第二話:新世界
「あーぶー(ママー)」
声を振り絞る。ピンチなのだ。何のピンチかといえば、単純に空腹である。
「あらあら、パウルちゃん。もうお腹が減ったの?」
「うー!(その通り)」
母エリスは少し呆れたように笑って、準備を始めた。
え、なに? 29歳の男がなにやってんだって?
仕方ないだろ、こうしないと腹が減った瞬間、本当に勝手に体が泣き出すのだ。熱いやかんに触れて思わず手を引っ込めるようなもので、自分の意思とはあまり関係がないのだ。
...いや、言い訳ではない。本当に必要なのである。
そんな赤ん坊の生理現象はさておき、俺がこの世に生まれて(転生して)から多分数か月ぐらい経過したと思う。カレンダーとか時計がないから、正確には分からない。それに、そもそも数か月という概念そのものがこの世界に存在しているのかすら分からない。
地球時間でどれくらい経ったのかは分からないし、それを測る道具もない。
これからは、この世界の暦や長さの単位を覚えて、それを基準に考えていくしかなさそうだ。
あの不気味な緑色の太陽は健在だ。とは言ってもそんなことは最初の時に驚いて以来慣れた。この両親が何を喋っているのか、言語という差し迫った問題の方が大切だったのだ。英語もまともに喋れなかったから絶望的だと思っていたのだが、体が幼いからなのか案外あっさり分かるようになった。
幼い時期は言語学を覚える能力が高い、っていうのを調べた科学雑誌を昔読んだことがある。あれはもしかすると、本当だったのかも。まだ喋れないけど。
ちなみに、自分の名前は、「パウル」らしい。母の名前はエリス。父はルイス。そして、姉の名前は、マリーらしい。いかにも、って感じだな。
それよりも、この新世界で初めてのビックニュースがある。
そう!あれが使えるのだ!転生お決まりのあれだ!
「魔法」使えるっぽい!
生まれた当初の数日は、家の造りや衣服、外の景色を見た限り、ここはほぼ間違いなく中世ヨーロッパ風の農村だと確信した。
そして、その予想される生活水準の低さに絶望していた。なにしろ、中世に転生して活躍するなんて夢物語だ。中世はそんな甘い世界じゃない。
実際の中世なんて、飢えと戦争と疫病に支配された現代人からすると悪夢のような場所なのだ。
しかし、そんな絶望の中しばらくして、魔法が使えると知った時の感激と言ったらもう素晴らしい。
ある日、エリスに抱かれて台所へ行ったときだった。
さっきまで空だった鍋に彼女が手をかざす。すると次の瞬間、何もなかったはずの鍋の底に水が現れ、あっという間に溜まっていった。言っておくが、水道はないし、もしあるなら蛇口をひねる必要があるだろう。今のところ抱っこされて見た限り、この家に水道、ガス、電気の類は全くないのだ。
つまり、どう考えてもエリスは魔法が使えるのだ!少なくとも水を生成する魔法を。しかもそれが生活の一部のようだ。
もちろん、エリスが凄腕の手品師の可能性も...ってそれは、ないな、うん。
それに、父ルイスもおそらく何かしらの魔法を使っていると思う。理由はまだ分からないが、外に出たときの彼の周囲には、いつも霧のようなものが漂っているのだ。最初は、ただ朝霧が残っているだけかと思った(中世の村はどこだって霧ばかりだ)。
実際、朝に外を見るとこのあたりはかなり霧が濃い。だが、昼になって村の霧が晴れても、ルイスの近くにだけは白いモヤが残っていた。あれはたぶん、自然の霧ではない。タバコでもやってるのかと思ったのだが、家でそんなのをしているのは見たことがないし、そんな悪臭もしない。
というか、帰ってくるとすぐに「ベロベロ バー!ぱぱでちゅよ〜」とか言って急に俺を抱えるので大変めんどうくさい。そういう時はすぐに大泣きして、母エリスに助けを求めることにしている。
ちなみに、その手を使った時エリスがルイスに怒ってて、あの怒声はちびりそうだった。母は強いし怖い。
異世界でも変わらない不変のルールは物理法則じゃなくて母親の強さかも。
青い顔をしながら謝っているルイスを横目に自分は同じ過ちを起こさないと心に深く刻んだ。
で、本題の魔法に戻ろう。
魔素は、なんとなくだが、「感じる」ことができてると思う。見ることはできないが、体や空気になんか違和感を感じるし、多分この違和感が魔素だと思う。おそらく。
最初は、空気の組成が地球と違うせいで感じる違和感かとも思った。だが、この世界には人間そっくりの生物がいて、暮らしぶりも中世ヨーロッパにかなり近い。そこまで似ているのなら、呼吸可能な空気の条件まで極端に外れているとは考えにくい。もし違うなら、人間とはかけ離れた見た目のETみたいなエイリアンのママとパパがお迎えに来てたはずだ。
話がまた脱線したから元に戻ろう。結論として、魔素はなんとなく違和感として感じることができるし、体の中の違和感を移動させることができた...気がする。ただ、まだ魔法らしいことは出来てない。体の中で手に集めてみたりお腹あたりに集めてみたりしても、ただそれだけだ。
何かが足りていないのだろう。でも暇な赤ん坊で出来ることがないので、何度も体の中で移動させたり外に出したりして遊んでいる。やればやるほど、体の中の魔素らしきものが増えている感じがするし、しばらくはこの体内の魔素を移動させたりすることで暇を潰そう。マジで誰かスマホかパソコンを持ってきてほしい。暇すぎてやることがないのだ。ネット〇リックスでも見たいよ。
それから、一つよく考えて決めたことがある。
自分が転生者であるという事実。
この事は、この世界の状況を知るまで絶対に秘密にしよう。絶対にだ。
今後数か月もすれば体も発達したら少しずつ喋れるようになるだろう。
しかし、自分はこの世界を何も知らない。
もし、この世界に「転生してきた子供は不吉だから殺す」みたいな文化があったらどうする?
地球ですら、近代以前には双子を不吉だとして片方を捨てるような話が普通にあったはずだ。
この異世界が、個人の権利をきちんと守るような甘い現代社会と同じである保証はどこにもない。
「僕は転生者です」なんて馬鹿正直に名乗るのは危険すぎる。
もし転生者であることを口にして、国とか軍に捕まったら最悪だ。異世界の知識を吐かせるための便利な奴隷として扱われるかもしれない。そうでなくても、「珍しい子供だから高く売れる」と考える盗賊がいてもおかしくない。あくまで可能性だが、可能性だからと危険を無視するのは賢いやり方ではない。
今のところ、観察できる限りでは我らが現代社会の先進的な知識を取り入れた世界には見えない。自分の懸念は、ただの杞憂の可能性も高い。でも万が一ということを考えてね。自分で自分の事を守れるような年齢になるまでは黙ってた方が良い。
そんなことを考えながらお乳を吸っていた。
「はい、パウルちゃん、もうおしまいだよ~。」
と母エリスからの無慈悲な宣告が?!そんな!
「ぶ~ぶ~(え~もう?)」
と抗議の目を向けてみた。が、抵抗はむなしく終わる。
「もうおしまい!ママ洗濯物終わってないの!」
とエリスによって自分は赤ん坊用のベットに戻されてしまった。そんな!!ああ...せっかくの至福の時間が終わってしまった(泣)。
え?やっぱり楽しんでないか?だって?
そりゃ楽しむよ!だって、ほかになんの娯楽もないのだ!ごはんとトイレの時以外、考えたり体の中の魔素をいじくったりする以外にやれることないんだよ!暇すぎるのだ。
玩具らしきものなら一応ある。父ルイスが土魔法で作ってくれたらしい、立方体の石だ。ただ、あの人は赤ん坊の筋力をだいぶ過大評価していると思う。あんなもの、重すぎて持ち上げられないし、転がすのも難しい。そもそも赤ん坊に石を渡すのは危なくないのだろうか。
にしても、やれることがないのは大問題だな。せめて本の1冊でもあればいいのだが今なら、普段なら絶対に読まないような退屈な政治学の本ですら、言語を学べるし暇つぶしになるから大歓迎だ。実際、本棚っぽいのがこの家にあるのは確認済みだ。
問題は場所だ。ルイスの書斎にあるから、両親の目を盗んで読むのも厳しいだろう。それにもし部屋にこっそり入れても、本棚の中だから今の身長だと絶対手が届かない。
喋れるようになるまでは何もできないだろう。昨日ようやくハイハイに挑戦して頭を床にぶつけた段階なのだ。まだ早い。
ハイハイも出来ない赤ん坊の状態だけど、外に出たことも2回ある。1回目は教会らしき建物で、聖職者らしい男が何か話していた。2回目は、エリスに抱かれて村の人々のところを回ったときだ。おそらく自分の紹介でもしていたのだろうが、その頃はまだ言葉がほとんど分からなかった。
ああ、その時は娘(というか自分から見た姉)も一緒に付いてきてた。
うちの姉マリーなんだけど、赤ん坊の手伝いは殆どしていない。その代わり、父ルイスと共に朝からどこかに行っている。どこへ行っているのかは分からない。ただ、二人はいつも昼頃に戻ってきて、そのたびに疲れた顔をしている。手には銅貨や銀貨らしき袋、時には野菜や干し肉まである。どうやら何かしらの仕事をしているらしい。ルイスも、さすがに無職というわけではないだろう。何の仕事だろうか?
ルイスの体は、服の上からでもかなり引き締まっているように見える。しかし、農家って感じはしない。もしそうなら、昼頃に帰ってくるのは舐めプすぎるし、手とか足が泥で汚れてるとかありそうなものだ。
それに家の綺麗さというのだろうか?経済力は見た感じ、この村の中だと、ここが一番高いように感じた。もしかすると村長とかそんなところかもな。
定期的にいろんな人が家を訪れてエリスがにこやかな笑顔で対応してるし、その時の人の顔というか態度のあの感じは立場が上の人に対するそれだと思う。なんとなくだけど。
それにだ!この家には、なんと地下室があるのだ。最初エリスに連れられて、地下室に入ったときはびっくりした。まさか、中世の時代に農村の家に地下室があるとは思わないだろう?干し肉やジャガイモが大量に置かれた貯蔵部屋と10人ぐらいが入れそうな部屋が一つ。食料の保存庫はわかるんだけど、もう一つの部屋はなんのためなんだろうか。不思議だ。
...暇な赤ん坊(自分)からすればどうでもいい事か。暇すぎ。
あ~、そんなことより、切実に地球で連載中だった漫画の続きを見たいなぁ。
そんなことをダラダラ考えていたら、気が付いた時には寝てしまっていた。




