巫の舞(かんなぎのまい)
「あなた、やっぱり見たことない顔だと思ったのよね」
あの綺麗な人がそう言った。
声は微笑みとともに柔らかく響いたが、その響きはどこか、壁にぶつかって反響するような重たさを持っていた。
「仲間かと思ったけど、ちがったのね。じゃあ――」
彼女が一歩、ゆっくりと祠の方へにじり出た。
その瞬間、瞳が、すうっと窪んだ。
目の中の白が、黒に吸い込まれていく。
まぶたの裏に穴があいたような感覚。
その顔が笑っているまま、どんどん人間から遠ざかっていった。
「しょうがないわよね」
彼女の髪が、無風の空気にふわりと浮かび上がった。
そのまま、スカートも、両腕も、ふわふわと布のように宙に舞う。
重さがない。
まるで、濡れたハンカチが水の中に漂っているようだった。
でも、目が離せなかった。
彼女は、そのまま音もなく浮かび上がった。
笑っている。
その顔が、くしゃくしゃになっていくのに――笑ったまま、こちらを見ていた。
ヒナは壁に片足をつけたまま、大きく舌打ちをした。
「はあ~~!? そうくる? もう、“美人系アピール”通じないってバレたからキレてんの? だっさ〜!」
ヒナはもう片足も壁に跳ね上げ、そのまま斜面を垂直に駆け下りるように宙を蹴った。
音が、爆ぜた。
綺麗な女の人――いや、“それ”が、ヒナの動きに反応し、身体の輪郭を液体のように波立たせた。
刹那、空中で火花のように閃いたのは、光を反射する何本もの“クナイ”。
ヒナは手首から手のひらにかけて、銀色の短い刃を指のあいだから滑らせるように投げる。
クナイは滑るように宙を裂いて飛び、“それ”の布のような体を何本も貫いた――かに見えた。
「……すっごい、通じない系! あーあ、布系って嫌いなんだよねぇ!」
ふわふわと浮かんでいた“それ”の身体が、唐突に四方に裂けた。
人の形だった輪郭が、折りたたまれた紙のようにぐしゃりと内側に折れ曲がる。
空中にふわりと開く“空洞”から、何本もの腕のようなものがのびてくる。
(腕?)
違う。
それは、笑っている顔だった。
笑っているだけの顔が、幾重にも伸びて、浮かび、くないを弾いていた。
「危ない!」
思わず声が漏れた。
けれどヒナはちらりとだけこっちを見て、片目を細めた。
「見ててねー、旅人ちゃん!」
次の瞬間、彼女はクナイを一本逆手に持ち替え、祠の柱を蹴って宙を旋回するように跳ねた。
風が巻き起こる。
紙のように舞う“それ”の身体が翻るたび、笑っている顔がキィ、と甲高く擦れた音を発する。
ヒナはその音にタイミングを合わせるように、正確に、顔の“継ぎ目”へと刃を投げ込んだ。
刃が突き刺さった瞬間、“それ”の顔がいっせいに崩れた。
風も、光も、すべてが吸い込まれるように静かになった。
地面に、何かがふわっと落ちた。
“それ”の最後の顔だった。
笑ったまま、静かに崩れ、地に溶けていった。
「……ふうっ、マジ重かった……」
ヒナは両手をぶらぶらと振って肩をまわし、背中でひとつ息をついた。
「やっぱり、わたしの苦手なやつだわ。粘っこいし、綺麗ぶってるし、顔いっぱいあるし」
笑いながら振り返ったその時だった。
――ガタリ。
音がした。
私の足が、一歩前へと出ていた。
大きく開かれた祠の扉の前。
それなのに、目の前の狐蛇の目が、再び細く細められた。
その視線を、主人公は真っ直ぐに見返していた。
吸い寄せられる。
怖いはずなのに、温かい。
わかる。
この存在は、ずっと自分を見ていた。
胸の奥がざわめく。
身体の熱が、指先から抜けていく。
もう、戻れない。
でも、行かなければならない。
(……“あの目”の中に、わたしがいる)
そう思った。
そして――一歩、また前へ進んだ。
祠の前に、風が戻ってきた。
さっきまで浮かんでいた綺麗な女の人――いや、“それ”だったもの――の残骸が、布のように地面に落ちていた。
ただの布きれのように見えるのに、そこには笑っている顔の一部がまだ、ぬるく染みついていた。
ヒナは、その顔を見下ろして、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……間に合ってよかった……ほんと、危なかったんだから」
口の中でそうつぶやくと、袖から細長い布を取り出し、その先に巻き込まれた筆を抜き取った。
地面にしゃがみこみ、祠の前の岩に、白く光る液体を筆先にとって書き始める。
文字は、古い書体だった。
人では読めないような線が、地面にするすると滑っていく。
「……こうしとかないと、あとがたいへんでさ……封じたって記録しないと」
ヒナの声は小さく、淡々としていた。
でも、筆を動かす手は、微かに震えていた。
ヒナは一瞬気配を感じ、周囲を見て、筆を止めた。
ほんの一秒だけ、動きを止めて、まぶたを伏せた。
そこには、ヒナの仲間たち――祠の防衛線として戦っていた女子高生たちがいた。
制服の裾が泥にまみれ、髪は千切れ、肌には黒い焼け跡。
彼女たちは、森の中に配置されていた“綺麗な女の仲間たち”と、
――あの異形のものたちと、一人で幾体も相手にしていたのだ。
「……見えないところで、あんたたちが食い止めてくれてたんだよね」
そう呟くと、ヒナの筆先が震えた。
「だからわたしは、ここで“あれ”とだけ向き合えた。……ありがとね。……ほんとに」
地面に倒れた少女たちは、みんな静かな顔をしていた。
やりきった顔――でも、それが余計に痛かった。
「……ごめん。ほんとは一人で来るつもりだったのに」
ヒナは、筆を握りなおした。
涙は、こぼれなかった。
この場所では泣けない。
そう決めていた。
「今は、こっちが先……今は、まだ泣いちゃダメ」
そう言い聞かせながら、再び筆を走らせる。
白い液体が、乾いた地面に染み込みながら光を残す。
仲間たちの体の周りにも、同じような白い文字を書き上げていく。
また少し、違うものを。
“その仲間だったもの”の体が、ふっと揺れた。
どこからか、くすりと笑う声がした気がした。
でもそれはもう、ヒナの知っている声ではなかった
そう言い聞かせるように。
最後の一文字を書き終えたとき、ヒナは大きく息を吐いた。
そのとき――はっとして顔を上げた。
(……あ)
気づけば、あの旅人がいなかった。
視線を動かした瞬間、喉が鳴った。
「――うそでしょ」
彼女は、もう祠のすぐ目の前に立っていた。
動く気配もなかった。
ただ静かに、まるでそこに“在る”ことが自然であるかのように、狐の主と向き合っていた。
狐の顔をした存在は、彼女を見下ろしていた。
鱗を巻く胴体はぬるりと地面を這い、祠の基礎を飲み込むようにまとわりついている。
口が――開いていた。
喉の奥が、異様に深く、広い。
その中から、呼吸の音さえ聞こえてくるようだった。
「ねえ、旅人ちゃん――戻って!」
ヒナの叫びが、森に裂けるように響いた。
でも、彼女は振り返らなかった。
まるで、なにも聞こえていないかのように。
狐の主と視線を交わしたまま、ふらりと一歩を踏み出した。
地面が揺れた。
山そのものが低く呻くような音を立て、空気が震える。
狐が、待っていた。
まるで、ようやく失くしたものが帰ってきたかのように、
その口を、静かに開いていた。




