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博物館は覚えていない ―― 名前のないカセットテープ  作者: 芹 透


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番号のない箱

 市立郷土博物館の自動ドアは、開館時刻の九時を過ぎてもほとんど動かなかった。


 瀬尾直人は受付の横を通るたび、ガラス越しに駐車場を見た。白線の引かれた区画に停まっているのは職員の車が三台と、軽トラックが一台だけだった。


「午前中はこんなものよ」


 久住澄江はそう言って、直人の前に薄いファイルを置いた。


「学校が来る日は別だけどね。今日は団体もないから」


「はい」


「そんなに緊張しなくて大丈夫」


 言われて、直人は自分が背筋を伸ばしすぎていたことに気づいた。


 初出勤だった。


 昨日までは来館者として入る側だった建物の、受付の内側にいる。それだけで同じ場所には見えなかった。


 建物自体は新しくない。正面の常設展示室には、町で出土した土器、古い農具、祭礼の衣装、昭和の商店街を写した写真が並んでいる。直人も小学生のころ、学校行事で来た覚えがあった。土器を見た記憶はほとんどなく、帰りに玄関前の池で同級生が靴を濡らしたことだけ覚えている。


 職員用の扉の向こうには、そのころ知らなかった場所が続いていた。


 職員室、資料整理室、書庫。その奥に収蔵庫がある。


 久住は郷土史担当の学芸員だった。六十一歳だと紹介されたが、白髪の混じった髪を短くまとめ、館内を歩く足取りは直人より速い。


「まずは、これね」


 資料整理室の机に、白い紙箱が一つ置かれた。


 蓋を開けると、古い帳面が三冊入っている。


「昨日、寄贈で入ったもの。市内の商家の日記。受入の手続きは済んでるから、今日は仮番号と中身の確認を手伝ってもらいます」


 直人はファイルを開いた。


 寄贈者名、受入日、資料の概要、点数。欄がいくつも並んでいる。


「この番号を、こっちにも?」


「そう。鉛筆でね。いきなり資料に書かないで」


「分かりました」


「あと、一冊ずつ写真を撮る。表紙と、状態が悪いところ。破れとか染みとか」


 久住は一冊を持ち上げ、背の部分を指した。


「ここ、少し剥がれてるでしょう。今の状態を残しておかないと、前からこうだったのか、受け入れたあとに傷んだのか分からなくなるから」


 直人は頷いた。


 大学で資料を扱う授業を受けたことはある。だが、実際の博物館の作業は、講義で聞いたよりずっと細かかった。


 日記の内容を読む前に、まず物として確認する。


 何冊あるか。どこが傷んでいるか。誰から、いつ受け入れたか。どこに置くか。


 直人は嫌いではなかった。


 一枚ずつ確認していけば、少なくとも何をすればいいか分かる。


「この博物館にあるものって、全部こういう台帳に入ってるんですか」


 写真を撮りながら尋ねると、久住は少し考えた。


「基本的にはね」


「基本的には?」


「展示に使う備品もあるし、昔の展示ケースなんかも残ってる。職員が参考用に持ち込んだ本もあるし」


 久住は机の端にあった古い穴あけパンチを持ち上げた。


「これだって二十年以上ここにあるけど、収蔵品じゃないでしょう」


「それは、まあ」


「博物館に置いてあるものが、全部収蔵品というわけじゃないのよ」


 久住はパンチを元の場所へ戻した。


「昔は今ほど整理の仕方も統一されてなかったし。開館したころの書類なんか見ると、頭が痛くなるわよ」


 笑ってから、久住は日記の状態確認に戻った。


 直人もそれ以上は聞かなかった。


 昼までに日記三冊の確認を終えた。


 最後の一冊を箱へ戻したころ、受付から来館者の声が聞こえた。午前中の入館者は、直人が気づいた限りでは五人だった。


     *


 昼休み、職員室には電子レンジの作動音が響いていた。


 直人がコンビニで買ったおにぎりの袋を開けていると、向かいの机に座った男が言った。


「瀬尾さん、民俗学なんですって?」


 南條慧だった。


 三十一歳。自然史担当。午前中は収蔵庫の別区画で昆虫標本の移動をしていたらしく、作業着の袖口に細い埃がついている。


「一応」


「一応って」


「大学では、そうです」


「じゃあ久住さんのところに来たの、ちょうどいいですね。うちは郷土史の人手が足りないんで」


 南條は弁当の蓋を開けた。


「僕はそっち、ほとんど分からないですから。古文書見せられても、読めないし」


「僕もそんなに読めません」


「民俗の人って読めるんじゃないんですか」


「人によります」


「あ、そういうものなんだ」


 南條はあっさり言って、卵焼きを食べた。


 壁際には、収蔵庫の棚配置図が貼られていた。赤いペンで何か所も矢印が引かれている。


 直人は朝から気になっていた。


「棚、入れ替えてるんですか」


「先月から。もう大体終わりましたけど」


 南條が振り返る。


「古い棚が錆びてきたんで。中身を一回全部出して、新しい棚に移したんです。おかげで腰が終わりました」


「全部?」


「全部じゃないですよ。第三収蔵庫の奥だけ。あそこ、何十年動かしてない箱とかあるから」


「そんなに長く?」


「ありますよ。博物館ですから」


 南條はそう言ってから、自分で少し笑った。


「いや、笑えないんですけどね。移動したら移動したで、今度は保存場所のデータ直さなきゃいけないし」


 直人は壁の配置図を見る。


 棚番号の横に、小さな付箋が何枚も貼られている。


「場所が分からなくなると困りますよね」


「困ります。物があることより、どこにあるか分かることのほうが大事なくらいです」


「あるのに見つからない資料も?」


「ありますよ」


 南條は箸を止めた。


「昔の受入で、記録が雑なのとか。寄贈者の名前だけあって現物の記載が曖昧とか、逆に物はあるけど経緯が分からないとか」


「そういうのはどうするんですか」


「調べます。分かれば直す。分からなきゃ分からないって記録する」


 南條は弁当の中のミニトマトを箸で転がした。


「残ってるだけじゃ資料にならないんですよ。誰が、いつ、どこで、何に使ったか。それが分からなきゃ、ただの物です」


 言い切ったあと、ようやくミニトマトを口に入れる。


「って、自然史の標本も人のこと言えないんですけどね。採集地不明の虫とか、本当に困るんで」


 久住が職員室へ戻ってきた。


「南條さん、瀬尾さんにいきなり愚痴を聞かせないの」


「業務説明です」


「半分は愚痴でしょう」


「九割くらいです」


「増えてるじゃない」


 直人は笑った。


 午前中より、少しだけ肩の力が抜けていた。


     *


 家に帰ると、祖母は居間で時代劇の再放送を見ていた。


「どうだった」


 直人が台所で麦茶を注いでいると、テレビを見たまま聞かれた。


「普通」


「普通って何」


「仕事」


「そう」


 祖母はそれ以上聞かなかった。


 体調を崩したといっても、寝込んでいるわけではない。春先に軽い肺炎で入院し、退院してからは一人にしておく時間を減らしたほうがいいと叔母が言った。それを大学を休む理由の一つにしたのは直人だった。


 理由の全部ではなかった。


「明日も八時半?」


「うん」


「じゃあ起こさなくていいね」


「起きるよ」


「大学のときは起きなかったじゃない」


 言い返せず、直人は麦茶を持って二階へ上がった。


 高校時代から使っている机の上にノートパソコンを置く。


 電源を入れると、メールの通知が三件出た。


 通販サイトの案内が一件。


 大学の事務から一件。


 もう一件は、指導教員の名前だった。


 件名は短い。


 瀬尾君へ。


 直人はカーソルをそこへ合わせた。


 クリックはしなかった。


 代わりに大学のメール画面を閉じ、今日渡された博物館の業務メモを開いた。


 明日は収蔵位置の確認。


 棚番号と資料番号を照合し、移動後の位置を修正する。


 やることが決まっている。


 そのことに少し安心した。


     *


 博物館で働き始めて一週間が過ぎたころ、直人は第三収蔵庫の配置確認を任された。


 閉館を知らせる館内放送が流れたのは午後五時前だった。


 最後の来館者が出るのを受付で確認してから、直人は収蔵庫へ向かった。


 扉を開けると、低い空調音が耳についた。


 外はまだ明るいはずなのに、収蔵庫には窓がない。蛍光灯の白い光の下に金属棚が並び、茶色や灰色の資料箱が整然と積まれている。


 手元の端末には、移動前と移動後の棚番号が表示されていた。


 直人は一段ずつ資料番号を確認していった。


「民二三四一」


 箱のラベルを見る。


 端末を見る。


 民俗資料、第三収蔵庫、棚三―四、中段。


 合っている。


 次の箱。


 民二三四二。


 その次。


 二三四三。


 数字を追う作業は単調だったが、直人には向いていた。


 棚の位置と番号が一致するたび、端末にチェックを入れる。


 十分ほどして、棚の一番下にある箱を確認するためにしゃがみ込んだ。


 二箱が縦に積まれている。


 上は灰色の保存箱だった。側面に印刷された資料ラベルがある。


 その下に、木の箱があった。


 直人は手を止めた。


 細長い木箱で、幅は四十センチほど。表面は乾いて白っぽくなり、角が黒ずんでいる。


 保存箱ではない。


 側面を見た。


 資料番号のラベルがない。


 棚番号もない。


 蓋の端に、黒いマーカーで二文字だけ書かれていた。


 K.M


 直人は端末の画面を見た。


 この棚に登録されているのは、上の保存箱までだった。


 木箱に該当する資料は表示されていない。


 持ち上げる前に、隣の棚と床を確認した。移動作業の途中で仮置きされたものかもしれない。


 近くに付箋や作業票はなかった。


 直人は木箱を両手で持った。


 思ったより軽い。


 資料整理室まで運び、机の上に置いた。


 閉館後の館内は静かだった。遠くで掃除機の音がしている。


 久住は別室で電話をしていた。南條は展示室の点検に出ている。


 直人はまず、収蔵品管理システムで「K.M」を検索した。


 該当なし。


 旧台帳の索引にもない。


 アルファベットを小文字にしてみた。間の点を外し、KMでも検索する。


 出てこなかった。


 木箱の表面を撮影した。


 それから蓋を持ち上げた。


 中に入っていたのは、古いカセットレコーダーだった。


 黒いプラスチック製で、片手では持ちにくい大きさがある。再生、停止、巻戻し、早送り。四角いボタンが横一列に並んでいた。


 その脇に、透明なケースに入ったカセットテープが六本。


 紙も何枚か入っている。


 直人は一枚を取り出した。


 黄ばんだメモ用紙だった。


 鉛筆で人の名前らしい文字と日付が書かれている。字が薄く、一部は擦れて読めない。


 別の紙には、


 聞き取り ③


 とだけ書かれていた。


 直人は六本のテープを順に見た。


 ラベルが貼られているものが四本。何も書かれていないものが二本。


 一本目のラベルには、鉛筆で日付と名字らしい文字がある。


 二本目は「聞き取り②」。


 三本目は「聞き取り③」。


 四本目には日付だけ。


 残り二本は無記名だった。


 箱の中には、受入票も寄贈者名もなかった。


 直人はもう一度管理システムを検索した。今度はメモにある名字を入れてみた。


 一件だけ同じ名字が出たが、農具の寄贈者だった。年代も合わない。


「何だろう」


 口に出してから、直人は周囲を見た。


 答える人はいない。


 久住を呼ぼうかと思ったところで、廊下から声がした。


「瀬尾さん、まだかかりそう?」


 久住だった。


「すみません。ちょっと確認したいものがあって」


「急がなくていいけど、六時には閉めるからね」


「はい」


 久住は資料整理室の入口から顔を見せたが、机の反対側に置かれた木箱までは見なかった。


「私、事務室にいるから。終わったら声かけて」


 そう言って戻っていく。


 直人は木箱を見た。


 明日、聞けばいい。


 そう思った。


 だが、箱が何なのか分からないままでは、どの棚に戻すべきかも分からない。


 少なくとも、テープの内容が分かれば手掛かりになるかもしれない。


 資料整理室の棚には、古い音声資料を確認するためのカセットデッキがあった。初日に久住から、聞き取り音源の整理で使うことがあると教えられている。


 直人は「聞き取り③」と書かれたテープを手に取った。


 ケースに割れはない。


 テープ自体にも目立つ汚れは見えない。


 デッキの電源を入れ、音量を絞った。


 カセットを入れる。


 再生ボタンを押した。


 しばらく、音はなかった。


 サーッという細かなノイズが続く。


 直人は少しだけ音量を上げた。


 椅子に座り、メモ用紙を手元に置く。


 やがて、遠くで何かがぶつかる音がした。


『じゃ、始めます』


 若い女の声だった。


 少女、と言ったほうが近いかもしれない。


 続いて、年配の男性の声がする。


『何を話しゃいいんだ』


『何でもいいです。昔のこの辺のこと』


『何でもって言われてもなあ』


『じゃあ、お祭り。昔のお祭りって、今と同じでした?』


『祭りか』


 そこで録音が少し途切れた。


 テーブルを叩くような音。


『あ、ごめんなさい』


 少女が笑った。


『これ、回ってる?』


『お前さんが持ってきたんだろ』


『回ってます、回ってます』


 男性も笑っていた。


 そのあと、昔の祭りの話が続いた。


 神輿の道順。


 商店街にまだ屋根がなかったころのこと。


 川沿いに露店が並んだこと。


 大雨で中止になった年のこと。


 直人は聞きながら、紙にいくつか言葉を書き留めた。


 町の名前が何度か出てくる。


 間違いなく、この地域で録音されたものだった。


 少女は聞き役らしい。


 質問はあまり上手ではなかった。


 祭りの話をしていたのに、途中から男性の小学校時代の話になり、そのまま戦後すぐの菓子屋の話へ移っていく。


『それ、おいしかったんですか』


『うまいも何も、それしかなかったからな』


『でも甘いんでしょう?』


『甘かったかなあ』


『覚えてないんですか』


『五十年前だぞ』


『五十年前でも、おいしかったものは覚えてると思う』


『あんたはまだ十何年しか生きてないから、そんなこと言えるんだ』


 少女がまた笑う。


 直人も少しだけ口元を緩めた。


 怪しい録音ではなかった。


 昔の博物館活動か、学校の郷土学習かもしれない。


 箱の「K.M」も何かの分類記号だろう。


 それなら、古い台帳を確認すれば分かる可能性がある。


 三十分近く再生して、男性の話は終わった。


『ありがとうございました』


『こんなんでいいのか』


『すごくいいです』


『何がいいんだか分からんな』


『私が分かるからいいんです』


 録音が切れた。


 直人は停止ボタンを押した。


 聞き取り資料なら、登録されていてもおかしくない。


 むしろ、なぜ箱ごと台帳に出てこないのかが分からなかった。


 六本のテープをもう一度見る。


 無記名の一本を手に取った。


 透明なケースにも、カセット本体にも文字がない。


 直人はしばらく迷ってから、それをデッキに入れた。


 再生する。


 ノイズ。


 今度は長かった。


 十秒。


 二十秒。


 録音されていないテープかと思い、停止に指を伸ばしたとき、音が入った。


 息を吸う音だった。


 近い。


 さっきの聞き取りとは違い、録音機のすぐ前に人がいる。


『……入ってるかな』


 同じ少女の声だった。


 直人は手を止めた。


『たぶん入ってるよね』


 紙を動かすような音がする。


 少女は誰かに質問しているのではなかった。


 少なくとも、返事をする人はいない。


『何から言えばいいんだろ』


 数秒、黙る。


『こういうの、ちゃんと書いてから話せばよかった』


 小さく笑った。


 聞き取りのときとは違う笑い方だった。


 直人は机の上のメモへ目を落とした。


 日付を書こうとして、やめた。


 テープには日付がない。


『これを聞く人がいるかどうかも、分からないけど』


 ノイズの向こうで、何か低い音がしている。


 車なのか、機械なのか、直人には判別できなかった。


『もし誰も聞かなかったら、それはそれでいいです』


 そこで長く間が空いた。


 直人は音量を少し上げた。


『でも』


 少女が言った。


『もしこれを博物館で聞いている人がいるなら、たぶん私は、もうここにはいません』


 録音は、そのあと数秒だけ続いた。


 何かを動かす音がして、テープが止まった。


 資料整理室には、収蔵庫と同じ空調の低い音だけが残った。

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