知っていた目
森の奥で、叫び声と、鈍い衝撃音が響いていた。
骨の砕ける音、札が焼ける音、血のような霧。
だが、主人公にはそのすべてが遠く感じた。
彼女はただ、逃げなければという一心で走っていた。
「いやだ……ここにいたら――」
後ろで何かが爆ぜた。
反射的に振り返りそうになるのを必死でこらえ、
目の前にあるものだけを見つめて、足を動かした。
闇の中に続く小道。木の根が足元をすくい、何度も転びそうになる。
それでも、涙と汗と血が混じったような顔のまま、必死で走った。
しかし。
――出口が、ない。
どこまでも森。
どこまでも、祠の匂いが染みついた空気。
「どこ……どこなの……!」
息が切れ、膝が笑い出す。
前が見えない。
涙か、恐怖か、空気の歪みか――すべてが混ざる。
その時、視界に何かが現れた。
「……っ!」
ドンッ!!
勢いよくぶつかったそれは、“壁”だった。
けれど、それはただの壁じゃない。
見上げると、そこには巨大な木造の家がそびえ立っていた。
屋根は苔に覆われ、壁は斜めに傾いている。
だけど、確かにここは“建物”だった。
壁の脇には、古びた木の梯子が立てかけられている。
(ここ、登れる……?)
息も絶え絶えのまま、主人公はその梯子を掴んだ。
ギシ、ギシッ。
朽ちかけた音を立てながら、足元がぐらつく。
でも、下に戻るという選択肢はもうなかった。
「お願い……落ちないで……」
空に手を伸ばすように、梯子を一段ずつ登っていく。
涙も汗ももう感じない。心はただ、逃げたい、それだけだった。
ようやく上へ出たとき――
「……あ! !」
目の前に、歯ブラシをくわえた女子高生がいた。
朝出会った3人組のうちのひとり。
彼女は驚きもせず、まるで当たり前のように微笑んで言った。
そこは――家の屋根裏でも、祠の中でもなかった。
まるで民宿のリビングのような、生活感にあふれた空間が広がっていた。
洗面台。カラフルなタオル。
鏡にはうっすら水滴が残っていて、
天井からは裸電球がぶら下がっていた。
そしてその真ん中に、パジャマ姿の女子高生がいた。
歯ブラシをくわえたまま、振り返って、目をぱちぱちさせる。
「あ。旅人さん、戻ってきたー!」
歯磨きの泡をくちゃくちゃさせながら、無邪気に言った。
「ねーねー、みんなー!戻ってきたよー!」
奥の方から、「え、まじで!」「おっそー!」「おかえり〜!」と声がする。
洗濯物を畳んでいた子、
ぬいぐるみに話しかけていた子、
スナック菓子を片手にテレビをつけていた子。
それぞれが、あの日と同じ表情で、振り返った。
ただ、どこか――ほんのすこし、目の奥に“知っている”光があった。
わたしは、言葉が出なかった。
喉に何かが詰まっていて、
声を出したら泣きそうで、
でも、涙が出る感覚もなかった。
さっきまで、祠の中で、
あの狐の目を、
あの女の屍を、
ヒナの叫びを――見ていたはずだったのに。
この場所には、
あたたかい空気と、
ほんのり湿った歯磨き粉の香りがあった。
まるで何もなかったかのように。
でも――彼女たちは、全部知ってる顔をしていた。
「おかえり〜!ほら、座って座って。顔、ひどいよ?どろっどろ」
ぬいぐるみを抱えていた子が、半笑いでクッションをぽんぽんと叩く。
「お茶沸かすね〜。あ、てか冷えてるのもあるけど」
洗濯物を畳んでいた子が立ち上がって、ミニ冷蔵庫を開ける。
その仕草も、音も、光も――どれも日常だった。
でも、わたしは動けなかった。
足は床についているはずなのに、
まだ、祠のざらついた石段を踏んでいるような気がしていた。
「……ここ、どこ?」
しぼり出すように言った声に、
3人は顔を見合わせた。
でも誰も、驚かなかった。
「……うーん、まあ“中間地点”ってとこかな?」
歯磨きを終えた子が、口をゆすぎながら言う。
「全部“こっち”じゃないけど、“あっち”でもない」
「でも、祠から繋がってるんでしょ?」
そう言ったのは、洗濯物の子。
その目だけが、妙に真っ直ぐだった。
「……あんた、見たんだね。“主”の目を」
わたしは、一瞬で呼吸が止まった。
誰にも話してない。
あの、祠の奥で――
あの狐の目に見つめられたことを。
「……なんで、知ってるの」
3人のうち、ぬいぐるみを抱えた子が、少しだけ寂しそうに笑った。
「だってあたしたち、“ヒナさんのとこ”で修行してるもん」
わたしは、目を見開いた。
「……は?」
「うちら、ヒナさんの下っ端。正式には“御巫見習い”って言うらしいけど、わたしらは『ヒナさんチルドレン』って呼んでる」
ぬいぐるみの子が得意げに言った。
なんの冗談だろうと思いたかった。
でも、彼女たちの目は――全部、知っている目をしていた。
わたしが、
祠のことを、
狐の主を、
そして――あの屍たちを、
見てしまった人間であることを、知っていた。
「そっか……」
口から漏れたその言葉は、自分でも驚くほど、穏やかだった。
ああ、やっぱり。
どこかで感じてた。
この子たちの笑顔が、
あの日、山のふもとで見たときから、“ただの女子高生”のものじゃなかったこと。
「……まさか、本当に“祠の子”が来るなんてね」
歯ブラシを洗い終えた子が、小さくつぶやいた。
その言葉に、他のふたりも目を伏せる。
「こんな町で、こんなタイミングで……来るならもっとずっと先だと思ってたのに」
「ヒナさん……知ってたのかな」
「さすがに、予知まではしてないんじゃない?……たぶん」
誰も、わたしの方を見なかった。
でも、全員がわたしの“存在”そのものに、呼吸の仕方を変えていた。
まるで、目の前に「正体を明かせない神話」が座っているような気配。
わたしは、何も言わなかった。
言う必要がないとも思った。
――あの祠の口の中。
その奥に感じた“何か”は、
今もわたしの胸の奥で、眠っている。
3人のうちひとりが、ちらっとこちらを見て、口の端をひきつらせた。
「……ほら、ヒナさんに言われてるでしょ。言っちゃダメなんだよ。そういうの」
わたしは頷きもしなかった。
けれど、その言葉が妙に自然に胸に落ちた。
言ってはいけない。
言葉にした瞬間に、それは「本当に戻れなくなる」。
この空間は、どこまでも日常に似ていた。
けれど、その“似せ方”が完璧すぎて、逆に疲れた。
わたしは、カーペットの上に転がるように身体を横たえた。
ふわふわのクッション。
ぬるい空気。
どこからか流れてくる、家電のモーター音。
目を閉じた瞬間、
頭の奥に、祠の木の匂いと、あの目が焼きついたように蘇る。
だけど、抗えなかった。
意識がふっと遠のいていく。
まぶたの裏がじわりと黒に染まり、音が水に沈むように消えていく。
眠ってはいけない、気がしていた。
でも。
それよりも、もっと強い力が――
「……また、呼ばれる」
そんな声が、遠くで自分のものじゃない声で聞こえた気がした。
わたしは、眠りに落ちた。
それは、気絶にも似た、深くて重たい眠りだった。




