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狐蛇ノ祠  作者: とろ
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2/6

微笑みの奥

彼女の手は、思っていたより冷たかった。

けれど、それ以上に奇妙だったのは、わたしの指先が、まったく温度を感じなかったことだった。


ぴたりと重なる肌の感触はある。

けれど、何かこう――触れているのに、境界が曖昧で、自分の輪郭がすこしだけ薄れていくような。


ざく、ざく、と落ち葉を踏む音がふたつ。

だけど、風の音はなかった。

木々は揺れているのに、枝のざわめきが聞こえない。


空気が変だ。

気のせいじゃない。これは、怖い。


「もう少し歩くわ」


彼女が静かに言ったその声は、まるで胸の奥を水で満たされるようだった。

ひんやりしていて、でもどこか甘くて、喉の奥がざらざらした。


この人、何者なんだろう。


見た目は完璧すぎて怖いくらい綺麗だ。

それなのに、そこに「温度」がない。


目が笑っていない。

口元はずっと微笑んでいるのに、頬の筋肉が動いていない。


(この人、わたしをどこへ連れて行くつもり?)


何かを聞こうとしても、声が喉でつかえて出なかった。

頭の中で警鐘が鳴っているのに、体が言うことを聞かない。


――そして、気づけば、隣にもうひとりいた。


「や〜ん、ごめんね、無言で並んでたら驚かせちゃった?」


ぬるっとした明るさで現れたのは、小柄なおかっぱ頭の女の人だった。

年は……十代後半?いや、口調や空気はもっと上。

笑ってるけど、その笑い方が怖かった。


何が怖いのか、最初はわからなかった。


でも、ずっと笑っていることが怖かった。

会話の途中も、足元の小石を蹴るときも、こちらを見るときも、口元だけが変わらずに笑っていた。


「ヒナって呼んでね。こっちの美人ちゃんとは長い付き合いなの」


ヒナはそう言って、綺麗な人の背中をぺちっと叩く。

けれど、その手つきもまた――なぜか、音がしなかった。


「ねえ、お姉さん。旅人さんってさ、きっといろんなもの見てきたんだろうけど……」


ヒナがこちらを覗き込んでくる。


「“ここ”みたいなの、初めてでしょ?」


ぞわっと背中を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。


どうしてだろう。

この人も、怖い。

綺麗な人の笑顔とちがって、ヒナの笑顔は“形”こそ柔らかいのに、中身が空っぽだった。


「……あの、どこまで行くんですか」


やっとのことで絞り出した声が、妙に遠く響いた。

ヒナは首をかしげて、笑う。


「んー、もうちょっと先かな。祠の近くだよ。見たいでしょ?」


「……見たくないです。あの……わたし、戻りたい」


「だめ」


綺麗な女の人が、初めて口を開いた。

静かな、でも明確な否定だった。


「戻っちゃ、だめよ。せっかく来てくれたのに」


その言葉の中に、優しさも温かさもなかった。

ただ、決定事項を告げるような重みだけがあった。


「わたしたち、ずっとあなたを待ってたの」


ヒナが、手をぎゅっと握りしめてきた。

反対側の綺麗な人も、そっと手をなぞる。


その瞬間、身体がびくりと震えた。

怖い。このふたりが――怖い。


でも、手が離れない。


このまま、どこか知らない場所へ連れていかれる。

引き返すこともできずに。


わたしは、自分の脈が速くなっていくのを、指先で感じていた。



静かな森の中を、三人で歩く音だけが続いていた。


ザッ、ザッ、ザッ――

落ち葉と砂利を踏むリズムが妙に均一で、足音までもが「導かれている」ように感じられる。


夕暮れの光は、いつのまにか完全に消えていた。

空は群青色に沈み、木々の間から見える空は星も月もなく、ただ真っ黒だった。


周囲の木は、まるで呼吸を止めたように静まり返っている。

蝉も、鳥も、風も――音がまるでない。


なのに、なぜだろう。

耳の奥で、誰かが囁いている気がする。


名前を呼ばれている。

まだ知らない名前で。


「……あれ、見える?」


ヒナが、先を指差した。


石段に足をかけた瞬間、世界からすべての音が消えた。


風の音も、森のざわめきも、背後のふたりの足音すらーー

まるで、自分の身体だけが時間から取り残されたようだった。


ただ一歩ずつ、石を踏む音だけが自分の中でこだまする。

なのに、その音すら「自分の音ではない」ように感じられた。


(おかしい。やっぱり……ここ、絶対におかしい)


けれど、足は止まらなかった。

止まることができなかった。


祠が近づく。

朱塗りの柱。くすんだ注連縄。

その隙間に、暗闇が口を開けている。


闇の奥に、何かがいる。


見えないのに、わかる。

息をひそめて、ずっとずっと、こちらを見下ろしている。


祠の前に立つと、首の後ろがざわりと粟立った。

誰かに見下ろされている感覚。

でも、目の高さではない。


もっとずっと、上。


(……上?)


ゆっくりと、首を上げた。

その瞬間、視界がゆがんだ。


祠の背後に、空がなかった。

山の影だと思っていた黒が、動いていた。


ぬるり、と空間が蠢いた。


目があった。


そこに“目”があった。

空の高い位置、木々の遥か上。

左右に長く裂けたような、細くて鋭い目が、こちらをまっすぐ見下ろしていた。


動けなかった。

息が止まった。

視線を外すことも、まばたきすらできない。


それは、狐のような顔をしていた。

耳が尖り、長い鼻先に白く鈍い光が差している。

けれど、身体は――


(……長い)


長くて、太い。

胴体が、山を巻いていた。

蛇のような鱗が、地面を這うようにうねり、祠の下へと続いていた。


大きさがわからなかった。

あまりにも巨大で、距離の感覚が狂っていく。


気づけば、口の中が酸っぱくなっていた。


ああ――これは、生贄を待っているんだ。


その確信が、突然すべての思考を押し流した。


わたしが祠の前まで来たとき。

あの目が、ゆっくりと細められた。


「……来たね」


背後で、ヒナの声がした。


でも、もう振り向けなかった。


体が重い。喉がつまる。

涙が、勝手に目尻を濡らしていた。


笑っている綺麗な人が、横に立っていた。

微笑んだまま、わたしの手をぎゅっと握っていた。


指の力が強い。もう離れられない。


「さあ、こっちにおいで」


その言葉が、祠の奥から響いたように聞こえた。


それは人の声ではなかった。

重く、乾いていて、地鳴りのように低く……でも確かに、わたしを呼んでいた。


一歩、前に足を出しかけたとき――


バンッ!と乾いた音がして、左側の石の壁に、誰かの足が貼りついた。


「ちょっとちょっとちょっとォ! だから言ったじゃん、まだ早いってば~!」


声が、空気を裂いた。


わたしの横にいたヒナが、いつの間にか、祠の壁に片足で張り付いていた。

まるで昆虫のように、石の斜面に立っている。


その顔が、笑っていた。


でも――目だけは、血のように赤かった。



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