二十四話
翠と落ち合い、市バスを利用して、展望台へ向かう。
バスの所要時間は三十分程度だ。二人は隣り合わせに座った。
翠はずっと難しい顔で固く口を閉ざし、結ノ介は窓際の席で流れていく街並みを手持無沙汰に眺めていた。何しに行くんだとは聞かなかった。
バスを降り、展望台のある丘の上を目指し、なだらかなに続く上り坂を歩き始める。
展望台の建設に伴い、遊歩道が整備された。
歩きやすく、とても綺麗にされた状態が今も保たれている。
大きな石や木の枝、飲食物のゴミや煙草の吸殻などが取り払われている。
ボランティア団体か自治体が、定期的な清掃活動によって管理しているのだろう。
歩いている間も、翠は沈黙を守っていた。
もう言いたいことが決まっていて、それ以外の余計なことは口にしたくないという緊張感があるように感じた。
ゆっくり歩いて三十分ほどで、丘の上の展望台に到着した。
往復で小一時間というのは、散歩のコースとして妥当だ。
展望台にはひと気が無かったので、遠慮せず最も眺めが良い場所を選ぶ。
蒼空が言っていた通り、そこからは街並みが見事に眺望できた。
結ノ介の生まれ育った街よりも建造物は高く、また密集していて圧迫感を覚える。
街は黄昏の深い橙に沈み、炎上しているようにも見える。
風光明媚というより、焦燥に似た感情を抱かせる景色だ。
「すごいね」
と翠が呟いた。同じように何かを感じ取ったのだろうか。
それまで黙っていた翠が、話し出す。
「こんなふうに自分が育った街を見るのは初めて。私たちの学校が見える。私たちいつもあの中にいるんだ。通ってた小学校も中学校も見える。夜子ちゃんのカフェはあの辺かな? 今日はバイトって言ってたから、今あそこにいるんだよね。商店街、人いっぱいだね、窮屈そう。この街にはね、大きな河が流れてて、それを境に南北に分かれてるの。橋が見えるでしょ。南側は大きな駅があるから、私たちの家や学校がある北側よりも栄えてるの」
翠は眼下を見下ろし、結ノ介に自分が育った土地を紹介するというよりも、自身でその一つ一つを確認するように指をさしていく。
「この景色を見せるために、ここに俺を誘ったのか?」
「あなたに話しておきたいことがあるの。本当は言わないつもりだったんだけど、あなたにはちゃんと言っておこうと思って。でも話し出すタイミングがわからないっていうか、きっかけみたいなものが欲しくて。ここならきっと見晴らしもいいし、話し出しやすいかなって思ったの。単純にここに来てみたかったってのもあるけど。だから次の晴れの日に展望台で、って密かに考えてた」
「それは、ミスコンに関係することか? それともそれ以外の個人的な相談か?」
これは結ノ介にとって重要な質問だ。
わざわざこんなことをするくらいだから、晩御飯の献立の相談なわけがない。
これから翠が結ノ介を協力者として思って話すのか、友人として話すのか、その答えによっては、結ノ介は耳を塞いでいなければならない。
「両方かな」
できればミスコンに関わることだけを聞きたい。言い淀んでいると、
「全部ちゃんと聞いてほしいの。私の考えてること、あなたには」
何度この葛藤に苛まれるのだろう。
翠が切実な眼差しを向けてくる。
「わかった、聞かせてくれ」
翠は小さく頷いた。
そして、結ノ介の目をまっすぐに見据え、「私ね、」と緊張した面持ちで言う。
「一学期が終わったら、引っ越すの」
あまりに突然のことで、結ノ介はその場で固まってしまう。
引っ越し、どこに? この街を離れる? 転校するってこと?
「え、それはもう、決まってることなのか」
翠は申し訳なさそうに頷いた。
「今まで黙っててごめんなさい。ずっと前に決まってたことなんだけど、私が転校することなんて誰にも関係ないし、言ったところで事実は変わらないし、言われた方も困ると思うし。でもやっぱり良くしてくれた人には言おうと思ったの。だってもう会えなくなるから。それに何も言わないでこの街から消えたら、きっと誰にも私のこと覚えててもらえないだろうって思って、そんなの嫌だなって」
困るわけがないのに。忘れるわけがないのに。そんな心配をしてるのか。
「灰半はもう知ってるのか?」
「ううん、これから。どうしても伝える勇気が出なくて。でも、もう言える気がするの」
なるべく冷静に聞く。
「どこに引っ越すんだ?」
「まだ決められないの」
決められない? 住居のことかと思ったが、
「私の両親ね、離婚するの。それで、まだどっちに着いて行くか決められないの」
翠は事も無げにそう言った。
くだらないことを大袈裟に言い、重要なことほど簡単に伝えようとする。
「ごめん」
「いいの。そのことも話そうと思ってたから」
翠は気持ちを落ち着けようと、大きく息を吸った。
「私の家族はね、私が中学生になるまでは仲が良かった。両親は共働きなんだけど、中学生になった頃から、二人の仕事が忙しくなった。帰りが遅くなって、三人揃うことが少なくなっていった。お父さんは映像の編集? の仕事してて、都内の本社に呼ばれて単身赴任になった。お母さんは舞台の女優さんで、小さな劇団に所属してるんだけど、五、六年前からいろんな劇団に客演で呼ばれるようになって、今度長い間ここを離れるから、二人してちょうどいいかもって。ちょうどって何って感じなんだけど」
翠は可笑しくもないのに、笑おうとして失敗した。
「二人とも実家はここじゃないし、どちらかのおじいちゃんとおばあちゃんの家から今の高校に通学はできない。それで、どっちか選ばないといけないんだけど、そんなの、選べないし、なんていうか、お父さんもお母さんも私に選ばれたくないような気がして。私みたいな子、役に立たないし、何かと面倒なのかなって。だってそうでしょ? 私はやっぱりバカなの。私には何にもないから、両親に大事にされなくても仕方ないの。内気で、人見知りで、口下手で、要領が悪くて、人から好かれるような人間じゃない。それなのに今まで真っ当な努力をしてこなかった。嫌われるのが怖くて、どうしても踏み出すことができなかった。そんな人間が愛されるわけがない。だからこうなっちゃったんだし。私がもっと明るくて、頭が良くて、休みの日に学校の友達を連れてくるような愛嬌のある女の子だったら、別の今とか、違う未来もあったのかも知れない。二人が仕事好きなのも知ってる。お父さんとお母さんもそれぞれの人生があるんだし、私がその邪魔しちゃうんじゃないかとか考えちゃって。お父さんとお母さんはね、私たちの高校の卒業生なんだよ。二人が入学した年にミスコンが始まったんだって。それでお母さんが一年生のとき出場して、優勝したの! 写真部だったお父さんはファインダー越しのお母さんを見て一目惚れして、毎日お母さんに話しかけに行ったんだって。お母さん美人だったから言い寄る男の子はいっぱいいたそうだし、三年間同じクラスにはならなかったけど、それでも諦めずにがんばって、三年生のときに付き合いだしたって。昔お父さんが撮ったお母さんのミスコンの写真を見ながら話してくれたの」
翠が結ノ介を見て、
「あなたが持ってきてくれた写真と同じものが家にもあるはずなんだけど、この前探したらもうどこにもなくて。実家に持って帰ったのか、それとも引っ越しの荷物を減らすために……それは、分からないけど」
翠が熱心に見ていた、あの写真。
「ってことは、あの写真に写ってたのって、黒凍のお母さんってことか」
写真の下に名前が書いてあったはずだが、旧姓だから黒凍と繋がらなかったのか。
「それじゃ、黒凍がミスコンに出て、優勝するって決めたのは、母親と同じ衣装で出ることにこだわったのは――」
結ノ介はようやく分かった。
動機も、執着も、すべては――両親の復縁のため。
「おかしいよね。こんなことしたって、今更どうにもならないのに。もう時間も気持ちも戻らないのに。それは分かってるの。でも、もしかしたらって気持ちもあって、」
翠は涙声になっていた。
「二人が出会った場所で、お母さんが優勝したミスコンで、私が優勝すれば、お父さんもお母さんも昔の気持ちを取り戻してくれるじゃないかって、そんなわけないのに……私は遅すぎたよ。今まで何もしなかったくせに、急にがんばろうとしたってやっぱりダメね」
遅いことなんかないだろ。そう言えたら、どれだけいいだろう。
両親を責めたっていい。責任の放棄を糾弾する権利がある。
それを「私が可愛くないから」「二人に迷惑をかけるから」と言う。
――なんて優しい子なんだろう。
翠は大きな瞳から涙をぼろぼろと零して、
「この丘の裏側に動物園があるの。結構大きな動物園で、私が小さいときはよくお父さんとお母さんと三人で行ったんだよ。広い園内を一日かけてゆっくり回るの。当時ちょうど白熊が他の動物園から来てた。元から一頭いたんだけど、二頭になってオスとメスの両方になったからたくさんの人が白熊を見に来てた。白熊見たことある? 大きくて、ふかふかなんだよ。でも近くで見るとちょっと怖くて、お父さんの後ろに隠れたら大丈夫って頭撫でてくれた。そのときは真夏の暑い時期で、飼育員の人が白熊のいる水場に氷の塊を持ってきたんだけど、それでも白熊は暑そうにしてて、ちょっとだらしないの。お母さんと一緒に休みの日のお父さんみたいって笑って。お昼はお母さんが作ったお弁当を食べたわ。私の好きなタコさんのウインナーとうさぎのリンゴが入ってるの」
楽しそうに話す翠を見て、結ノ介は胸が苦しくなる。
「ちょっと遠いんだけど、遊園地もあるんだよ。お父さんとお母さんが高校生のときにできたらしいの。初めてのデートで行ったって教えてくれた。せっかく二人きりなのに、お父さんはお母さんの手も握れなかったんだって。私の十歳の誕生日に連れて行ってもらったわ。二人ともここはあの頃と変わらないって言って、笑い合ってた。高い乗り物とか早い乗り物は私が怖がるから、三人で楽しく乗れるのを選んでくれた。手を繋いで、私が真ん中なの。遊園地の広場にはアイスクリーム屋さんがあって、それがすっごくおいしかったなぁ。帰った後、お父さんがプレゼントをくれたの。商店街におもちゃ屋さんがあって、そのときの私と同じくらいの大きさの白熊のぬいぐるみ! 私が動物園の白熊を見て、あれ欲しいってねだったの覚えててくれたの。私はその子を抱きしめて眠った」
翠はどこか夢見るような瞳で話し続ける。
「お母さんはよく歌を歌ってくれた。昔流行った歌謡曲。私はお母さんの歌が大好きで、曲の名前も歌手の名前も分からないんだけど、お母さんの真似をして一人で歌ってた。私が歌うとお母さんは手を叩いて上手、上手、って褒めてくれたの。中学生のとき、二人とも遅い日は晩御飯を一人で食べて、日に日に家の中が静かになっていく感じで、3LDKの部屋が他人の家みたいなの。一人で寂しいときは白熊を抱いて、歌を歌って二人の帰りを待ってた。リビングが広く感じて、床が冷たいの。すごく、震えるくらい冷たくて」
翠はスマホで時間を確認する。
「やっぱり六時過ぎてる」
「何かあるのか?」
「夕方の六時になると遊園地の観覧車にライトがついて、輝きながら回るの。その後パレードがあってね、幸せの国の王子様とお姫様とそこで暮らしてる人が大きな船に乗って、メインストリートを進んでいく。皆私たちに向かって手を振ってくれた。幸せの国の人は皆笑顔で、悪口を言ったり、嘘吐いたりしないし、人の嫌がることもしないの。皆仲良く楽しく暮らしてる、そこで暮らす人は、お城から王国の住民の証としてもらえる宝石を洋服の一部につけてて、それと船の七色のライトがぴかぴかいっぱい光って、きらきら輝いてて、夢みたいなの。全部、ずっと、永遠に輝いてるの。三人で、お父さんとお母さんと私とで遊園地に行けば、あの頃に戻れるはず。何も変わらない。私はそこで、ずっと――」
翠がこの場所を選んだのは、きっと街を一望するためだ。
翠が生まれて、育った街を、思い出が溢れるこの街を眺めるために違いなかった。
過去から去来した風景をその瞳に映しているのかも知れない。
幸せの国、それは彼女の理想の世界。
黄昏はものの輪郭を曖昧にしていく。
街を炎で溶かし、人の形さえ変えてしまう。
結ノ介がふいに翠を一瞥すると、翠が立っていた場所で、幼き日の翠が目を輝かせながら遠くを眺めていた。
見間違いだろうと思い、目を擦ってもう一度彼女を見ると、寂寥を纏う翠だけがいて、彼女がただの夢見がちの少女ではないことを知る。
翠は顔をしかめ、辛そうに小さな唇を結んでいる。
彼女が臨むパノラマは、淡い希望、いや叶わぬ期待。
翠は涙を制服の袖で拭いながら、
「話せて良かった。私はあなたのこと、友達だと思ってるから。秘密にしていることがあるうちは、友達とは言えないと思うから。もう最後だから」
友達――ずっと恐れていた言葉だ。
俺はバカだ、結ノ介はそう思った。
友達かどうかなんてことは、考えて決めることではなく、一緒にいて感じることだ。
それは前に黒凍に言ったことでもある。
今更この関係が、ただの協力関係です、と割り切れるのか?
例えばミスコンが終わった後、お互い名前も知らなかったときのように無関心でいられるのか。
もっと一緒にいたい、ずっと仲良くしていたいと思ったら、それが、それこそが、唯一の友達の証だ。
別れを知ってからそれに気づくなんて、本当にバカだ。
友達だと認めたら、独占欲とか優越感とか余計な感情が邪魔して、翠の目標を阻害すると思っていた。
でも実際には、そんな感情よりも、彼女が喜ぶ結果になってほしいという気持ちの方が圧倒的に膨れ上がっていた。
それが答えだったんだ。
「俺が黒凍に協力した理由は――」
「いいの。私にとっては重要じゃない。この景色をあなたと見られて良かった。この景色を思い出すときは、必ず私が側にいたことを思い出してもらえると思うし、あなたが側にいたことも思い出すから」
幸せの国は、何も変わらない世界だ。
何かないのか? 変わらないもの――。
「翠」
結ノ介がそう言うと、翠は驚いた表情になった。
「俺は今から黒凍のこと、翠って呼ぶ」
翠の両親が離婚してしまえば、苗字は変わってしまうかも知れない。
翠という名前は、変わらない。
翠は結ノ介に名前で呼ばれ、照れくさそうに笑った。
「ありがとう。結ノ介」




