第十四話「火の矢」
第十四話「火の矢」
魔法が、現実になった。
それは、二年前までなら空想の中にしか存在しなかったものだ。手をかざせば炎が生まれる。何もない場所から水が湧き、風が吹き、暗闇を光が照らす。子供の頃に絵本や漫画で見た光景が、今では現実のものになっている。
ただし、実際に使えるようになってみれば、思っていた以上に地道だった。炎を出せても、狙った場所へ飛ばせるとは限らない。飛ばせても、毎回同じ大きさになるとは限らない。少し集中を乱せば形が崩れ、力を込めすぎれば必要以上に広がる。自在に扱おうと思えば、結局のところ練習が必要だった。
それでも。子供の頃からゲームをして、小説を読み、漫画やアニメで魔法使いを見てきた人間にとって、本物の魔法が使えるようになったのなら、一度くらいはやってみたいことがあった。
ーーー
「――火の矢!」
林の中に、やけに力の入った声が響いた。直後、男の右手から炎が飛び出した。拳ほどの大きさだった炎は、飛びながら細長く形を変え、地面を走っていたネズミ型の魔物の横をかすめる。命中はしなかった。それでも炎は数メートル先まで飛び、湿った地面へぶつかって消えた。焦げた草の匂いが、わずかに漂う。
少し離れた場所を歩いていた達也は、思わず足を止めた。
「……ケンちゃん」
「聞こえた」
「今、火の矢って言ったよね」
「言ったな」
健吾も足を止めていた。二人の視線の先では、一人の男性探索者が右手を突き出した姿勢のまま固まっている。歳は二十代半ばほどだろうか。炎を扱う適性者らしく、周囲には同行者が数人。その少し後ろには、配信用の小型ドローンが何事もなかったかのように浮かんでいた。当然、その声は配信にも乗っている。
『言ったwww』
『火の矢w』
『急にどうした』
『今まで無言で撃ってたじゃん』
コメントを確認したのだろう。男性探索者の耳が、見る間に赤くなっていく。
「……いや」
突き出していた手を、ゆっくりと下ろす。
「一回くらいやってみたいだろ!」
開き直ったように、彼は声を張り上げた。
「本物の魔法が使えるんだぞ!」
その叫びに、今度は同行者から笑い声が上がった。
『分かる』
『これは分かる』
『俺でも絶対やる』
『むしろ二年間よく我慢した』
『ファイヤーボールも頼む』
「……楽しそうだね」
達也が呟く。
「そうだな」
健吾も苦笑していた。二年前まで、魔法は存在しなかった。それが今では、自分の手から本当に炎が出る。子供の頃に一度でも魔法使いの真似をしたことがある人間なら、叫びたくなる気持ちは理解できる。
「ケンちゃんも何か言ってみたい?」
「俺はいい」
「光の矢とか」
「出したとしても言わねえよ」
「じゃあ、閃光?」
「たっちゃん」
「なに?」
「絶対面白がってるだろ」
「ちょっとだけ」
達也は悪びれもせずそう答えた。配信画面では、トマトのヘタが楽しげに小さく揺れている。
前方では、男性探索者が再び魔物へ向き直っていた。さすがに戦闘中だ。いつまでもコメントと遊んでいるわけにはいかない。逃げていたネズミ型の魔物が方向を変え、低い姿勢で男へ向かってくる。男の表情から笑いが消えた。右手を前へ出す。掌の前に、小さな炎が生まれた。揺れていた炎が、徐々に形を整えていく。
「――火の矢!」
炎が飛んだ。今度は、まっすぐだった。先ほどよりも細く、輪郭がはっきりしている。炎はほとんど形を崩さないまま林の中を走り、迫っていた魔物の胴へ正確に命中した。衝撃で小さな身体が横へ転がる。同行者がすぐに前へ出て、とどめを刺した。
戦闘が終わる。だが、炎を放った男だけが、自分の右手をじっと見つめていた。
「……あれ?」
先ほどまでとは、明らかに違う声だった。
「今の、さっきより細くなかったか?」
同行者の一人が、炎の消えた先を見る。
「ああ。俺もそう見えた」
「たまたまじゃないの?」
「ちょっと待って。もう一回やってみる」
男は周囲の安全を確認してから、右手を上げた。今度は何も言わない。炎を作る。飛ばす。炎は前へ進んだものの、途中で少し膨らみ、先ほどよりも広がって湿った地面の上で消えた。
「……もう一回」
掌の前に炎を作る。
「火の矢!」
放つ。細い炎が、一本の線のように飛んでいった。
『あれ?』
『今のも細くね?』
『言ったときだけ形違う?』
『たまたま?』
『もう一回やってみて』
男は、自分の掌と炎が消えた先を何度も見比べた。
「……なんか」
しばらく考えてから、ぽつりと言う。
「言った方が、絶対に安定する」
「気のせいじゃなくて?」
「たぶん。なんか……さっきより、形が作りやすい」
同行者たちが集まり始める。
「じゃあ、もう一回無言でやってみろよ」
「待って。魔力なくなるから、あと一回ずつな」
「じゃあ撮っとく」
「ずっと配信中だけどな」
「あ」
再び笑い声が上がった。少し離れた場所からその様子を眺めていた達也が、健吾を見上げる。
「なんでだろうね」
「さあな」
その間にも、前方では「無言でもう一回」「次、火の矢」と検証らしきものが始まっている。どうやらしばらく続きそうだった。
「行くか」
「うん」
二人は探索へ戻った。背後から、また大きな声が聞こえる。
「――火の矢!」
今度は、何人かの歓声まで一緒だった。
ーーー
数日後。一本の「火の矢」は、思いのほか広い範囲へ飛び火していた。もちろん、本物の炎ではない。配信の切り抜きが投稿され、掲示板へ貼られ、別の配信者が真似をした。そして何より、本物の魔法を使える人間たちが面白がった。
【魔法使うとき技名叫ぶと安定するってマジ?】
167 名無しの探索者:火属性だけど試した。火の矢って言った方が細くなる気がする
168 名無しの探索者:俺は変わらんぞ
169 名無しの探索者:>>167 ちゃんと心を込めて火の矢って言ったか?
170 名無しの探索者:魔法に心を要求すんな
171 名無しの探索者:ファイヤーアローでやったらちょっと安定した
172 名無しの探索者:>>171 裏切り者
173 名無しの探索者:何に対する裏切りだよ
174 名無しの探索者:水属性なんだけど何て言えばいい?
175 名無しの探索者:水球
176 名無しの探索者:ウォーターボール
177 名無しの探索者:アクアボール
178 名無しの探索者:三派に分裂すんな
最初は、そんなものだった。子供の頃にやった魔法使いごっこを、大人になって、本物の魔法を手にしてやり直している。しかも、今度は本当に出る。面白くないはずがなかった。
その日のうちに、いくつもの検証動画が投稿された。
「火の矢!」
炎が飛ぶ。
「ファイヤーアロー!」
別の場所でも炎が飛ぶ。
「ファイヤーボール!」
拳より大きな炎の塊が飛び、撮影していた仲間が慌てて逃げる。
「だから訓練場でやれって!」
そんな動画まで混ざった。当然、失敗も多い。叫んでも何も変わらない。むしろ声を出したせいで集中が乱れる。恥ずかしくなって途中で笑ってしまう。だが、試す人間が増えれば増えるほど、無視できない報告も混じり始めた。
243 名無しの探索者:マジで言った方が安定する人いるっぽいな
244 名無しの探索者:俺は変化なし
247 名無しの探索者:「火の矢」だと微妙。「ファイヤーアロー」だとやりやすい
248 名無しの探索者:>>247 同じ意味だろ
250 名無しの探索者:俺の中ではファイヤーアローの方が細く飛んでく感じする
253 名無しの探索者:>>250 ゲームのやりすぎでは?
254 名無しの探索者:魔法使ってる時点でもうゲームみたいなもんだろ
255 名無しの探索者:それを言うな
そして翌日、一つの動画が貼られた。
386 名無しの探索者:おい
387 名無しの探索者:どうした
388 名無しの探索者:海外でも始まった
動画の中では、外国人の男性探索者が仲間と笑いながらカメラに向かって話していた。やがて右手を前へ突き出す。炎が集まる。
『Fire Arrow!』
細長い炎が飛んだ。
392 名無しの探索者:やってて草
393 名無しの探索者:世界共通かよ
395 名無しの探索者:向こうも絶対一回やりたかっただけだろ
398 名無しの探索者:コメント欄めっちゃ盛り上がってる
401 名無しの探索者:人類だいたい同じ説
それだけではなかった。探せば、別の国の動画も見つかった。英語で叫ぶ者。自分の国の言葉を使う者。日本人なのに「ファイヤーアロー」の方が使いやすいという者もいれば、海外の探索者にも別の言葉を好む者がいた。言葉は違う。それでも、「声に出した方が形を作りやすい」と話す適性者が、世界のあちこちにいた。
467 名無しの探索者:待って
468 名無しの探索者:何
469 名無しの探索者:日本語でも英語でもいいなら「火の矢」って言葉そのものに意味あるわけじゃなくね?
470 名無しの探索者:あ
471 名無しの探索者:あ
473 名無しの探索者:じゃあ何が効いてるんだ?
475 名無しの探索者:知らん
476 名無しの探索者:JDAに聞け
477 名無しの探索者:急に丸投げすんな
ーーー
「……というわけで、丸投げされました」
JDA研究棟。千葉昌樹の前に置かれたタブレットには、例の掲示板が表示されていた。灰色の木を使った魔力伝達補助具――研究棟で「杖」と呼ばれ始めたものの検証が、ようやく一つの形になったと思ったところだった。今度は、ネットから新しい研究材料が飛び込んできた。しかも、発端は探索者が戦闘中に叫んだ「火の矢」である。
「……自由ですねえ」
千葉が呟いた。画面には、まだ書き込みが増え続けている。
486 名無しの探索者:風属性なんだけど技名が決まらん
487 名無しの探索者:風の刃
488 名無しの探索者:ウインドカッター
489 名無しの探索者:風刃
491 名無しの探索者:好きなの選べ
492 名無しの探索者:選択肢増やすな
隣にいた研究員が苦笑する。
「どうします?」
「調べますよ」
千葉は即答した。
「これだけ報告が出ているなら、ただの流行で片づける方が危ないでしょう」
すでに集められた動画の一覧を開く。結果は、ばらばらだった。発声した方が形が安定する者。ほとんど変わらない者。逆に、声を出したことで失敗している者。日本語を使う者。英語由来の呼び方を使う者。海外では、それぞれの言語が飛び交っている。
「少なくとも、特定の言葉だけに反応しているようには見えませんね」
「でしょうね」
千葉は一本の動画を再生した。
「火の矢!」
炎が飛ぶ。次の動画。
「ファイヤーアロー!」
やはり炎が飛ぶ。さらに海外。
『Fire Arrow!』
同じように細長い炎が飛んでいった。
「同じような現象に、これだけ違う言葉が使われています」
「発声すること自体に意味があるんでしょうか」
「それも分かりません」
千葉は動画を止めた。何が影響しているのか。今の段階では、まだ分からない。
「条件を分けましょう」
千葉は手元の紙へ書き始めた。発声あり。発声なし。意味を理解している言葉。意味を知らない言葉。本人が普段から馴染んでいる呼び方。初めて聞く呼び方。
「現在確認できている属性で、できるだけ広く検証します」
研究員のペンが止まった。
「……結構な人数になりますよ」
「火だけの現象なのか、それ以外でも起きるのかは確認したいですから」
千葉はさらに書き加える。
「能力を得た時期や使用経験でも分けましょう。使い始めたばかりの人と、実戦で使い続けている人で違いが出るかもしれません」
「実働部隊にも協力を?」
「お願いしましょう。普段の訓練を邪魔しない範囲で、こちらから測定に行きます」
研究員が頷いた。千葉は、もう一度タブレットへ目を落とした。画面では別の探索者が、大きく腕を振りかぶっている。
『エクスプロージョン!』
直後、小さな火の玉が、ぽすん、と地面へ落ちた。
「……」
千葉は無言で動画を止めた。手元の紙へ、一行書く。
――呼称の派手さと出力の関係。
数秒考える。その一文に横線を引いた。
「……これは後でいいか」
ーーー
実働部隊の訓練場に、見慣れない機材が増えていた。普段から使われている魔力測定器に加え、記録用のカメラや、千葉たち魔法運用研究班が持ち込んだ機器が並んでいる。発声による変化を調べるため、実働部隊にも協力が求められたのだ。訓練そのものを研究班の都合に合わせるのではなく、普段の訓練に測定を追加する形で行われている。
その日の訓練に参加していた健吾も、当然その対象になった。
白い光が弾け、健吾が右手を下ろす。
「……変わりませんね」
測定機器を確認していた千葉が、表示された数値と先ほどの記録を見比べた。
「本当にほとんど変わりませんね」
「だから言ったじゃないですか」
「もう一度お願いします。今度は発声ありで」
「まだやるんですか」
「比較なので」
健吾は小さく息を吐いた。右手を上げる。
「……閃光」
白い光が弾けた。先ほどと、ほとんど変わらない。
「感覚は?」
「同じです」
「『閃光』と言ったことで、やりやすくなった感じは?」
「ないですね」
健吾は自分の手を見る。
「もう何をするか決めてから使ってるので」
千葉のペンが止まった。
「決めてから?」
「はい。一瞬だけ強く光らせる。方向はこっち。味方には当てない。それを決めてから使います」
千葉は健吾を見る。
「……その辺り、あとで詳しく聞かせてもらっても?」
「構いませんよ」
千葉は記録へ何かを書き加えた。そのとき、訓練場の端にいた達也と目が合った。今日は健吾と合流してダンジョンへ入る予定で、訓練が終わるのを待っていたのだ。
千葉が少し考える。
「井上さん」
「はい?」
「少しだけ、お時間いいですか?」
達也が自分を指差した。
「僕ですか?」
「植物親和でも確認しておきたいんです」
「別にいいですよ」
そうして、訓練場の隅にあった植栽から、状態の良いツタが選ばれた。
「まずは普段通り、動かしてみてください」
「分かりました」
達也は葉へ軽く触れた。状態を確かめる。それから少し離れた支柱を見る。
(あっちに伸びて)
ツタがするすると伸び、支柱へ巻きついた。
「今、何を考えました?」
「あっちに伸びて、です」
「……それだけですか?」
「はい」
千葉は記録する。
「では、今度は同じことを声に出してください」
「分かりました」
達也はもう一度ツタへ触れる。
「あっちに伸びて」
ツタが伸びた。先ほどと同じように、支柱へ巻きつく。
「感覚は?」
「いつもと同じですね」
「動かしやすくなったとか、方向を決めやすくなったとかは?」
「特には」
千葉が記録へ書き込む。横にいた研究員が、ツタを見ながら口を開いた。
「今度は、何か技みたいな名前をつけて試してみます?」
「名前?」
「そうですね……『蔓操作』とか」
「つるそうさ」
達也がツタを見る。
「どうです?」
「どうって?」
「何か変わりそうな感じはします?」
「別に……」
「では、それで一度お願いします」
「分かりました」
達也はツタへ触れる。
「……蔓操作」
少し間があった。ツタが伸びる。支柱へ巻きついた。
「どうです?」
「いつもと同じですね」
「そうですか……」
研究員が少し残念そうに記録する。達也はツタを見た。
「それなら『あっちに伸びて』でよくないですか?」
「まあ……そうなんですが」
「その方が分かりやすいですよ?」
「井上さんにとっては、そうなんでしょうね」
千葉が横から言う。その言葉に、研究員が顔を上げた。
「……今のも記録しておきます?」
「しておきましょう」
達也が首を傾げる。
「何かありました?」
「まだ分かりません」
「ああ」
その答えだけで納得した。健吾が横を向く。
「ケンちゃん」
「なんだ」
「笑ってる?」
「笑ってねえ」
「肩動いてるよ」
「気のせいだ」
ーーー
調査は、その後もしばらく続いた。発声すると安定したという者がいた。ほとんど変化しない者もいた。逆に、声を出したことで失敗する者もいた。使われる言葉にも統一性はない。同じ日本人でも「火の矢」が使いやすい者もいれば、「ファイヤーアロー」の方が使いやすいという者もいる。海外でも事情は似ていた。
千葉たちの手元には、少しずつ記録が積み上がっていった。だが、なぜ違いが出るのか。発声そのものに意味があるのか。使う言葉が関係しているのか。それとも、別の何かが影響しているのか。まだ、答えは出なかった。
それでも探索者たちは、研究結果が出るまで待ってはくれなかった。
ーーー
それからしばらくして、ダンジョンは、以前より少しだけ騒がしくなった。
「火の矢!」
炎が飛ぶ。
「ファイヤーボール!」
別の場所から声が響く。
「水球!」
水の塊が宙を走った。
「ウインドカッター!」
「……増えたね」
達也が呟いた。
「増えたな」
健吾は大剣を肩に担いだまま答える。少し先では、若い探索者たちが自分たちの魔法を試していた。
「今のどうだった?」
「さっきより真っ直ぐ!」
「もう一回やる!」
楽しそうな声が林の中へ響く。その横を、達也と健吾はいつも通り歩いていく。健吾は何も言わず、進行方向を照らすように光を浮かべた。達也も足元へ伸びてきたツタに気づき、そっと意識を向ける。
(そっちに寄って)
ツタが道を空けるように脇へ寄った。二人とも、何も言わない。
その向こうから、また大きな声が響いた。
「――火の矢!」
直後、歓声が上がる。
「……うるさくなったな、ダンジョン」
健吾が小さく息を吐いた。達也は声のした方を振り返る。配信画面では、トマトのヘタが楽しげに揺れていた。
「でも、楽しそうだよ」
「……まあな」
二人はそのまま、林の奥へ歩いていった。背後では、また誰かが魔法の名前を叫んでいた。
お読みいただきありがとうございました。
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