第一話:アテオリア
203X年 京都:
我ながら、地味な人生を送ってきたと思う。小学校のころから碌に友人もできず、結局は勉強くらいしかやることがなかった。おかげで大学だけは京〇大学に入れたから、親は喜んでいたけれど。
大学院生になっても、研究室の同僚くらいとしか繋がりがない。しかも、彼らはとっくに就職してこの場所からオサラバしている。なのに、自分は就活から逃げてポスドクという名の「暇人」に収まっている。
ポスドクなんて給料は雀の涙だし、正直、必死に就活でもした方が良かったのだろうか? 何でもかんでもポスドクを失敗の元凶にするのは違うかもしれないが、29にもなって彼女ができたことはない。いや、一応友達に紹介してもらったりもしたんだよ?でも、物理学を専攻するような理系院生の陰キャを欲しがる女性なんて、この世に居ないみたいだ。ちくしょうめ。
いや、もちろん本当の原因は分かってる。自分が話題にできるのは、最近読んだ論文の話か、あとはガ〇ダムとかアニメの話くらいなものだ。西川先輩なんて、同じ研究室なのに他大学の女子をとっかえひっかえしていた。(所属する大学には女子が少ないので、他大学を狙うのだ)。今横を通り過ぎた飲み屋も、先輩がよく「狩場」として使っていた場所だ。先輩にはテクニックを教わったのに、俺は結局彼女ができないまま。笑われてたなぁ。
「中嶋、お前いつも俺に聞いてくるくせして、合コンの時だけはヘタレに戻っちまうのどうにかしろよ。そんなんじゃ、いつまで経ってもDTのまんまだぜ?」
西川先輩って、いつも余計な一言が多い。原因は自分にあるとはいえ、納得はいかない。
さっきから、なんでこんな陰鬱なことを考えてるのかって? それは、これからその院生時代の知り合い皆で飲むからだ。
今は研究室から自転車で、待ち合わせの店へ向かっている。乗っているのは大学時代に買った古い相棒で、もう11年になる。なぜ買い替えないのか? ポスドクの経済力とは、つまりそういうことだ。この相棒も経年劣化なのか、走るたびに「ギー」とか「ガリガリ」とか変な音を立てる。軋む自転車にまたがっていると、社会に出たみんなが一段上の生き物に見えてくる。
去年会った時なんて、トレーダーになった同い年の根本は、ポルシェを乗り回して純金のネックレスをつけていたしな。そう、物理的にも根本は輝いているのだ。まさか、ゴールド〇ン・〇ックスに行って、純金のネックレスをつけるようになるとは思わなかったよ。
「キーー」
ブレーキが甲高い音を出す。赤信号だ。待ち合わせの店まであと5分か。現在時刻は7時。少し遅れるが、まあ許してもらおう。スマホを取り出して、「悪い。5分遅れるわ」と送っておく。
それにしても、院生時代は誰より頭が切れた根本が、私生活の知性だけは研究室に置いてきたような生活をしているとは。小馬鹿にしても、内心はめちゃくちゃ羨ましい。根本以外も、清水はゼネコンに、樋口はメーカーの技術職に就職した。
その一方で、自分は研究室に籠り、教授のやりたい実験の記録を整理し、本来関係ないはずの授業の準備までやらされている。おかげで自分の研究はまるで進んでいない。去年一枚論文を書いたぐらいで、それも全く評価されていない。学会で引用されたりしなければ、どんな論文であっても評価されないのだ。ちなみに、内容は、マクロスケールで強い相互作用物質を作るために、電磁気力をどう相殺するか。その内部メカニズム構築の理論研究で、原理法則を書いて発表した後、なにも進んでいない。ポスドク期間中に成果が出るのか、怪しいものだ。
昔は皆も同じように自転車に乗って、寮と研究所を行き来していたはずなのに。一体どこで差がついたのやら。
信号が青に変わる。
軋む相棒と一緒に横断歩道へ出た、そのときだった。
反対側の歩道にいた男性が、こちらを見て不自然に立ち止まっている。目を見開き、何か叫ぼうとしている顔。いくら自分の自転車が変な音を立てているからって、そんな顔をすることはないだろう。そう思った瞬間、視界の端に白い車体が滑り込んだ。
トラックだ。しかも、異様に速い。赤信号をまったく減速せずに、こっちに突き進んでいる。
まずい?!
そう思ったときにはもう遅かった。
世界が横から殴りつけられるような感覚。重い衝撃音が響き、視界が裏返る。
そこで、俺の意識は途切れた
暗い。
ひたすら暗い。
目を開けているのか閉じているのかも分からない。
何か声がする。遠くで反響していたそれが、少しずつ近づいてくる。
女の声、だと思う。言葉までは聞き取れない。
...事故のあと、意識だけ戻ったのか?最悪、植物状態というやつかもしれない。
なんで女性の声が?
...いや、まさか彼女という線はないだろうな。
もしそうなら、トラックにぶつかる直前に走馬灯のように思い出すはずだ。誠に残念ながらそんな走馬灯は見てない。となると、看護師か母親か、そのあたりだろう。
それにしても、おかしい。
体がひどく遠いような感覚だ。手足の位置も分からないし、力を入れているつもりなのに、何ひとつ動く実感がない。
本当に植物状態なのかもしれない。
なのに、さっきから自分が泣いているような感覚だけはある。喉の奥が震えて、息が途切れて、勝手にしゃくり上げているような ―― あの感じだ。
いやいやいや。もう子供じゃないんだから、そんなことはない。しかし、気のせいだと思えないぐらい本気の泣き方をしているような感覚だ。
こんなふうに泣いた記憶なんて、研究室で100万円くらいする実験器具を壊したとき以来だ(教授ごめんなさい)。
いや、昔話はどうでもいい。
とにかく目を開けたい。ここがどこで、事故からどれだけ経ったのか確認しないと話にならない。
しかし、そうしたいのに瞼が異様に重い。全力で瞼を開けようと努力する。
開けぇぇえぇ。
少しだけ瞼が開いた。すると、自分を抱いている優しそうな女性と傍から俺を覗き見ているにこやかな男が見えた。
...おかしい。
まず、距離感が変だ。女性の顔が近すぎる。
それに、その女性はどう見ても大人なのに、なぜか29歳の俺を軽々と抱いている。まるで赤子でも抱くみたいに。
傍で覗き込んでいる男もいる。二人とも日本人離れした、というより完全に欧州系の顔立ちだった。
少なくとも中嶋家の親戚ではない。
これは、もしかして。ふと、荒唐無稽な言葉が頭をよぎる。
転生、というやつなのか。
冗談だろ?!
一応自分、現代物理学を専攻していた人間なんですけど。そんなオカルトじみた現象はあり得ない。
部屋の様子も病院とはまるで違った。
白い壁も機械音も消毒液の匂いもない。木の梁と壁、粗い布、差し込む自然光。
どう見ても民家の一室だ。
しかも視界の端には、助産師らしい女と、小さな女の子までいる。
日本の病院で見る光景ではない。というか、どこの現代病院でもないだろう。
周りをもっと確認しようと、さらに目を開こうとして、思わず顔をしかめた。
眩しい。窓から差し込む光が、容赦なく目に刺さる。
その光に慣れようとして、何気なく窓の外へ視線を向けた。
そして、俺は思考を停止させた。窓の外にあるはずのものが、一つ多い。
確かに、窓の外の景色には、絶対に一つは欲しい。しかし、それ以上の個数は不要なもの。
...太陽が、二つある。
片方は太陽だった。見慣れた、眩しい恒星の光。
問題はもう片方だ。緑色をしていた。質の悪い冗談みたいな色だ。見慣れた太陽よりも薄暗いように感じるが、確かに緑色だ。
少なくとも、現代物理学で説明可能な恒星の色ではない。あり得ない。
一つだけ確実に言えることがある。
ここは地球ではない。
いや、それどころか、自分が知っている宇宙ですらない可能性が高い。
ここはおそらく、自分のよく知る宇宙とは別のどこかにある、二つの恒星を持つ星系の惑星だ。
しかも、そのうちの片方は現代物理学では到底説明不可能な緑色をしている。
自分は、現代文明と全く異なる世界に赤子として迷い込んでしまったのだ。
現在公開可能な情報1:
現代物理学に従うならば、恒星の光が緑色に見える恒星は存在し得ない
(より正確には緑の波長がメインスペクトルになっている恒星は存在しない)。
現在公開可能な情報2:
主人公が転生し生まれた惑星はp型軌道(circumbinary planet)と呼ばれる軌道で公転している。




