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第13話:姉との別れ

 


 ラウターから帰ってきてから、あっという間に1年が経過した。


 帰ってきてからの日々も、忙しかった。

 缶詰の製造方法の整理。

 ジェームズ伯父さんから追加で送られてきた質問への返答。

 さらには毎日続く魔法訓練。

 そして、レールガンの研究も継続した。

 そのおかげで、今では製造する全てのレールガンは15発ぐらい撃てるようになった。今ではちゃんとレールガンと呼べるだけの武器になったと思う。ちなみに、壊れたら、溶かしてもう一回レールガンのパーツに戻してリサイクルしている。

 アルベルトもレールガンの扱いが上達して、1kmぐらい離れた場所にいる動物でも仕留めたりしている。というか、エイム力では自分よりアルベルトの方が高い。ただ、イメージの明確さや魔力量の違いから、最大威力に関しては、自分の方が上だ。


 レールガンの扱い以外にも魔法訓練は続け、かなり上達した。霧の魔法はもはや無意識的にオンオフができるし、レーザー魔法や基礎的な魔法に関しても発動がかなり早くなった。おかげで、最近はアルベルトとの練習でも、一発取ったりするのが増えてきているのだ。

 ただ、もうルイスやコーシーが教えられるような魔法は一通りやってしまったのもあり、訓練も単調だ(とか言ってる癖して勝てたことは一度もない)。そこで、自分とアルベルトは考えた。森へ行こう、と。

 もちろん、遊びに行くわけではない。

 魔法を実戦で使う練習がしたい。レールガンや土魔法や風魔法を、ただ庭で撃ったり動かしたりするのではなく、動く相手にどう使うのかを試したい。そして、アルベルトも獣の魔法を使った実戦訓練がしたいのだ。

 いや、少しは遊びの気持ちもあるよ?前世では研究室とコンビニと安い居酒屋しか行動範囲がなかった自分にとって、森で狩りなんてちょっと面白そうである。現世ではそういうの行くのをめんどくさがって研究室に縛られてたわけで、異なる世界に来てまでそこに執着する必要もない。


 というわけで、ある日の朝。俺とアルベルトは、ルイスとコーシーの前に並んだ。


「父さん、森に行きたいです」


 俺がそう言うと、ルイスは手に持っていた木刀を地面に置く。


「森?」

「はい。アルベルトと一緒に。狩りの練習をしたいんです」


 ルイスはすぐには答えなかった。隣のコーシーも黙っている。


「狩りか」


 ルイスは嫌なのか嬉しいのかよく分からない微妙な顔をしている。察しの悪い自分にはどっちなのか分からない。


「遊び半分なら駄目だ」

「遊び半分じゃないですよ」

「本当か?」

「...三割ぐらいは遊びです」


 アルベルトは正直に言った(ゲロった)


「正直でよろしい」


 ルイスが苦笑していると、アルベルトが横で小さくガッツポーズの拳を握っている。おい、まだ許可は出てないぞ。


「アルベルト」


 コーシーは息子(アルベルト)の名を呼んだ。


「はい」

「森は訓練場じゃない」

「はい」

「獣は待ってくれない。魔獣ならなおさらだ」

「はい」

「勝てる相手だけを相手にしろ。迷ったら逃げろ。それからしばらくは私たち二人も同伴する。いいな?」

「はい!」


 元気よく返事するアルベルト。ルイスも俺を見る。


「パウル。火だけは使うな」

「分かってますよ」

「絶対にだ」

「だから、分かってますよ」

「森で火を使って山火事になったら、村ごと燃えるぞ」

「その時は水の魔法と土の魔法で消しますよ」

「山火事を舐めてるな、パウル」


 ルイスが若干呆れつつも笑っていた。自分ってそんなに信頼できないかな?まあ、きっとただ単純に心配しているだけか。


「日が傾く前に帰ってこい。あと、レールガンは耐久性のことを考えると、あんまり頻繁に使わない方が良い。狩りで獲物をしとめる時と命を守る時だけ使いなさい」


 そんなわけで、いくつもの条件付きで、自分たちは森へ入る許可をもらった。最初の半年ほどは、ルイスとコーシーも一緒だったので、俺たちは森の歩き方を教わった。音を立てすぎないこと。風向きを見ること。足跡を見ること。獣の糞を見て、どのくらい前に通ったのかを考えること。

 物理学者だった自分にとっては、こういう観察自体は嫌いではなかった。むしろ面白い。

 自然から多くの証拠を集め、狩りを行うためのチャンスを集める。もしかすると、狩猟時代の人々は現代人が想像しているよりもずっと科学的な思考を持っていたのかもしれない。


 そして、森に慣れてきたころ、自分たちは二人だけで森の浅い場所に入ることを許された。


 その日も、自分とアルベルトは朝から森へ向かった。持っているのは長い槍と小刀、それから最低限の荷物。自分はレールガン用の小さな金属弾も持っているが、使うつもりはなかった。

 今回は、なるべく土魔法と風魔法、それからアルベルトの獣の魔法で狩りをするつもりだった。


 森の中は涼しかった。朝露が草に残り、足元を濡らす。鳥の声が聞こえる。

 遠くで微かに枝が折れる音がした。アルベルトがすぐにそちらを向く。


「いた」

「見えたの?」

「いや、匂い」


 獣の魔法の「超嗅覚」は便利だ。自分は獣の魔法を全く使えないので、羨ましい限りである。

 一応自分だって魔力探知がある。しかもその範囲は魔法の扱いが上達するごとに広がっており、今では1km以上先でも魔力を感知できる。ただ周囲の魔素を感知できるといっても、大気中より濃い魔力でないと、そこに人や動物がいるかどうかは分からないのだ。

 普通の獣や小型の魔獣は空気中と体内の魔素密度が大して変わらないので、魔力感知では判別不能なのだ。エリックお祖父ちゃんやルイスみたいに明確に大きい魔力量なら1km先でも絶対分かるのだが、流石にそんな魔物はこの森には居ない。もし居たら速攻で逃げる所存だ。

 え、ビビらずに戦えって? いやいや。ここは漫画じゃないのだから、勘弁してほしい。森に居る強い魔物をただ討伐するためだけに命を懸けるなんて馬鹿な事をする必要はないのだ。

 そう考えると、マジで冒険者とかギルドが如何にファンタジーかがよく分かる。村や畑を襲ってこない限り、魔物なんて放置しておくに限るのだ(毛皮とか象牙のようにお金になる獣なら別なんだろうけど)。


 アルベルトは合図をして姿勢を低くした。俺も同じく屈んで歩く。少し進むと、木々の間に黒っぽい影が見えた。イノシシに似ている。ただ、普通のイノシシより一回り大きい。牙も長い。この世界の動物は、全体的に地球より少し物騒だと思う。いや、地球のイノシシも普通に物騒だったんだろうけど。


「あれが、突っ込んできたら止められるか?」


 アルベルトが小声で聞いてくる。


「泥沼ならたぶんできる」


 いつでも泥沼に変えられるように、自分は地面に手を向けた。

 僅かに音がしてしまったのか、イノシシもどきがこちらに気づいた。

 鼻を鳴らし、地面を蹴る。


「アルベルト!」

「分かってる!」


 イノシシもどきが突っ込んできた。速い。地球のテレビで見たイノシシより速い気がする。

 俺はその進路上の地面を一気に泥に変えた。前脚が沈む。

 巨体がつんのめった。沼にはまって、身動きが取れなくなったようだ。その瞬間、アルベルトが横から飛び出した。

 体が一瞬だけ大きく見えた。獣の魔法による身体強化。足音が重く、速い。

 俺が瞬きする間に、アルベルトはイノシシもどきの側面へ回り込むことで、泥沼を回避しつつ、短槍を首元へ突き刺した。「ドッシュ」と鈍い音がして、イノシシもどきが崩れる。


「...泥沼いらなかったのでは?」

「いや、助かったぞ。止まってたから狙いやすかったしな」


 アルベルトはそう言いながらワクワクした顔で、イノシシもどきが息絶えたかを確認する。


「パウルは後ろから止める。俺が前に出る。これ、いいな」

「分かりやすく作戦名でも付けたら?」

「どろどろ作戦」

「却下」

「じゃあ、沼で止めて刺す作戦」

「さっきから、そのまますぎるだろ?! というか長いし、ダサいよ」


 今日の教訓は、イノシシのことよりも、「アルベルトに命名を任せてはいけない」だな。ダサすぎる。とか言ってる自分も、人のことは言えず、命名するのは下手な方だけどね。


 その後も、何度か森に入った。レールガンを使った狩りも成功した。数百メートル先に居る魔物に向かって撃つのだ。最初は結構外してばかりだったが、何十回もやってたら流石にできるようになった。

 もちろん、毎回うまくいったわけではない。泥沼を作る位置を間違えて、俺自身の足がはまったこともある。アルベルトに引っ張り出された。かなり爆笑していたし、エリス母さんにはめちゃくちゃに怒られたしで良いこと無しだ。次の日、アルベルトが泥沼の穴に落ちた時は、ちゃんと笑い返してあげた。友情とは、こういうものである。


 森での訓練と並行して、俺たちは教会にも通うようになった。目的は回復魔法と結界魔法だ。教えてくれたのは、ラインハルトさんだった。あの人は、ピルナ村のラレース教の牧師で、いつも穏やかな笑顔をしている人だ。

 日本に居ると宗教は胡散臭いイメージしかなかったけど、ラインハルトさんは純粋に優しい穏やかな人だった。地球社会における中世前の宗教っていうのは、案外こういう人がやってたから、栄えたし人が集まったのかもしれない。それでも、別にラレース教が正しいとは一ミリも思わないけどな!

 宗教の話はさておき、ラインハルトさんは、数年間も文字を教えてくれた人で、本当に感謝してもしきれない。彼の授業のおかげでこの世界の情報であるギリシア探検記や世界大戦史とか、ラレース教の聖書なんかも読めたのだから。ラレース教の聖書に関しては、絵空事のような神話とか、非現実的な話ばっかりで、退屈だったけどね。

 一年ぐらい前にはもう文字の勉強が終わってしまっていたのだが、まさかラインハルトさんから魔法を習う日が来るとは驚きである。

 教会の小部屋には、自分、アルベルト、そして姉のマリーがいた。


「私も受けるわ」


 マリーは、自分とアルベルトがラインハルトさんのところで授業を受けると聞いて、当然のように言った。


「マリー姉さんも?」

「当たり前でしょ。パウルとアルベルトだけ新しい魔法を習うなんてずるいじゃない」


 姉は、こういうところで負けず嫌いだ。そして実際、マリーは器用だった。水も風も土もそれなりに使えているし、雷の魔法も母エリスからしっかり習得したらしく、レールガンも実は撃てる。自分も人のことは言えないけど、十歳ぐらいの少女がレールガンをぶっ放すのを見るのはかなりシュールな絵だった。


 ラインハルトさんは、俺たち三人の前に座り、説明を始めた。


「回復魔法は、便利な魔法です。ですが、万能ではありません」


 ラインハルトさんは、ナイフで自分の指先に小さな傷を作った。本当に小さい傷だ。そこに手をかざすと、淡い光が生まれた。しばらくして、血が止まり、傷が消える。


「軽い切り傷なら、このように治せます」

「すごい!」


 アルベルトが素直に声を上げる。マリーも興味深そうに見ている。俺もびっくりだ。まさか本当に回復魔法があるとはね。いや、まあ、魔法の世界なんだから薄々察していたけどね。


「どれくらいの怪我なら治せるんですか?例えば足が骨折したとして直せるんですか?」


 さっそく質問をすると、ラインハルトさんは首を横に振った。


「難しいですね。私でも、骨のひび割れを治癒できる程度です。腕や脚の大きな骨折、大きな傷となると、凄腕の回復師であっても不可能なようです。少なくとも王都に私より回復魔術が上手な人間は片手で数えるほどでしたし、彼らも腕を失った患者さんの治癒には失敗していました」


 ...残念ながら、回復魔法は便利だが、万能薬ではない、ということらしい。軽い切り傷なら治せる。少し深い傷なら、止血や補助にはなるのだろう。

 でも、大怪我を治すには、高度な知識とイメージが必要になるはずだ。人体は複雑だ。軽い怪我で、皮膚を少し塞ぐだけなら、「元通りの皮膚」をイメージすれば成功するのかもしれない。

 だが、骨や臓器は違う。血管も神経も筋肉も複雑だ。骨の周囲には血管があり、神経があり、筋肉があり、腱があり、靭帯がある。その全部を正確に理解し、正確に戻すイメージなんて到底不可能だろう。

 前世で多少生物を習った自分でもイメージするのは厳しい。


「...また、回復魔法は軽傷に対しては役立ちますが、病に対しては、効果がありません」


 ラインハルトさんは残念そうに話をつづけた。


「なんで、病に対しては回復魔法は役に立たないんですか?」


 アルベルトが不思議そうに質問する。


「いい質問ですね。実は、その原因ははっきりとは分かっていません。また、回復魔法を病気に対して応用しようとする試みはナーイアスによって魔法が作られてから1000年の間行われてきましたが、今日になっても成功した事例はありません。」


 文字を習っていた際に知ったのだが、この世界の人たちは病原菌を理解していない。病気の原因は瘴気や悪霊と考えている人が多いようだ。それゆえに、この世界の人々が持つ、衛生に関する理解度はお察しである。

 当然あまりにも物理学的にかけ離れた理解度では、「正しいイメージがなければ、魔法が発動しない」という魔法の原則から考えて、回復魔法が病気に対して発動するはずがない。予想通りである。

 唯一謎なのは、魔族エドワードがなぜ生物学に関する事実を広めなかったのかという点だ。彼なら絶対知っていたはずだ。病気の原因とは細菌やウイルスによる感染であり、瘴気やら悪霊ではないということを。ありそうな説は、広めようとして全く信じてもらえず、説得するのを諦めたってところではないだろうか?そして、世界大戦に...?みたいな?あくまで自分で考えた妄想だけど案外当たってたりするんじゃなかろうか。


 話が脱線したけど、大けがを直せなかったり、病気を治せない回復魔法でも、便利であることに変わりはない。なにしろ、この時代は「軽傷」で死ぬことが山ほどあるのだ。回復魔法に関する簡単な講義の後は、ラインハルトさんと一緒に回復魔法の訓練が始まった。


 数週間かけて練習し、アルベルトも自分もマリーも切り傷くらいなら直せるようになった。ま、切り傷以上の傷なんてけが人がやって来ないと、それ以上重いけがに対する回復練習ができないから、これ以上の上達も望めないのだが。

 おそらくこれも、回復魔法の発達を妨げているもう一つの要因だろう。魔法を習得するには当然練習しないといけないけど、重傷な人は珍しい上に、失敗したらあの世に行ってしまう。動物に対して練習するのもありだろうけど、動物の傷口の近くにいるというのは...あまりお勧めできない。疾病に感染するリスクもある訳だし、危険だからやれないわな。それに、動物と人間だと構造が違うから練習にもならないだろう。


 回復魔法の初歩ができるようになったあとは、次に結界魔法を習った。そして、これが一番意味不明だった。だって、結界だよ?意味不明でしょ。


「結界魔法は、ラレース・ヤヌス様が作られた守りの魔法です」


 ラインハルトさんは、いつもより少しだけ厳かな声で言った。


 ラレース・ヤヌス。


 ラレース教の開祖。

 世界で初めて結界魔法を作り、多くの都市を守ったとされる人物。教会で文字を習っていた頃から何度もその名を聞いていた。


 ラレース教では、ヤヌスは「境を定める者」と呼ばれているらしい。


 境を定める者。

 結界魔法。


 なんというか、あまりにもそのまますぎるのだが、いいのか宗教?!と授業中は思ったよ。もしかすると開祖ヤヌスも、アルベルトと一緒でネーミングセンスがなかったのかも。知らんけど。


「まずは、しっかり見てください」


 ラインハルトさんは右手を前に出した。


 ラインハルトさんは右手を前に出した。空気中の魔素が集まる。その動き自体は見慣れている。魔法を使う前には、魔素を集めて整える必要がある。霧でも水でも火でも土でも、それは変わらない。


 だが、次の瞬間、俺は眉をひそめた。


 ラインハルトさんの前に、薄い透明な膜のようなものが現れた。光が通っている。向こう側の祭壇も、壁も、窓から入る光も見える。

 けれど、そこに何かがあるのは分かった。結界(?)が、平面状に張られている。


「触ってみてください」


 言われるまま、俺は指を伸ばした。こつん、と指先が止まる。


「...壁だ」


 意味不明だが、透明なのに、確かに押し返される。

 板のようなものがある。だが、物質ではない。少なくとも、土魔法で作った薄い板ではないし、氷でもガラスでもない。


「これが結界です」


 ラインハルトさんは静かに言った。


「結界とは、壁を作る魔法ではありません」

「壁ではないんですか?」

「壁のように使うことはできます。ですが、ラレース・ヤヌス様は、結界を“境を定める魔法”と説かれました」

「境……?」

「はい。ここから先へ通してはならない。ここまでは守る。ここで受け止める。そのような境を、魔素に覚えさせるのです」


 意味が分からない。いや、言葉としては分かる。壁を作るのではなく、境界を作る。通してよい側と、通してはいけない側を決める。そういう一般的な概念を言っているのだろう。


 だが、物理としては何も分からない。


 境界とは何だ?

 その定義は?(こんなことを聞くから理系陰キャの大半は普通の人々に嫌われるのだ)

 物質ではない。

 温度でもない。

 圧力でもない。

 運動量でもない。


 境とは、人間が勝手に決める概念だ。そんなものは、自然界に最初から線が引かれているわけではない。人間が認識し、名前をつけ、区別しているだけだ。


 なのに、今、目の前の魔素は、その「境」を作っているように見える。


「ラレース・ヤヌス様は、こう教えられました」


 ラインハルトさんは誇らしそうに続けた。


「魔素は世界に満ちる神の息吹であり、同時に、人の心に応えるものだと。火を知る者には火が応え、水を知る者には水が応える。ですが結界は、より根本に近い魔法なのです」

「根本に近い?」

「人は、境を知っています。ここから先は危ない。ここまでは守りたい。これは内で、これは外である。そうした思いは、剣を持つ者にも、子を抱く母にも、老いた者にもあります」


 ラインハルトさんは再び透明な結界をそっと手の上に作り出した。


「だからラレース・ヤヌス様は、結界を作られたのです。強き者だけでなく、弱き者も守りに手を伸ばせるように」


 話がすり替えられて真面目に答えてないな。とはいえ、守るための魔法、ね。

 誰もが持つ「境」の感覚に応える魔法。剣を持つ者だけではなく、母や老人にも使える魔法。


 水の魔法を広めたナーイアスが信仰されたように、結界魔法を広めたヤヌスが信仰されたのも分かる。  

 安全な水と、安全な場所。

 どちらも、人が生きるためには必要だ。


 だが、自分の中の物理学者の部分は、全く納得していなかった。意味不明なんだもん。物理現象の再現は分かるとしても、これは...違いすぎる。

 そんな風に悩む自分を余所にアルベルトは質問をする。


「ラインハルト先生!これって誰でも使えるんですか?」

「門戸は誰にでも開かれています。ラレース教では、人は皆、等しく守られるべきものだと教えていますから。結界魔法もまた、身分や血筋によって閉ざされるものではありません」


 ラインハルトさんは嬉しそうに答えた。この人もラレース教の良いところをアピールするときは凄く嬉しそうだし、誇らしそうだ。牧師ってそういう人なんだろうね。純粋に神の教えを信じ、人々を導こうという決意があるのだろう。


「もちろん、強い結界を作るには魔力も鍛錬も必要です。大きな結界を長く維持するのは簡単ではありません。ですが、小さな結界を一瞬作るだけなら、多くの人が学べます。大切なのは、境をはっきりと意識することです」

「境を、はっきりと...?」

「はい。ここで止める。ここから先へ通さない。そう定めるのです」


 ラインハルトさんはもう一度、結界を作った。

 今度はさっきより小さい。手のひらほどの透明な板が、宙に浮いている。


「皆さんもやってみましょう」

「は、はい」


 俺は右手を前に出した。

 魔素を集める。ここまではいつも通りだ。

 問題は、その先だった。


 霧なら、細かい水滴が空気中に漂う様子を思い浮かべる。水なら、液体のまとまりを思い浮かべる。火なら、燃焼と熱を思い浮かべる。土なら、既にある土砂や鉱物を動かす。


 だが、結界は何をイメージすればいい?


 透明な壁?

 力場?

 空間の断絶?


 考えれば考えるほど分からない。


「硬く、破れず、ここから先へ通さない壁をイメージしてください」


 曖昧すぎるアドバイスだな。というか、さっきの壁じゃないって話と矛盾してるんじゃ...。

 いや、そう聞こえるだけで、たぶんラインハルトさんは真面目なつもりなのだろう。細かく考えすぎると獣の魔法や回復の魔法の時と同じことになる。一度、目を閉じて集中することにした。

 日本で何度も見たことのある神社の鳥居を思い出してみる。確かに、あの鳥居をまたぐのは、なんとなく境目だったように感じるのは事実だった。そこに壁はないが、壁のように、境目のように感じるあの感覚。


「...お?」


 思わず声が出た。自分では発動が成功した感じはしなかったのだ。

 しかし、まるであらかじめ掘られていた溝に水が流れ込むように魔素が勝手に形を取り始めた。

 薄い。小さい。頼りない。それでも、俺の目の前には透明な膜ができていた。ラインハルトさんの綺麗な正方形の結界と違って、歪な形をした膜に近いけど。


「できていますね。初めてでそれだけできれば十分です」

「こ、これって、どうなってるんですか?」

「結界です」

「いや、それは分かるんですけど、そういう事じゃなくて...」


 分からない。全く分からない。

 水や火の魔法とは違う。

 今までの魔法は、自分で魔素を整え、そこに物理的なイメージを乗せるというものだった。

 もちろん、完全に理解しているわけではない。それでも、自分が何をしようとしているのかは分かった。しかし、結界は根本的に違う。「ここから先へ通さない」と意識した瞬間、魔素の方が勝手に道を知っているように動いた。それは、自然現象を再現している感覚ではないし、そもそも結界なんて物理現象として意味が分からない。

 めっちゃ気持ち悪い。どういうこと?

 やっぱりこの世界って物理法則のなにかが地球と違うんだろうけど、まじでなにが違うんだ?

 今のところ、重力や加速度、エネルギー保存則は、前世と同じように成り立っている。例外は魔素だけだ。普段は物質と干渉しないくせに、意識して魔法を発動させようとした瞬間だけ、急に世界へ手を伸ばしてくる。

 この世界は意味不明だ。太陽は二つあるし、そのうち一つは絶対にありえない緑色だし、さらには魔法まである。なんなら結界まで作れる。

 こんな現象を論文で報告する機会がもしあっても、学会審査の同僚に気が狂ったと思われそうだ。もちろん、この世界にそんな論文を査定するジャーナルなんて存在しないのだが。


「パウル?」


 隣に居るアルベルトが不思議そうにこっちをみる。


「なんで、そんな考え込んだ顔してるんだ?」

「え、いや、結界魔法の原理が全く分からないから」

「何言ってんだ?魔法なら、いつものことじゃん!」

「そ、それは、そうだけどさ」


 ラインハルトさんは俺の困惑を理解したのか、少し誇らしそうに微笑んだ。


「結界魔法に初めて触れた人は、大抵、結界の原理を不思議に思います。私も若い頃に見た時は驚きました。ですが、ラレース・ヤヌス様はおっしゃいました!人のイメージが鮮明であれば、魔素は必ずそれに応える、と!そして、これこそがヤヌス様の偉業であり~」


 おっと、ラインハルトさん定番のありがたい演説が始まってしまった。もちろん、ラインハルトさんは、悪い人ではない。むしろ今まで会ってきた中でも、ダントツの善人である。ただ、こういう時の宣伝話だけが長いのだ。おそらく、本人はそれが宣伝文句だなんて考えてもいないのだろう。

 自分はそのありがたい演説を聞き流しながら思考の海に沈んだ。


 ラレース・ヤヌス。


 世界で初めて結界魔法を作り、宗教を打ち立て、都市を守り、守りの魔法を広めた。魔法の開祖であるナーイアスに次ぐ偉人。

 本当に結界魔法を一から作り上げたのだとしたら。彼は、魔素のことを深く理解していたのかもしれない。ただ感じることしか出来ない魔素のことを。

 もしかすると、結界魔法は、この魔素という謎の物質の独特な特徴なのかもしれない。原理は全く意味不明だけどな!

 そもそも魔素がなんなのかという疑問を脇に置けば、火や水や風や土の魔法は、まだ理解できる。自然現象を観察し、それを魔素で再現する。再現方法が非現実的であればあるほど、魔素はより多く消費される事実からも、発想としてはギリギリ分かる。

 だが、結界は違う。「境界」という人の意識が考え出す抽象概念を、魔素に再現させている。

 そんな魔法を作れる人間が、本当にこの世界に自然発生するだろうか?中世レベルの文明力しかないのに?

 ...いや、もう一つ可能性はある。なにせ、()()()()()()()1()0()0()()()にあった訳だしな。



 転生者である魔族エドワード。



 レーザー魔法と核攻撃魔法を作った、世界大戦の発端である魔族。あれは明らかに、この世界の技術水準から外れている。俺と同じ転生者なのではないか。そう疑うには十分すぎる存在だった。名前もまんまエドワード・テラーだし、秘術の名前に至っては、核攻撃の魔法だ。もう自分で「黒ですよ」と言ってるようなものだ。



 なら、ラレース・ヤヌスは?



 自分は、ラレース・ヤヌスなんていう物理学者は聞いたことがない。ただ単に自分が忘れているだけという可能性もあるし、なんなら()()()()()()()()()という説も、って、さすがに考えすぎか。



 歴史上の天才を誰でも彼でも転生者扱いするのは、陰謀論と変わらない。

 ナーイアスだって、水の魔法を作ったという時点で十分に意味不明な存在だ。

 ヤヌスだけを特別扱いする理由はない...はずだ。少なくとも今のところは。


「パウル、もっとちゃんとしなさいよ」


 考え事をしている俺を見てマリーが横で笑った。彼女の結界は、俺のギザギザで歪な結界と比べて、綺麗な長方形に近かった。


「マリー姉さんは、なんでそんなにできるの?」

「パウルが下手なだけじゃない?」

「いやぁ、うちの姉さんの言葉は鋭利だな」

「結界より刺さった?」

「かなり」


 アルベルトは横で笑っている。お前も俺と同じで全然できてないんだから、人のこと笑ってる場合じゃないだろと心の中でツッコミを入れておくとしよう。


 なんにせよ、困惑したり苦戦もしたが、結界魔法は面白かった。簡単な防御に使えるだけではない。足元に短く出せば、踏み台にもなる。剣に沿わせれば、刃を補助することもできる。

 ラインハルトさんは、


「結界魔法とは、身を守るための魔法です」


 と念を押していたが、実際の活用方法は明らかに別の方向(攻撃)を向いていた。

 というか、隣の大国であるローラン帝国は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()によって建国されたのだ。防御のために作られた結界魔法が、人殺しで使われるというのは皮肉だろう。とはいえ、この世界の魔法の発達方向は、いつもロクでもない方向ばっかりなので驚きは無い。

 実際、しばらくするとアルベルトは、結界を足場にして踏み込む練習を始めた。普通なら踏ん張れない位置で、強引に一歩を作る。そこから獣の魔法で身体強化して、一気に剣を振るう。実に凶悪な戦法である。


「アルベルト、それ人に向けてやるなよ?死んじゃう。」

「分かってる」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんはやめろ」


 コーシーがそれを見て、珍しく少しだけ笑っていた。

 ちなみに、コーシーもルイスも二人とも同じ事ができるらしい。なんで教えなかったんだよ!と思ったけど、結界魔法の話は確かにラインハルトさんの話し方が分かりやすかったし、この親二人は説明が下手なので、納得ではある。

 それから、実戦では敵対的な魔法使いの泥沼対策でルイスやコーシーは地面に結界を張ったりすることが多いらしい。だから、泥沼の有効さは非魔法使いや魔物相手に限定されているといつも口酸っぱく言われている。泥沼は泥沼に過ぎず、対人戦の妨害には全く使えない。

 要するに、俺が多用している妨害系の技は初歩過ぎて、コーシーやルイスには勝てないのだ。

 泥沼やレーザー魔法の例もそうだけど、この世界では、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。とは言っても、地球の現代社会だって、軍事技術は似たようなイタチごっこで発達したし、同じか。


 そうして、森と教会を行き来する日々が半年以上続いた。

 自分たちは少しずつできることを増やしていった。アルベルトは、足場として結界魔法を使いこなすことで魔術戦士らしくなった。マリーは、回復や結界や浄化のような魔法で俺たちより器用なところを見せた。俺も、二人と同じようにできることが増えた。個人的に気になったのは、結界魔法だ。今は魔法や物理的な攻撃を防御する結界しか学んでいないが、核攻撃に対応する核特化結界やほかにも色んな条件付与が出来るらしい。色んな条件が付与できるなら、実に便利というか物理実験に使えそうだから、ぜひ知りたいものだ。ラインハルトさんはそこまで習わなかったらしく、非常に残念である。



 そして、そんな日々の終わりは暫くしてやってきた。マリーが王都の学校へ行くためにピルナ村を去る日だ。

 そのこと自体は、前から聞いていた。スチュアート家の娘として、貴族の子女が通う学校で学ぶ(魔法学校ではない)。

 マリーは魔法もかなりできるのに、少しもったいないと思ったのだが、家の方針や立場というものがあるのだろう。

 それに、その学校でも魔法の授業はあるらしく、機会そのものがなくなる訳ではないようだ。マリーは魔法の授業を沢山取る!と息まいている。ま、自分は、就活から逃げてポスドクになったので、偉そうなことは何一つ言えないけど、頑張ってほしいところである。

 出発は明日だ。今日の夕方は村のみんなが集まって、マリーのお別れ会が開かれた。場所は村の広場だ。長い机が出され、パン、干し肉、煮込み料理、焼いた野菜、果物、酒が並ぶ。子供たちには薄めた果実水。大人たちは酒。マリーは主役として、自分たち家族と村の人たちに囲まれていた。


「王都に行っても元気でね」

「手紙を書いてね」

「変な貴族にいじめられたら言うんだよ」

「いや、マリーならいじめる側じゃないか?」

「誰がいじめる側よ!」



 マリーが怒ると、皆が笑った。マリーは少し頬をふくらませていた。少しご不満のようだ。


 それから、ご飯を食べてみんなでどんちゃん騒ぎだ。しばらくすると、なぜかブラックジャックが始まっていた。誰かが賭け事をしようとカードを持ってきたみたいだ。ラインハルトさんは『賭け事とはなんたる堕落!』とでも言いたげに呆れていたが、今日は止めるつもりはないようだ。カードがテーブルの上に広げられ、大人も子供も混じって遊び始めた。

 自分は最初、見るだけのつもりだった。しかし、パン屋の息子ディランに言われた。


「パウルもやろうぜ。頭良いんでしょ?」


 ふっ。愚かだな、ディランよ。ブラックジャックというのは確率のゲームだ。前世で物理学をやっていた俺にとって、期待値計算など児戯に等しい。ここは大人げなく勝たせてもらうとしよう!


「負けた時の言い訳は今考えとけよ、ディラン。見せてやるよ!」


 そういって、飛び入り参加することに。



 そして、負けた。普通に負けたよ。なぜだ?!...いや、うん。まあ、理由は分かっている。


 この村のローカルルールは現代社会のそれとかなり違うから、自分が知ってる最適なブラックジャックの戦略は正しくない。そもそも13(king)じゃなくて、15まであるから、その時点で話が違うし当然か...。

 あと、隣でアルベルトが「いけ! もう一枚!」とか言ってうるさかったし、アルベルトの分かりやすいリアクションで俺の手札が周りにバレるんだよ。

 てか、アルベルトの言う通りに引いたら普通にボーダー超えたんだが?


「パウル、弱い!」


 見物していたマリーが指をさして笑ってきた。


「違うって。これは統計的には正しい判断で~」

「でも、負けたんでしょ?」

「はい」

「じゃあ弱い」

「...はい」



 村のみんなも笑っていた。まあ、実際ローカルルールが違ったせいで確かに統計的に本当に正しい判断だったのか分からないし、アルベルトの余計なアドバイスにノリで従った時点で自分が悪いかも。


 その後、村の人たちが順番にマリーへ贈り物を渡し始めた。

 コーシーの妻ミキシーさんは、丁寧に編んだ肩掛けを渡した。



「寒い日もあるでしょう。使ってね」

「ありがとうございます、ミキシーさん」


 コーシーは、小さな護身用の綺麗な紋様が入っている短剣を渡した。


「使わないのが一番だがな。念のための用心だ」

「はい。ありがとうございます」


 ラインハルトさんは、小さなラレース教の護符を渡した。


「頑張ってください。開祖ヤヌス様も、きっと見守ってくださいます」


 マリーは素直に頭を下げた。自分は横で、神様が本当に見ているか怪しいもんだとは思ったけど、ラインハルトさんが思いやりで言ってるのは分かっているので何も言うつもりはなかった。ラインハルトさんは100%善意でこういうことをするのだから、流石牧師である。

 え?魔法があるんだし、神様も居るかもしれない?だって?馬鹿言うな。それならなんで、こんなに殺しのための魔法ばっかり開発されているのか、意味不明だよ。

 エリスとルイスはきれいに畳まれたドレス服をプレゼントしていた。

 ラウターの服屋で仕立てたドレス服なのだ。これから体が大きくなることを想定して少し大きめなのだが。ドレス服はこの世界だとめっちゃ高いだろうから、かなりの奮発だ。


「困ったら、すぐ手紙を書きなさい、マリー。強がらなくていいのよ?」

「分かってるわよ、ママ」


 マリーはそう言ったが、声は少し小さかった。やっぱり少し寂しいのだろうか?

 察しが悪い自分にはあんまり分からない。そんな自分は、マリーへ櫛を渡すことにした。


 自分が考えたにしては、オシャレなプレゼントでしょ?


 えー...白状するなら、エリスにマリーならこれが欲しがると教えてもらったのだ。正直、一体なにをあげるべきか分からなかったので、非常に助かった。エリスは立派な母親だ。困ったらプレゼントはなにが良いかは毎回エリスに聞こう。


「これ、僕から」

「ありがとうパウル。ってあれ?私がこの櫛欲しいって知ってたの?」

「え?も、もちろん」

「...その感じ、ママから教えて持ったのね」


 マリーは呆れて手を頭に当てている。


 バ、バレてる?


「ば、ばれた?」

「そんなのお見通しよ。でも、ありがとう」


 マリーは笑いながら櫛を受け取った。その声は、いつものマリーより少しだけ柔らかかった。俺は何か冗談を言おうとした。でも、やめておいた。喜んでくれているなら、バレたっていいさ。

 最後にエリスと弟のパーカーが一緒に手紙を渡した。「馬車の中で読んでね!」ということらしい。良いプレゼントだ。ただ、馬車の中でパーカーの汚くて元気の良い字を読むのに苦労するマリーの姿が目に浮かぶ。ま、自分もパーカーの字のことでとやかく言える立場じゃないけど。


 そうして、皆でプレゼントをマリーに渡してその夜はお開きとなった。あまりのプレゼントの多さにマリーでは持ちきれないのでルイスと自分の二人も家まで持って帰るのを手伝った。



 翌朝。

 まだ空が明るくなりきる前に、馬車が用意された。マリーとルイスが王都へ向かうのだ。

 ルイスは付き添いだ。王都まで一緒に行く四日間ぐらいの道のりらしい。ルイスほど強い魔法使いが護衛なら、安心だろう。盗賊が襲ってきても、()()()()()()()()()()()()は、目に見えている。

 馬車の前に立って持ち物を再度確認しているマリー。昨日の賑やかさが嘘のように、村は静かだった。それでも、街道に繋がるこの広場には多くの人が集まっていた。エリスはマリーを抱きしめた。長い抱擁だった。


「体に気をつけてね」

「うん、ママ」

「ちゃんと食べるのよ」

「うん」

「無理しないのよ」

「うん」

「変な男の子についていかないのよ」

「行かないわよ!もうママったら。過保護ね」


 村のみんなから少しだけ忍び笑いが起きた。でも、すぐに静かになった。次にマリーが俺の前に来た。


「パウル」

「うん」

「ちゃんとママの言うこと聞きなさいよ」

「それ、姉さんが言う?」

「言うわよ。あと、変な実験で家を壊さないこと」

「もちろん、努力するよ」

「努力じゃなくて、約束」

「...約束します」


 マリーは少しだけ微笑んだ。それから、小さい俺の頭を撫でた。年上(精神年齢は除外する)の姉に頭を撫でられるとはね。前世は一人っ子だったから、不思議な感覚だ。



「アルベルトと遊ぶのは良いけど、ヤンチャは程々にね」

「それはアルベルトに言って欲しいな」

「言い訳はなしよ」

「はい」


 反論できなかった。

 マリーは幼いパーカーにも「元気でね」と声をかけ、村のみんなに手を振った。そして馬車に乗った。ルイスが御者台に上がり、馬をむち打ち、馬車がゆっくり動き出した。車輪が土の道を軋ませる。

 マリーが窓から顔を出して、手を振った。村のみんなも自分も手を振った。

 馬車は少しずつ遠ざかっていく。やがて、馬車全体が小さくなった。

 そして、街道の向こうに消えた。

 誰かが小さく息を吐いた音が聞こえた。村は、いつもより少し広く感じた。

 マリーがいないだけで、こんなに静かになるのか。

 (おそらく寝坊のせいで)遅れてきた隣のアルベルトがぼそっと言った。


「...ブラックジャック、またやりたいな」

「負けた俺への嫌味か?」

「いや。楽しかったから」

「それは、確かにね」


 昨日は楽しかった。だからこそ少し寂しい。俺は馬車が消えた道を、しばらく見ていた。この世界に生まれてから、いろいろなことがあった。魔法を覚えた。本を読んだ。実験をした。ラウターへ行った。森で狩りもしている。

 でも、誰かが遠くへ行くのを見送るのは、これが初めてだった。前世の自分は、人と深く関わるのが苦手だった。別れが寂しいと思うほど、誰かと一緒にいたことも少なかった。もちろん、両親とは大学の寮に入るときに別居になったけど、実家は、特急電車に乗って30分で帰ることができる場所だった。なので、全く別れという感じはしなかった。だから、今回は少しだけ、戸惑った。

 家族が本当の意味で離れるというのは、こういう感じなのか。


「帰りましょうか」


 エリスが静かに言った。村の皆もパラパラと家に帰ってゆく。

 俺は、うなずいて三人で一緒に家に帰った。家に戻ると、いつもなら真っ先に聞こえるマリーの声がなかった。それだけで、家の中が少し広くなったように感じた。昨日まで当たり前だったものが、今日から当たり前ではなくなる。


 たぶんこれが、別れというものなのだろう。

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