二十七話
駅に到着するや否や、結ノ介はせわしなく代金を支払い、タクシーから飛び出た。
ホームは二つで、都市部に向かう上り線と、郊外に続く下り線がある。
下り線の何駅か先の地域はベッドタウンとして機能していて、そこへ帰宅する人でホームは溢れているが、上り線はほとんど乗客がいない。
二人がどちらに乗るかは分からないが、前者だと探すのが大変だ。
構内の階段を駆け上がると、改札の先に電光掲示板がある。
上り線の終電まで二十分。
時間が差し迫っている上り線のホームを先に捜すことにする。
改札を抜け階段を下り始めるとすぐ、こちらを見上げている視線に気づいた。
夜子が結ノ介を見上げ、いつもの微笑を湛えていた。
「もしかしたらと思ってたけど、悪い予感って当たるのね」
「翠は一緒なのか」
「ホームの待合室にいるよ」
結ノ介は「そうか」と答えて、再び階段を下り始める。
すると夜子は、結ノ介の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。
「翠には会わせないよ」
目の前の少女は、夜子の顔で、夜子の声で、夜子らしくないことをする。
結ノ介はやっぱりそうかと思う。
「翠からラインが来た。さよなら、って。何か知ってるか?」
質問には答えず、夜子はどこか責めるような口調で、
「翠から話聞いたんだよね。五野くんは何とも思わないの?」
「そりゃ、思うことはあるよ。でも、どうしようもないだろ」
夜子は眉宇に険を漂わせる。
「私はそうは思えない。あなたみたいに簡単に諦められない」
「翠がどうしたいかっていうことが、一番大事だろ」
「それじゃ、翠が親の離婚を許して、どっちかに着いて行きたいということが、本心だと思うの? それがあの子にとって幸せなの?」
「そうは言ってないだろ。でもこんなことは間違ってる。こんな家出みたいなこと。それこそ、あいつは幸せなのかよ」
「だってこうするしかないでしょ? 離婚も引っ越しも、こんな勝手な話ってある? だから脱出するのよ。連れ去られる前に、連れ出すの」
二人の間に張り詰めた静寂が居座る。今の夜子は、結ノ介の知っている彼女ではない。
「何考えてんだよ、ちょっと落ち着けよ」
「私は落ち着いてるし、とても冷静よ」
「どこがだよ。じゃあ、この先どうやって生活すんだよ。行く当てでもあるのか」
「とりあえずビジネスホテルかネットカフェに泊まる、都会には漫画喫茶とかも多いし」
「とりあえずってなんだよ。金はどうするんだ?」
「二人でバイトする。贅沢しなきゃ生きていける」
「住所がなかったら仕事なんかもらえるはずないだろ。どこに住むんだよ。保証人は? 家借りる金は? 家出してる高校生に、部屋貸してくれる不動産屋なんてあると思うか?」
「保証人のいらないところ探す。四畳半でも、お風呂もトイレもなくていい。敷金礼金がないところ。住み込みだっていい。少しだけなら貯金がある。いつか翠と二人だけで生活するために、バイトしてたの。それが少し早まっただけ」
どういうことだ、と驚く。二人は同居する予定があった?
「ちょっと待てって。高校生二人で、しかも女の子が、危ないだろ」
「このままじゃ、あの子はもっと不幸になるわ。それを黙って見過ごせって言うの? 約束したの、ずっと昔に。いつかもし、どちらかが何もかも嫌になったら、一緒に違う世界で暮らそうねって。その約束を果たすときが来たの。誰にも邪魔させない。誰にも邪魔する権利なんて、ないんだから!」
親友との幼少の美しい約束に浸っているというよりも、盲目的な狂気に犯されている。
「翠は納得してるのか?」
「翠も納得してくれてるわ。無理に連れ出したわけじゃない」
「どうしてそこまで翠に固執するんだ? 友達なら、たくさんいるだろ」
「翠は、特別なの。あの子だけが私のこと分かってくれてる、理解してくれてるの」
夜子の顔から、表情が消え、
「クラスの子との会話なんて、空っぽよ。帰り道に寄る可愛いお店の話とか、休みの日にどこかに遊びに行くとか、好きな男の子の話とか、すごくつまらないの。どうだっていいことをずっと喋ってる。大変なんだよ? 興味のない話に相槌打ったり笑ったり、驚いたり、何の意味があるのよ? くだらない」
あまりの豹変に、結ノ介は何も言えない。
「それは別に今に始まったことじゃないわ。小さい頃からそう。最初は怖かった。自分が他の子と違うことが。それがバレてしまったら、除け者にされてしまう。学生なんか、学校での評価がそのまま世界の全部でしょ。他人と上手く話を合わせられるかどうか心配だったけど、あっという間に順応してしまった。私を中心にクラスの輪ができることで、成功を自覚した」
夜子は俯き加減で、
「でも、自分だけが浮いて行くのが分かる。自分のことなのに他人事みたいな、もう一人の自分がいて、無理して笑っている私を冷静に観察してるの。そうなるともう会話に集中できなくなって、白々しい気持ちになる。私は何を喋ってるんだろうって、すごく疲れてしまう。一人になると解放されたような気持ちになって、気分が落ち着く。会話してるようで、してないの。本心なんか、どうせ話せない。本心じゃないなら、冗談でも嘘でも何を言っても一緒。だったらできるだけ人に気に入られるように、良い人だと思われるように会話した方がいいに決まってる。まるでお芝居でもしてるみたいよ」
「翠だけは、違った?」
「私と翠は同じ小学校に通っていて、二年生のときに同じクラスになった。翠は当時から人見知りで、他人を恐れていた。誰とも関わろうとせず、いつも一人で椅子に座って俯いてたし、よく分からない言動を取るこがあった。クラスメートも私も、ただの勝手な子だと思ってた。それにあの子って綺麗でしょ? 綺麗でそういう態度だから、余計に特別視されるっていうか、孤立してた。私はすでに優等生でクラスの人気者になっていたから、翠に話しかけたの。口下手な子だから、話し相手になってあげれば、そのうちクラスにも馴染めるだろうって」
少し遠い目をする夜子。
「最初は本当に大変だった。一言二言で会話終わっちゃうし、たまに長く喋っても、ほとんど何を言ってるかわからなかった。感性が独特だと思った。良く言えば個性的、悪く言えば協調性がない。それでも熱心に話しかけていると、次第に翠は私に心を開き始めた。私にだけ笑顔を見せるようになった。その笑顔を見る度に、私は胸を締め付けられた。だって私には打算で話しかけたという負い目があったから。純粋な好意に触れるたび、罪悪感はどんどん膨れ上がっていった」
打算、と聞いて、結ノ介はばつが悪い思いをする。
「ある日、二人で下校してたの。翠が突然口を開いた。夜子ちゃんはいつも別のことを考えてるみたい、って。言い当てられたと思った。バレてしまった。ひた隠しにしていたことが、私の嘘が、本性が。すごく混乱した。気が動転して、何て答えたらいいか迷ってたら、翠は続けて、一緒に帰ってくれてありがとう、って言った。私は強い罪悪感に苛まれた。そんな一切を信じるみたいな不用心な笑顔見せてたら、いつか取り返しのつかないことになるって思った。なぜか無性に腹が立って、話しかけた理由を打ち明けた。善意じゃなくて、ただの打算、エゴ、それだけだって。嘔吐するみたいに。言い終わって、失敗したと思ったわ。私の本性を言い触らされるかも知れない」
夜子は一瞬顔をしかめたが、すぐにまた無表情に戻った。
「翠はショックを受けてる感じじゃなかった。それどころかあの子は、大丈夫? って。私の顔を覗き込んだ。全部許した上で、私の心配をしてくれたの。そのとき私は、この子は特別だと思った。この子は人の形をした天使なんだって。私たちは約束した。いつかもし、どちらかが何もかも嫌になったら、一緒に違う世界で暮らそうね、って。それから私と翠は、親友になった。もちろん、翠は誰にも私の本性を言わなかった」
そうか――、と結ノ介は思いながら、滑らかに動く夜子の唇を見る。
「翠がいてくれたら、いつでも手の届くところにあの子がいてくれたら、私のことを理解してくれていたら、それだけで私はがんばれる。それだけが、私の救い。ミスコンに出たいって翠から聞いたとき、複雑な気分だった。皆が翠の魅力に気づいてしまったら、皆あの子を欲しがるわ。そうなればあの子の中で、私の存在なんて消えてしまう。私はまたひとりぼっちになる。それでも翠から頼られることなんてなかったから、あの子のためになるならと、協力することにした。本番が近づくにつれ、本当に恐ろしくなった。さっき翠から家のことを聞いて、もうどうしたらいいか分からなくなった。私が出した結論は、一番大事なものだけは、死んでも守るということ。翠を誰にも取られたくない。あの子は、私だけの天使なんだから」
――これは、夜子の宗教なんだ。
夜子にとって翠は偶像だ。
必要不可欠な、神様のような存在――だから、「天使」なんだ。
誰の心の中にもある、絶対的な信仰。
人はそれをあまりに強く求めると、逸脱してしまうのだろう。
ちょうど、今の夜子のように。
結ノ介は今まで、自分たちが持っている悩みは、夜子には縁のないものだと思っていた。
灰半 夜子は模範的で、理想的な女の子。
だけど、そうじゃなかった。
夜子にとって決して、対岸の火事ではない。
今まで、どうしてそれが夜子には無関係のことだと思っていたのだろう。
いつも優しく鷹揚で、笑顔を絶やさず、クラスの人気者。
悩みなんかなくて、ただありのままに振る舞っているとどうして思っていたのだろう。夜子のことを何だと思っているのだろうか。
今まで彼女の何を見ていたのか。
まるで自分たちの世界とは、違う世界で暮らす存在のように考えていたのか?
ただ純粋な心のまま、無為に育ち、健全に生きる、そんな人がいるのか。
夜子に理想だけを重ねて、自分にとって都合の良いように映していた。
好きなはずなのに、恋をしているはずなのに。
たぶん最も理解から離れていた。
結ノ介は夜子から、最も遠い場所にいる。
もしかしたら自分たちは、他の誰よりも理解したい人のことほど、理想や願望に邪魔をされて、正しく理解できないのかも知れない。
――夜子は自分にとっての宗教なのだ。
夜子にとっての翠のように。
ずっと考えていた。
自分たちの困難は、夏のある日の通り雨のように一過性のものなのか、それとも永遠に付きまとうのか。
いつも飄々として、気ままに生きているように見える麗だってそうだ。
結ノ介や麗に限ったことじゃなく、あるいは皆そうなのかも知れない。
誰もが――雑踏を行き交うサラリーマンも学生も、主婦や、あるいはクラスメートや家族も、何気なく生活を営んでいるように見える人の全てが、それぞれ個人的な困難や問題を抱えているのだろう。
「待て、灰半」




