、分析机へ戻る。
「種あるかな」
「まず切らないと」
「断面の写真撮るから、勝手に触らないで!」
「分かってますって!」
「包丁は?」
「準備できてます!」
さっきまでの歓声とは違う。今度は、これから初めて目にする実の中身を前に、研究員たちが息を詰めてそわそわしていた。
中央には、地上で初めて収穫された橙色の実。少し離れた机には、第五階層から持ち帰った、焦げたような葉。
達也は、橙色の実の方へ向かった。
お読みいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




