二十九話
例年よりも随分早い、梅雨明けが宣言された。
今日はミスコン当日だ。
ミスコンは五限、六限と午後の授業を潰して行われる。
まだ昼休みが始まったばかりなのだが、会場である体育館には、気の早い生徒たちがぞくぞくと集まっていた。
地元のテレビ局や、新聞記者と思われる人の姿も見える。
その地上の熱気は、屋上から見下ろしている夜子も肌で感じるほどだ。
階段のドアが開かれ、購買部の自動販売機から買ってきた紙パックのジュースを持った結ノ介が走ってくる。
「灰半、買ってきたぞ」
「遅い!」
夜子は結ノ介に怒号を浴びせ、ベンチに掛けて足を組んだ。
「喉が渇いて、もう死にそうなんだけど?」
「そんなに待たせてないだろ」
「私に枯渇という苦しみを与えない努力をもっとしなさいよ」
「……ごめん」
結ノ介は釈然としないが、とりあえず謝った。
夜子は「分かればいいのよ」と、結ノ介の手から二本あるジュースの両方を奪い、それぞれストローでちゅーちゅー飲み始めた。
「あの、片方は俺のなんですけど」
「リンゴとオレンジのミックスジュースだと考えれば、一本でしょ」
「すいません、意味が分からないです」
あの日以来、夜子は猫を被ることをやめた。
こんなふうにわがままに振る舞っている。
ただし、それは結ノ介の前でだけだ。
それも、こうして屋上など人目の付かないところでだけ。
唯我独尊、傍若無人の極みだが、それに付き合う結ノ介も相当だ。
ジュースを早々に諦めた結ノ介は体育館の入口を見下ろし、
「もうあんなに集まってるのかよ」
「ねぇ。私、女の子が好きかも知れない」
あまりにさらっと言ったので、結ノ介は聞き流しそうになってしまった。
何だかとんでもないことを耳にした気がする。
夜子に視線を送ると、何かを考えているようだった。
「違うわ。翠のことが性的に好きかも知れないんだ」
拍車をかけて、アバンギャルドなことを言い出し、
「女の子だから好きになったんじゃなくて、翠だから好きなんだと思う。私、あの子を見てると、なんかね、すごく興奮するの。ムラムラって意味で」
結ノ介が何と言ったらいいか分からず、黙っていると、
「なによ? 私のことが好きなんでしょ?」
いきなりだったため、返答に窮してしまう。
夜子はその様子を楽しむように陰湿に笑った。
結ノ介は心中で嘆息する。
小悪魔系だったか。
手強い。
夜子はさらに責めるような口調で、
「何? もう好きじゃなくなったの? 好きって言ったくせに」
恥ずかしいが、もう隠しても仕方ないので、
「好きだよ、どうしようもないくらい」
教室での夜子も、今の夜子も、どの夜子も好きなのだ。
夜子の全部が好きだ。
夜子は腕を組んで、満足そうに頷き、
「そう。なら良いんだけど。……別にどうでもいいけどね」
と矢継ぎ早に言った。
頬がほんのり朱色に染まっている。
殺人的に可愛い。
「振り向かせてみせるよ、灰半のこと。灰半の特別になれるように、俺頑張るから」
結ノ介は夜子の飲んでいるジュースの紙パックを一瞥した。
その視線は、紙パックからそのストローに移り、最後に夜子の形の良い唇に辿り着く。
わずかに開いた唇はしっとりと濡れて、艶々と光っていた。
「今度の休み、もし暇なら――」
屋上の階段室のドアがおもむろに開いた。
隙間から麗が顔を出した。
「やはりここだったか。結ノ介、そろそろ黒凍さんの衣装の準備が始まるよ。それが終わったら、出場者とはもう話せなくなる。一言声を掛けに行かないかい?」
結ノ介が答える前に、夜子は「私先行くから」とベンチから立ち上がった。
そして、空になったパックを二つ、結ノ介に押し付け、
「話はここまで。残念でした」
離れ際に「間接キスしたらクラス全員にラインするから」とダメ押しされた。
結ノ介の視線に気づいていたようだ。
夜子が屋上から去って行くと、麗が申し訳なさそうに、
「もしかしてお邪魔だったかな」
「いや、俺の努力が足りないだけだ」
麗は夜子が消えていったドアを見つめ、
「彼女は可愛いね」
「まぁな。でも、俺が最初に可愛いと思ったのは、麗だけどな」
「え、わ、わた、ぼく?」
麗は声を裏返らせた。
珍しく、動揺を見せている。
頬を紅潮させたまま、結ノ介をじっと見つめる。
「うん。こっちに来て、最初にこの子可愛いなぁって思ったの、麗だよ。って、こんなこと言ったら軟派なやつだよな、他意はないんだ」
「そうか、それは光栄だよ。うん、君にそう思ってもらえてるなんて、えへへ、僕たちも行こう、本当に遅れてしまうよ」
「そうだな」
二人で体育館に向かった。
麗との展望台に行く約束は、あの後すぐ果たされた。
炎上する街を見た麗は「すごい! 見て、結ノ介! ホントにすごい!」と言って無邪気に喜んでいた。
展望台からの帰り道で、結ノ介は「あ、そうだ」とあることを思い出した。
「展望台来たことあるって言ってただろ。そのときさ、女の子に出会わなかったか?」
「そう言えば、出会ったね。確か中学一年生の夏の夜だったかな。薄暗くて顔までは分からなかったけど、丁寧な話し方で、気の利いたことを言う女の子だったと記憶してるよ」
「麗はそのとき何しに行ってたんだ? 星でも見に行ってたのか」
「あのとき僕はね、」
麗は忘れ難い思い出を語るように、答えてくれた。
UFOを見つけに行っていたんだよ。
翠の出番まで、後一人だ。
衣装合わせにお邪魔すると、もう着替え終わり、メイクまで施されていた。
夜子が裁縫したドレスは、思った通り翠によく似合い、それにメイクが加わると、もう直視するのが怖いくらい魅力的な輝きを放っていた。
「やっぱり緊張するか?」
「もう限界。心臓がドキドキして破裂しそうだよ」
口ではそう言っていたが、晴れやかなその表情を見て、結ノ介は安心した。
それから少しだけ話して、翠は控室に消えていった。
あの家出の日から、土日を挟んだ月曜日。
翠は腰まであった長い髪をばっさり切って、登校してきた。
肩口で切りそろえられたショートカットは、盛夏を待ちわびるように、涼しげに揺れた両親への説得は成功し、翠の転校はなくなり、そしてこの街で一人暮らしを始めた。
今は結ノ介と麗と同じアパートで、しかも空室だった結ノ介の隣の部屋で生活している。
翠の前の出場者の番が終わった。
体育館の中は熱気に包まれ、耳を劈くほどの歓声が上がっている。
二十五年前、翠の母親もこのステージに立っていた。
そして、ステージの上で輝く少女を見て、一人の少年が恋をした。
その後、二人の恋は結実の日を迎えた。
さらに長い年月の後、その子どもが同じステージに立つ。
間もなく、この場にいる全ての人間が、翠の魅力に気づくだろう。
翠は哀しみを隠したまま、あのステージで輝く。
しかし、その哀しみを誰も知らないわけじゃない。
それが翠にとって、救いになればいいのだけれど。
世界は広くて、どうしようもないこともたくさんあるけど、自分のことを理解してくれている人がいれば、何とかやっていける気がする。
結ノ介や翠たちだけが、特別なんじゃない。
この体育館の中にいる皆が、いや、ここに今いない人も含めた、すべての人が、何かを抱えて今日を過ごしている。
結ノ介には彼の物語があるように、すべての人にそれぞれの物語がある。
街には、もう初夏の気配が漂っている。
翠がステージの上に現れる。




