第三話:水魔法と本
あれから、ハイハイを覚え、離乳食を食べ、そして喋れるようになるまで、ずいぶん長く感じた。
カレンダーを見られないせいで正確な時間が分からないのは、やはりもどかしい。もっとも、それは今さら仕方ない。
それでも、数か月前に喋れるようになったときの達成感は格別だった。
「ママ、ご飯!」と言ったときの、エリスの驚いた顔はなかなか見ものだった。
「まあ!もうXXXできるようになったのね!」
XXXのところは今まで聞いたことがない単語だった。文脈から考えて、十中八九「喋る」だろう。「できる」に該当する単語はすでに聞いていたし、たぶん外してはいない。
「ぼく、XXX」 ぼく喋る と言ってみた。正確に発音できてなさそうだが、何事も挑戦だ。
「まあ!すごいわ、パウルちゃん。こんなに早く喋れるようになるなんて。天才なのかしら?かなり早いわよ。何はともあれ、今日はお祝いね。パパにも言わなくっちゃ。あなたー!」
そう言うなり、エリスは洗濯物も自分の世話も一度脇に置いて、ルイスの書斎へ向かっていった。よほど嬉しかったのだろう。
あの日からは、とにかく身の回りの物の名前や、「きれい」「甘い」「臭い」といった形容を片端から覚える日々で、なかなか大変だった。
が、数か月(?)だれとも話ができない状態から、喋れるようになれたのだ、嬉しくて仕方なかった。単語を学ぶ怒涛の数か月は実にあっという間だった。
喋れるようになったことで1つ分かったこともある。それは、姉マリーと父ルイスが朝から昼まで外に行って何をしてるのかだ。数日前に、お昼ごろに帰ってきた時に聞いたのだ。
「ねぇねぇお姉ちゃん。」
「どうしたの?パウル?」
「お姉ちゃんとパパは、朝からなにしてるの?」
「〇×△×よ!」
?なんて言ったのかが分からない。知らない単語だ。
「なあにそれ?」
「あーそっか。パウルにはまだ分かんないか。お金分かる?これ。」
そういってマリーは、今日稼いできたであろう硬貨を見せてくる。
「うん、知ってる! ママが、物と交換できるものだって言ってたよ!」
もちろん、エリスはそんなこと教えてないが。
「あら、私そんなこと教えたかしら...?」
と、エリスが食事をしながら首をかしげる。
まずい。
「ん〜そうだったけ?まあ、それはともかく、それで?」
適当にごまかして、とにかく続きを聞き出すことにした。
「んとね、私やパパが他の村の人たちが飲むための水を作ってあげて、そのお返しにお金とかお野菜とかお肉を貰ってるの。そういう行動を〇×△×って言うのよ。」
ああ、そういうことか。単語の意味は、たぶん仕事とか商いとか、そのあたりだろう。もっとも、今の自分にとって大事なのはそこではない。それより大切なのは、二人は村の人々に水魔法で水を生成してあげるということだ。
確かによくよく考えてみると、井戸水や川の水と違って魔法によって作られた水は衛生面で安全なはずだ。井戸水や川の水は細菌の宝庫で危険だ。現代社会でも発展途上国では不衛生な水を飲んでお腹を壊して死んでゆく子供が多かった。そんな中で、水魔法で作られた水は、器さえ清潔なら安全なはずだ。需要は途方もないだろう。
「村の人たちも飲むための水を自分たちで作らないの?ママもやってるよね?」
「あー、まあ、水を作るXXって教育を受けないと厳しいのよ。それに、XX量が多くないと、厳しいのよね。大気中のXXを使っても効率が悪いし、そのためにはもっとXX理論を知らないとだめだし。我が家はパパもママも私も皆使えてるけど、一家の数日分の飲み水を一気に生成するのってXXめっちゃ使うからね。」
うん...おそらくだけど、このXXはまず間違いなく魔法とか魔力のことだろうな。そうじゃなきゃおかしい。
「へー。僕もそのXX使えるようになるの?パパ?」
「ん?ああ、そのうちな。パパは今日やらなくちゃいけないことがあるからね。すまん。」
飯を凄まじい勢いでかきこむ、投げやりな返事のルイス。最後にスープを飲み切ると、すぐに書斎から紙を取って、家を出て行った。忙しそうだ。それでその日は結局、他のことを聞きそびれた。
まあ、なんにせよ、魔法を使える家は、水魔法を覚えるだけで食い扶持には困らないのは間違いなさそうだ。現実的に考えても驚きはない。魔法を使える家の割合がどれくらいか分からないけど、そう多くはないだろう。それに、綺麗な水の希少性と必要性を考えれば、需要は大きい。
村に、安全な水を作れる魔術師がいるだけで、危険な飲み水を確保するために費やしていた何時間もの重労働から解放される。皆がこぞって水魔法の使い手を頼るのも当然だ。そして、どうやら我が家はそれで生計を立てているのだろう。
話がそれてしまった。さっきの例みたいに喋れるようになったことで知りたいことを聞けるようになったのは大きな前進だ。そして、ようやく次の大きなステップに進める!
何のステップか?
そう、それは本を手に入れて文字を学ぶステップだ!
文字を知り、ひいては異世界の状況を知るのだ。母エリスが最近やってくれるようになった昔話の読み聞かせの中で聞けばいいかとも一瞬考えた。だが、エリスが話してくれるのは、ラレース教というこの村で信仰されている宗教が出しているような神話ばっかりだ。
あとは昔話の戒めみたいなタイプ。昔話の教訓は、今の自分にとっては優先度が低い。
それに、魔法が使える世界だとしても、神話なんて大抵は権力者に都合の良い秩序を正当化するためのものだろう。
神話は何より再現性がないし、ところどころ話の筋が曖昧だ。
マリーも夜に物語を語ってくれるのだが、こちらも似たようなものだった。しかも、同じ話をしているはずなのに、エリスと微妙に内容が違う!
やはり口伝では情報源として心許ない。単語を覚える助けにはなるが、この世界を知るにはまるで足りない。
今後生きていくために、知っておくべきことはいくつもある。
転生者は他にもいるのか。いるなら、どう扱われているのか。
この世界の経済はどんな仕組みなのか。どう金を稼ぎ、生き残るべきなのか。
水魔法はおそらく重要だろう。
それに、今のところ皆目見当もつかない地球への帰還方法もそうだ。
本を読むという段階は、早ければ早いほど価値がある。
ということで、次の日の朝になったし、いよいよ作戦開始だ。
父の部屋の前にこっそり忍び寄る。今は朝で、いつも通り、姉のマリーと父のルイスは外出中だ。そして、エリスも、ちょうど昼食の支度で手が離せない。つまり今自分は自由だ。
背伸びをしてドアノブに手を掛ける。扉が開いた。
鍵穴があったから、もしかするとルイスが鍵を閉めて出ていった可能性があった。だが、杞憂だったみたいだ。部屋は居間より少し薄暗く、木と紙の匂いがした。それに、ちらっと見えていた本棚と机があった。
本棚にある本の数は...計4冊か。
多くはない。だが、中世程度の文明水準なら、紙はかなり貴重なはずだ。家庭に本があるだけでも十分すごい。机には数枚の紙 ―― たぶん手紙らしきもの ―― が置いてある。この村の外の誰かと連絡を取っているのだろうか。
この手紙が不動産ローンの返済催促とかだったら面白いのだが。まあ、この世界にたぶん不動産ローンは存在しないだろうけど。。それに、ルイスのあの能天気そうな表情や母としてのエリスのゆったりさを見るに多分経済的には全く困窮してなさそうだが。
今は手紙どころではない。エリスに見つかって追い出される前に、本を1冊確保しなければならない。本棚の高さに対して身長は足りない。だが、自分には頭がある。
なにをするのか?
答えは簡単だ。
椅子から机に上がり、そこから棚の本を取る。それだけだ。
まず机の上の紙を踏みつけて破らないよう脇へどかす。次に椅子を足がかりにして、どうにか机の上へよじ登る。そこから背伸びすれば、ようやく棚に指先が届いた。
さて、どの本を取ろうか。
正直、どれでもいい。
俺がしたいのは、本を取ってきて(おそらく)怒られてから、
「本に興味があるから文字を教えて!(ついでに世界のことを教えて)」
と自然に言うことなのだ。そのためには、パウルという息子が「本という存在を知る」というプロセスを経たことを彼らに見せる必要がある。出来れば、中に絵がある本がいいな。そっちのほうが興味を持った理由を怪しまれない。
最悪な例は、子供が「金融工学の入門:リスク管理とデリバティブ取引」みたいな本を間違えて取ってきて、「これ面白そうだから字を教えて!」みたいなことを言ったら流石に怪しいか、もしくは、内容を分かっていないのだろうと真面目に相手にしてもらえないはずだ。というか、ちょっと怖いだろう。うちの息子は頭が大丈夫だろうか、という別の心配をされそうだ。
もちろん、この中世に「金融工学の入門:リスク管理とデリバティブ取引」の本はないだろうけど。
あと、昔の春画みたいなエロ本でも困る。いや、父ルイスをゆするネタができるのは別の意味で収穫だけど、今回の目的じゃない。
要するに、当たり障りのない本をきっかけに使いたいのだ。そのためにも、中身をチェックしよう。
まずは一番右にある、赤い装飾が付いてる本からだな。
タイトルの字が分からない。けど、中身をペラペラとめくっていると、絵があった。
...甲冑を着た人の頭に、棒のようなものが突き刺さっている。
しかも、その棒を別の甲冑姿の人間が手にしているように見える。
どう表現すればいいのか分からない。槍なのか、杭なのか、とにかく物騒だ。
他の絵を見てみよう。飛ばし飛ばしでページを進めて他の絵を見てみたが、爆発?らしきものから逃げ惑う人々の絵とか、黒く焼けた人影のようなものが川に浮いている絵とか、煙?の中で人の首をちょんぱしてる剣を持った人の絵とか。
何の本かは分からないが、ろくでもない内容なのは伝わる。たぶん戦争の記録か地獄に関連した何かだろう。子供が最初に興味を持つには不自然すぎるし、質問の取っ掛かりとしても重い。
さ、次の本だ。
隣にある黒色と金色っぽい縁取りの凄い分厚い本を取ってみた。重いし埃っぽい。こちらに関しては、これだけ分厚いのに、そもそも絵が一枚もなかった。いや表紙の次には、なんかよく分かんない剣を持った男みたいなのが書いてあるんだけど、それだけじゃあ何もわかるはずもない。これもだめだな。
ただ、この本の巻末らしきところに、記号と別の記号を並べた表が何ページも続いていた。もしかすると、言語に関する本かもしれない。まあ、少なくとも子供が興味を持つ本じゃない。次だ。
青色の本を取ってみる。この本もかなり分厚い。
表紙をめくった瞬間、この本にすることに決めた。
なぜか?
地図があるのだ。
どこの地図かは分からないが、それは紛れもない地図だった。もちろん中世らしく不正確な地図だろうが。10ページぐらい離れたところには、大きな街の外観の絵がある。
どこなのかは分からないけど、この本はなにかの探検記か、少なくともどこかの町の紹介だろう。
見た目はなんとなくギリシアっぽい。都市国家というか、石造りの港町の印象だ。
もっとも理系の自分には世界史の細部は全く分からない。単なる雰囲気で言っているだけである。
それでも、他にも、講壇に立って議論をしあう二人の人とそれを聞いている大衆 ―― いかにも騒がしく議論に参加しそうな雰囲気の群衆 ―― の絵が書いてある。部屋から取って父や母に質問する本として最適だ。「この街?ってなーに?」とか「この二人は何してるの?」とか、「この絵(地図)は何を示してるの?」と色々なことを聞ける。
そして、そうしたら、自分の居場所も必然的に聞けるはずだ。
それから、国家の情勢も。
決まりだな。
まあ、この本は机の上に一旦置いておいて、最後の一冊も見てみよう。
と思って、ふと本棚を見ると...本棚の奥に青い本によって隠されていた茶色の本が見つかった。4冊の本に隠されて外からはあることが一見分からないようになっている。それに他の本と違って文字の記号つまり「タイトルが表紙に無い」。
ほほう?これは、いかにも怪しい。
手に取って、ページをペラペラと見てみたら、大正解だった。
フハハハハ。
ハーッハッハッハ。
ワッハッハッハ。
おっと、思わず悪役の三段活用をやってしまった。この本はあれですよ、あれ。どうやらこの世界でも、男の考えることには大差ないらしい。妙なところで安心感がある。
父の弱みを一つ握れたし、ちょっと満足した。今日は、このギリシアっぽい絵がある青い本を持って、撤退することにしよう。なお、この男が家族から秘密にすべき本が母に見つからないよう、ちゃんと本たちの後ろに丁寧に戻しておいた。
ルイスの部屋から出た後は、ベッドにある父が作った玩具を押しのけて、本を広げて読むことにした。時間はいくらでもあるし、字は読めなくても、絵だけでも結構分かる部分があるはずだ。
読んでるうちに少しわかったことがあるギリシア風の都市がいくつかあり、地図上の記号と目次の見出しが対応しているように見える。同じ記号が使われている以上、ほぼ確実に都市名か地名だろう。つまり、大きなサイズで都市の名前が書いてある各章はおそらく各都市の紹介だろう。
文字はまだ読めない。だから、硬貨?を渡しあって、ニヤニヤしてるおっさんたちの絵が描いてあるこの都市がどんな都市なのかは分からない。でも、今までの人生経験と偏見で物を言うなら、ほぼ確実に商業都市だろうな。うん。もしくは賄賂が横行している都市か。
他にも、いろんな都市の説明がある。巻物のような布地らしきものが描かれている都市もある。おそらく織物か何かの産地なのだろう。
武器を作っているのか、もしくは輸入しているのか、おそらく武器商人の都市かスパルタみたいな軍事都市。それに、講壇に一人が立って、他の人たちが机で紙になにか書いてる絵がある都市もある。教育機関か、学問に関わる場所なのだろう。教育機関まであるなんて、中世にしては発展してる場所だ。実にギリシアっぽいな。
正直二度とポスドクの様な仕事に就くつもりはないけど、教育は受けたいな。特に魔法の授業は絶対に受けたい。それから世界史みたいな授業があるならそれも取りたいな。
なんて感じで本をペラペラ見ていたら、昼頃にも関わらず窓から霧が見えた。
父が帰ってきたのだ。
外出時に霧を出してるのは本当になぜなのだろう?
それも聞いてみたいな。
ま、まずは本を持ち出した件で怒られるだろうな...。




