二十八話
だけど、このまま行かせるわけにはいかない。
自分たちはまだほんの子供だから、失敗するし、間違える。
誰かが手を差し伸べないといけない。本当の夜子を知っている、数少ない人間が。
女の子は柔らかくて甘くてふわふわしてる? そんなもんじゃねぇ。
「お前は真面目過ぎるんだよ! 真面目なやつほどキレるととんでもないこと考えるんだ。こんなことはやめろ。絶対後悔するよ」
「あなたに何が分かるのよ。私の考えてることなんか気づかなかったでしょう。」
確かに結ノ介は、夜子の本質に気づくことができなかった。
いや、気づこうとすらしなかった。
「他人のこと全部なんか分かんねぇよ!」
「開き直るわけ? 最低ね。分からないなら、何も言わないで。これ以上邪魔しないで」
「他人のこと全部は分からねぇけど、他人にしか分からないこともあるだろ。だって、自分のこと全部分からないだろ。灰半は自分のこと全部分かってるのか?」
夜子の目を、じっと見つめ、
「灰半と翠は似てるんだ」
結ノ介の言葉を聞き、夜子は酷薄な微笑を浮かべた。
「似てる? 私とあの子が? やっぱりあんたは全然分かってないわ。私は自分に甘いの。自分が一番大事だし、自分が一番優先されるの。翠が私の教室に来なかったのは、自分が行くと私に迷惑をかけるかも知れないと思ってるからなのよ。夜子ちゃんが自分なんかと仲良しだと皆に思われたら、嫌だって。そこまで考えてくれる友達いる? 私はクラスメートに翠を紹介しなかった。私だけのものにしておきたかったから」
夜子の顔に、自虐的な笑みが広がる。
「翠は天使なの。私はそうなれない。頷きたくもないのに頷くことも、笑いたくないのに笑うことも、私にはできてしまう。純真なあの子にはできないけど、私にはできてしまう」
「だから、それが真面目だって言ってるんだよ。誰だって話を合わせたり、追従笑いしたりしてる。灰半がやってることは悪いことじゃない。自分が一番って言ったな。そんなもん皆そうだろ。誰だって自分が一番可愛いよ。そんな当然のことに後ろめたさを感じてるのが、真面目以外の何なんだよ。それが全部じゃねぇかよ、それが答えじゃねぇかよ。それに、それぞれ自分が一番大事だっていう人間が、他人のために時間や労力を使うから有難いんだろうがよ、嬉しいんだろうがよ。だから灰半だって、翠に感謝してるんだろ」
「……離れ離れになったら、翠は私のことなんか忘れちゃうわ」
「そんなわけないだろ。翠が言ってた、『夜子ちゃんは特別だ』って。お前のこと信頼してなきゃ、二人で逃避行なんてするかよ」
「ねぇ、いい加減『翠』って呼ぶのやめてよ。気分が悪いわ」
夜子が冷たい声で言い、立ち去ろうとする。
「私のこと理解してくれるのは翠だけだって、他にはいないって、そんなの分からないだろうが。でもお前が先にそう決めつけて、誰にも本当のこと言わなかったら、本当に誰にも理解されない。絶対いるんだ、他にも。灰半次第でどうにでもなるんだよ。説教みたいになっちまって自己嫌悪爆発してるんだけど、少しずつでも、翠への依存から脱却しないと、マジで一生このままかも知れないぞ」
いつか麗に話したこと。
――今日という一日が続いた先に一年後があって、五年後があって、その先もあるから、今日何もしなかったら、何年先だろうと何も変わらない。
「俺たちはずっと、足掻き続けるしかないんだ」
「だから『翠』って呼ばないでって言ってるでしょ!」
夜子の絶叫が、駅の構内に響き渡った。
「私がクラスメートたちのことをつまらないと思うのは、私の精神が他人よりも醜いからなの。だから、誰よりも良い子でいなきゃいけない。そうして私はやっと普通になれる。
そうしてないと、私なんかは一瞬のうちに価値を失って、誰からも相手されなくなる。でも翠はそれでもいいと、こんな私でいいと言ってくれた。翠だけは――。あの子が、どこか遠くに行っちゃうなんて許さない」
夜子はもう、気づいているはずだ。
これが脱出ではなく、逃避である、と。
そして、夜子に言ったことは、そのまま自分に当てはまる。
今まで自分は何をしてたんだ。夜子との関係は、ミスコンが終わってしまった後も続くとは限らないと、分かっていたのに。
夜子に好きになってもらう努力をしなかったら、彼女は自分と一緒にいることを選んでくれないし、隣の席のクラスメート以上にもなれない。
当たり前のことだ。
ただ協力関係でいるだけで、大した努力もせず、好きになってくれるのを待つなんて、どれだけ受け身なんだ。
それに、だ。
もう夜子への感情は、自分の決意に対する単なる成果の象徴ではない。
引っ越しや進学で環境を変えたことが良かったのか悪かったのか、分からない。
だから自分の決意が正しい選択だったという結果が欲しかった。
夜子への想いの成就は、その結果に相応しかった。
でも、もうそういうことじゃない。もうこの気持ちは、指標でも成果でもない。
夜子に「翠への依存からの脱却」を言うなら、自分も「成果の象徴としての、夜子への依存から脱却」をしなければならない。
誰よりも真面目で、自分に厳しくて、繊細な女の子。
彼女のコンプレックスも含めて、この子のことが好きだ。
その気持ちは、小難しいことじゃなく、とてもシンプル、そして、予断の許さない――ただの恋だ。
高校一年生の普通の男の子が、同じクラスの隣の席の女の子を好きになっただけ。
どこにでもある片想い。笑ってしまうくらい簡単なこと。
「俺は灰半が好きだ」
夜子は目を丸くして、結ノ介を見た。
「何? こんなときに」
「偉そうに説教してるだけってのも、ダサいだろ。俺は俺にできることをしようと思って。有言実行ってやつだよ。俺は灰半の本性を知っても、まだ好きだから」
夜子が、自分のことを本当に理解してくれるのは翠だけ。
その夜子の信仰を覆せるとしたら、翠以外にも夜子の本性を受け入れる人間がいることを証明するしかない。
夜子は残忍な表情になり、
「ミスコンの協力者に、何故あなたを選んだか教えましょうか。あなたは絶対に私の要求に応じるし、私のためなら時間も労力も惜しまず協力すると確信してたからよ。この意味分かるよね」
結ノ介の反応は、夜子が予想していたのと、違っていた。
彼は毅然とした表情で、夜子のことをじっと見つめ、
「それでも、俺は灰半のこと嫌いになれない。自分でも不思議だよ。それどころか灰半のこと、もっと知りたいって思うんだ」
「バカじゃないの? 意味分かんない」
夜子は視線を逸らし、もう一度「意味分かんない」と呟いた。
「夜子ちゃん!」
息を切らした翠が、走ってやって来た。
結ノ介を見て驚くが、すぐに決然とした表情になり、夜子に向き直った。
「私ね、夜子ちゃんに言わなきゃいけないことがあるの。やっと、伝える勇気が出た。やっぱりあの約束は守れない」
夜子の顔に動揺が走り、恐る恐る尋ねる。
「私と一緒に生きるのは嫌?」
「そうじゃない。私も夜子ちゃんと離れたくないよ」
「でも、両親のどちらかに付いていくってことでしょ?」
「ううん。私、お父さんともお母さんとも一緒に暮らさない。この街で暮らす。ちゃんと一人でも生活できるようになりたいの。お父さんとお母さんも説得する。こんなふうに何も言わないで逃げるんじゃなくて、ちゃんと話して、分かってもらう。本当に欲しいものは、自分で行動しないと手に入れられないから。自立できることを証明したい。だから、この街からいなくならないし、転校もしない。だけど、夜子ちゃんとの約束は守れない。ごめんね」
翠は夜子に、柔らかく微笑みかける。
「友達がいなくて、独りぼっちだったとき、話しかけてくれたのが夜子ちゃんだった。夜子ちゃんだけ。打算でも、何でもいい。無音だった私の世界に、あなたが音をくれたの」
夜子が翠の体をきつく抱き締めた。
「翠がいてくれたらそれでいい。他には何もいらない。あなたは、私の天使」




