収蔵
榎本佳奈という名前を見つけてから、直人は三日間、電話をかけなかった。
かけなかったというより、まだ電話番号を知らなかった。
二十年前の地域紙に載っていた市民グループは、現在も活動を続けていた。名称は少し変わっていたが、昔の商店や生活道具について聞き取りを行い、記録を地域の図書館へ寄贈している。
活動報告を年代順に追う。
榎本佳奈の名前は、毎年あるわけではなかった。
出てくる年もあれば、出てこない年もある。
十年ほど前の記事では、商店街の聞き取り会の参加者として名前がある。
七年前。
古い写真の整理。
五年前。
地域の生活史を記録する講座。
三年前の記事にはなかった。
直人は記事だけではなく、市の広報や図書館の事業報告も調べた。
同姓同名なら、それまでだった。
名前と活動内容が似ているだけで、水原佳奈と同一人物だと決めることはできない。
それでも調べていくと、市民グループの以前の代表者が別の地域団体でも活動していることが分かった。その団体が発行した数年前の冊子に、連絡担当として榎本佳奈の名前があった。
電話番号も載っていた。
直人は紙を机の上へ置いた。
市外局番は、第四章で調べた町のものだった。
番号を一桁ずつノートへ写す。
そのあと、念のためもう一度照合した。
間違っていない。
電話をかければいい。
榎本佳奈さんでしょうか。
三十一年前、水原佳奈という名前ではありませんでしたか。
市立郷土博物館に、あなたの録音が残っています。
そこまで考えて、直人は受話器に手を伸ばさなかった。
仕事用の電話は机から数歩のところにある。
電話番号を見つけたことと、電話をかけてよいことは同じではなかった。
「分かった?」
久住が資料整理室へ入ってきた。
直人は紙を伏せなかった。
「たぶん、連絡先まで」
久住が足を止めた。
「榎本さん?」
「はい」
紙を見せる。
久住は番号までは読まず、名前だけを見た。
「かけるの?」
「まだ分かりません」
「そう」
久住はそれ以上言わなかった。
直人は電話番号の下に、資料の出典を書いた。
団体名。
冊子名。
発行年。
掲載ページ。
それを書き終えてから、紙をファイルへ入れた。
*
水原美智子へ連絡したのは、その日の午後だった。
前に訪ねたときと同じように、いきなり自宅へ行くことはしなかった。
電話口で名乗ると、美智子はしばらく黙った。
『また何か分かったんですか』
「はい」
直人は答えた。
「少し確認したいことがあります」
『何でしょう』
「榎本佳奈という方を、ご存じですか」
電話の向こうが静かになった。
直人は次の言葉を足さなかった。
名前を言っただけで、十分だった。
『どこで、その名前を』
「県外の地域紙です。昔の商店や生活道具について聞き取りをしている方で」
美智子は何も言わない。
「水原佳奈さんと同じ方ですか」
長い間があった。
『そうです』
直人は机の上のノートを見た。
第三章で書いた二文字。
生存?
まだそのページを開いてはいなかった。
「今も、そちらに?」
『知りません』
「連絡は取っていないんですか」
『取っていません』
答えはすぐだった。
直人はそれ以上聞こうとして、一度止まった。
「前に、佳奈さんのことを、もう探さなくていいと言いましたよね」
『言いました』
「生きていることを知っていたからですか」
美智子の息を吐く音が聞こえた。
『手紙が来たんです』
「いつですか」
『何年か前』
「佳奈さんから?」
『ええ』
直人は日付を尋ねかけたが、やめた。
「どんな内容でしたか」
『それを話さないといけませんか』
「いいえ」
直人は答えた。
「必要ありません」
美智子は少し黙った。
『元気だと書いてありました』
「はい」
『家族もいるって』
その言葉で、直人はペンから手を離した。
書く必要がないと思った。
『もうこっちへ戻るつもりはないって。だから、探さないでほしいって』
「それで、前に」
『そうです』
あの子を、もう探さなくていいんです。
直人はようやく意味を知った。
「僕は、今の連絡先らしいものを見つけました」
『電話するんですか』
「分かりません」
『しないでください』
美智子の声が初めて少し強くなった。
「分かりました」
直人はすぐに答えた。
『あの子には今の生活があります』
「はい」
『昔のことを、急に持っていかないでください』
「はい」
直人は電話番号を書いた紙を見た。
「ただ、博物館に残っているものについて、本人の意思を確認したいんです」
『残っているもの?』
そこで直人は、初めて木箱のことを話した。
三十一年前の開館準備時代の聞き取りテープが残っていること。
佳奈自身が一人で録音した二本も含まれていること。
正式な収蔵品としては登録されていないこと。
美智子は途中で口を挟まなかった。
『あの子の声が?』
「はい」
『まだあるんですか』
「あります」
しばらく返事がなかった。
『久住さんが持ってたんですか』
「博物館の収蔵庫にありました」
直人はそう答えた。
『そうですか』
美智子の声は小さかった。
『あの人、捨てなかったのね』
直人は返事をしなかった。
『前に言ったでしょう』
「はい」
『ちゃんと残しておいてくださいって』
「覚えています」
『それは、今もそう思います』
そこで一度言葉が切れた。
『でも、佳奈に聞いてください』
「はい」
『私じゃなくて』
「そのつもりです」
電話を切ったあと、直人は聞き取りノートを開いた。
生存?
その下に、榎本佳奈。
さらに記事の日付と町名。
直人はしばらくページを見た。
それから「生存?」の疑問符に一本線を引いた。
丸では囲まなかった。
代わりに、余白へ小さく書いた。
本人の意思。
*
電話はしなかった。
久住と館長へ事情を伝え、博物館名義で手紙を出すことになった。
書いたのは、館内でカセットテープが確認されたこと、その中に高校時代の聞き取りと佳奈自身の録音があること、今後の扱いについて本人の意向を確認したいことだった。
公開するつもりで連絡しているのではない、とも書いた。
返事を望まないなら、そのままで構わない。
宛名には榎本佳奈とだけ書いた。
水原という姓は使わなかった。
直人が投函した。
*
返事が来るまで、博物館の仕事は続いた。
小学校から団体見学の申込みが入った。
収蔵庫から祭礼道具を出す作業があった。
寄贈された古写真の整理では、撮影場所の分からないものが十三枚あった。
南條からは、第三収蔵庫の位置データにまだ二件間違いがあると言われた。
「瀬尾さん、こっち直しました?」
「昨日やりました」
「じゃあ反映されてない」
「保存しましたけど」
「保存したつもりが一番危ないんですよ」
南條が端末を操作する。
「あ、同期されてないだけだ」
「僕のせいじゃないじゃないですか」
「そうとも言います」
「そうとしか言わないです」
南條は笑った。
直人も少し笑った。
木箱は資料整理室の保管棚に移してあった。
第三収蔵庫へは戻していない。
まだ資料番号はない。
仮置きの表示と、移動記録だけが付いている。
何も決まっていないものにも、今どこにあるかという記録だけは残した。
返事が来たのは、手紙を出してから十二日後だった。
博物館宛ての白い封筒だった。
差出人は榎本佳奈。
直人が開封していいものか迷っていると、久住が言った。
「あなた宛てでしょう」
正確には博物館と直人の連名だった。
直人は封を切った。
便箋は二枚。
字は、木箱の古いメモとは違って見えた。
三十一年も経てば当たり前だった。
最初に、連絡を受けて驚いたことが書かれていた。
自分が預けた録音が残っているとは思っていなかったこと。
久住がまだ博物館にいることも知らなかったこと。
高校時代の聞き取りの録音については、博物館資料として残すことに異存はないこと。
直人は一行ずつ読んだ。
個人的な録音については、公開を望まない。
会社の会計や家族について話した部分を、展示や広報に使用しないでほしい。
現在の氏名、住所、家族についても公表しないでほしい。
そして、便箋の下のほうに、短い二行があった。
私のことを展示しないでください。
でも、あの録音は捨てないでください。
直人はそこで読むのを止めた。
「何て?」
久住が聞いた。
直人は便箋を渡した。
久住は眼鏡を掛け、一枚目から読み始めた。
最後まで読んでも、何も言わなかった。
「返事、書きますか」
直人が尋ねた。
「私が?」
「はい」
久住は便箋を机へ置いた。
「博物館からでいいと思う」
「久住さん個人では」
「書かない」
返事は穏やかだった。
「向こうが何も求めてないでしょう」
直人は頷いた。
佳奈の手紙には、久住への恨みも感謝も書かれていなかった。
会いたいとも、話したいとも。
ただ、録音をどうしてほしいかが書かれていた。
*
収蔵についての打ち合わせは、翌週に行われた。
館長、久住、南條、直人。
木箱の中身は、すべてを同じ扱いにはしないことになった。
高校時代の聞き取り録音。
佳奈自身の録音。
水原繊維の書類。
後から久住が加えた新聞記事。
来歴が違うものは、それぞれ分けて記録する。
分からないことは、分からないまま記録する。
本人が公開を望まない二本の録音には、閲覧制限を設ける。
そこまで決まったところで、久住が言った。
「一つだけ」
三人が見る。
「佳奈さんから私が預かったことは、書いてください」
直人は久住を見た。
「八月十二日に?」
「日付は日誌で確認できるでしょう。ただ、どのテープまでその日に受け取ったのかは、分かる範囲で」
「はい」
「私が預かった。それを抜いたら、また来歴が途中でなくなるから」
直人は記録用紙に書いた。
水原佳奈本人より久住澄江が預かる。
範囲の確定できない部分には、そのことも書く。
最後に残ったのは資料名だった。
仮の一覧には、
水原佳奈関係カセットテープ
とある。
「これは違うと思います」
直人が言った。
「どうする?」
館長が聞いた。
「失踪事件の資料として入ってきたものじゃありません」
直人は机の上の活動写真を見た。
右端で、カセットレコーダーを持った佳奈が誰かを見て笑っている。
「佳奈さんは、開館準備の聞き取り調査に参加していたんです」
南條が画面の仮題を消した。
「じゃあ、そこからですね」
直人は紙へ書いた。
市立郷土博物館開館準備時 聞き取り調査録音資料
その下へ、
録音者 水原佳奈
久住が紙を見た。
「それでいいと思う」
館長も頷いた。
現在の姓は入れなかった。
今の住所も。
家族についても。
それらがなくても、この資料が何であるかは記録できた。
*
その夜、直人は久しぶりに大学のメール画面を開いた。
通知の数は増えていた。
事務からの連絡。
図書館の利用期限。
休学関係の案内。
その中に、指導教員からのメールがあった。
第一章で見たものとは別に、その後もう一通来ていた。
直人は最初のメールを開いた。
短かった。
体調はどうか。
実家で落ち着いているなら急ぐ必要はないこと。
卒論については、以前出した案にこだわらなくてもよいこと。
戻る気になったら連絡してほしいこと。
直人は二通目も開いた。
地域調査の研究会の案内が転送されていた。
興味があれば読むだけでも、と書いてある。
直人はしばらく画面を見た。
卒論のファイルを開く。
最後に保存したのは数か月前だった。
仮題のまま。
対象地域。
先行研究。
調査目的。
何度読んでも、自分が何を知りたくて書いたのか分からなかった文章だった。
直人は削除しなかった。
別の新しい文書を開く。
しばらく何も書けなかった。
机の横では、祖母が一階のテレビを消す音がした。
「直人」
階段の下から声がする。
「何?」
「明日、ゴミの日だから」
「分かった」
「忘れないでね」
「うん」
足音が遠ざかる。
直人はもう一度画面を見た。
卒業論文の題名を決めることはできなかった。
代わりに、指導教員への返信を開いた。
先生
ご連絡いただいていたのに、返信が遅くなり申し訳ありません。
そこまで書く。
次の行で手が止まる。
休学してから、故郷の市立郷土博物館で臨時職員として働いています。
資料整理をしながら、以前とは少し違うことを考えるようになりました。
そこで止めた。
何を考えるようになったのか、まだうまく書けない。
それでもメールは閉じなかった。
*
正式な登録作業をしたのは、その二日後だった。
木箱の中身を一つずつ確認する。
カセットテープ。
レコーダー。
メモ。
会計資料のコピー。
新聞記事。
聞き取り③のケースを手に取る。
鉛筆の文字は薄い。
再生すれば、佳奈の笑い声が聞こえる。
祭りから菓子屋の話へ逸れていく声。
直人は再生しなかった。
状態を確認し、写真を撮った。
無記名テープには閲覧制限を記録する。
木箱には、旧分類記号K.M。
記入者、記入時期不明。
保存場所の全履歴も不明。
分からないものは、分からないと書いた。
資料名の欄を見る。
市立郷土博物館開館準備時 聞き取り調査録音資料。
録音者。
水原佳奈。
失踪という言葉はない。
水原繊維も。
榎本佳奈という現在の名前もない。
直人は確認欄を上から見直した。
来歴。
公開条件。
保存場所。
関連資料。
そして登録ボタンを押した。
画面が切り替わった。
中央に短い表示が出る。
登録しました。
数秒後、表示は消えた。
資料番号の付いた画面へ戻る。
直人は番号を作業ノートへ写した。
廊下から足音がした。
「すみません」
来館者の声だった。
直人は椅子から立った。
資料スペースに、六十代くらいの男性が立っていた。
「あの、この町の昔の写真を調べたいんですが」
「はい」
直人は机の上の登録画面を閉じた。
「どの辺りの写真でしょう」




