二十五話
「灰半にはまだ話してないんだよな、今日話に行くのか? 俺もついて行こうか?」
「ううん、一人で大丈夫」
翠は夜子のバイトが終わる時間を狙って、会いに行こうと考えているらしい。
その時間まで二人は、西の空の端に太陽が沈んだ後も、眼下の景色を眺めていた。
翠が突然「あっ」と声を漏らして、上空を指差した。
見上げると、大気に流星痕が刻まれていて、流れ星が駆け抜けたのだと分かった。
大気に残る光の筋はすぐに消えてしまった。
翠はしばらく双眸を閉じ、そのままの姿勢でいた。
願い事をしているのかも知れないし、願い事を考えているのかも知れなかった。
結ノ介が「翠」と呼ぶと、おもむろに顔を向けた。
「決めるのは翠だよ。まだ言いたいことがあるなら、言えてないことがあるなら、ちゃんと言った方がいい。後悔するよ、それが譲れないものならなおさら。怯えても、迷っても、最後は決めなきゃいけない。そうしないと、本当に欲しいものは手に入れられない。それだけは、諦めちゃダメだ。知ってるか? 運命の外でも、人は幸せになれるんだぞ」
ずっと一緒にいてやる、なんて言えない。
でも、伝えておきたいことを伝える。
だってもう会えないかも知れない。
会えなくなってからじゃ遅いんだ。
結ノ介は翠に幸せになってほしいと思う。
それが結ノ介の願いだ。
「もう少しの間、よろしくね。結ノ介」
翠が笑ってくれた。
なんて素晴らしいことだ。
翠とは、展望台の下のバス停で別れた。
結ノ介が部屋に帰ると、まもなく麗がやってきて、一緒に食事を摂った。
キッチンに立つのが億劫で、手間のかからない料理にした。
箸が進まず、味もよく分からなかった。
そうか、自分は単純にショックを受けているんだ。
翠が両親の離婚を簡単に言おうとしたように、結ノ介も翠の引っ越しを取るに足らないことだと思おうとした。
本気で傷ついている可哀相なやつになりたくなくて、悲しい現実を認めたくなくて、これは別にたいしたことじゃないと、無意識に思い込もうとしている。
食器を洗いながら、次に翠と会ったときはちゃんと悲しもうと思う。
強がってカッコつけて、翠との別れをたいしたことじゃないことにしたくない。
虚勢と気丈に振る舞うことは、たぶん違う。
良いことも悪いことも受け入れて、その上でちゃんと別れの言葉を交わそう。
インスタントのコーヒーを二人分淹れ、麗にカップを渡すと、お礼を言って受け取った。
麗はタブレット型の端末を膝の上に乗せ、ミスコンのページを開いていた。
ネットの掲示板でミスコンの暫定人気投票が出ている。
翠は依然として低い順位だ。
しかし、結ノ介は、この順位は本番で必ず大きな変動を見せると確信している。
麗は画面をスクロールさせ、出場者の写真を一人ずつ見ているようだ。
「ミスコンに出る子たちは、みんな輝いてるね、僕には眩しいよ。ねぇ、結ノ介、おかしなことを言ってもいいかな?」
麗は結ノ介が頷くのを待ち、
「小学校の卒業文集で人生の予定表を書いたんだ。何歳のときにどうなるみたいな。例えば二十二歳で就職、二十五歳で結婚、二十七歳で子どもが生まれる……それが自らの死まで書かれている。僕は自分の限界を知っているつもりだから、平凡な表が出来上がった。何の特徴もない、どこにでもありそうな、それが僕のである必要のないような、ね。僕はそれの通りになることがどうしようもなく怖いよ。なんてつまらないんだろうと思ってしまう。あるいは朝起きて、その日一日を想像する。登校して授業を受けたり友達と喋ったりして家に帰る。夕飯を食べてお風呂に入って眠る。自分の予想の枠を外れない、予想以上のことが起こらない毎日。それが繰り返される、反復の日々。ただ一切が過ぎていく。それがなんかね、嫌、なんだ。そして、怖い。だから僕はときどき、予定から故意に外れようとすることがある」
麗は自嘲するように微笑み、
「僕は普通でいたくないんだ。傲慢だよね、とんでもない贅沢だ。だって、それは普通には価値がないと言っているようなものだから。僕は罪を犯している、大罪だよ、そしてこれは冒涜だ。もう長い間ずっと自問している。僕は一体何様なのかと。きっと僕が考えているようなことは、多くの人が直面して、通過しているのだろう。だからこんなことを考えてる僕って特別、だなんて思わない。特別じゃないけど、一般的とも違う。おそらく僕くらいだよ。どうにもならない現状を理由に、斜に構えてニヒルストを気取ってるのは。あぁ、嫌だな。これがずっと続くんだと思うと、本当に嫌になる、本当に」
普通でいたくないというのは、分かる気がした。
「小学校の低学年の頃、僕の髪はとても短かった。よく男の子と間違われた。だからね、試に男の子の振りをしてみた。子供の遊びとして。体つきや声の調子に男女の差なんかまだない時期だよ。男の子の振りは上手くいった。誰も男と偽る僕の性別を疑わなかった。妙な感じだった。違和感、でも決して嫌じゃなかった。どう表現すればいいんだろう、高揚感と言うのかな。稚拙な言い方だけど、うきうきとかわくわくという感覚に近い。秘密を持って往来を歩くんだ。誰もそのことに気づかない。両親に戒められて男の子の恰好をするのはすぐにやめたけど、それから別の方法を探した。あのうきうきとわくわくを感じる方法、あの違和感、あの高揚感を求めて。それは意外と簡単に見つかった。女の子の恰好のまま自分のことを僕と言った。初めは前と同じように知らない人に言ったから性別を聞かれた。女の子ですと答えたら、変わった子だねと言って可笑しがられた。今度は知ってる人に言ってみた。皆変なのーと言って笑った。それからだよ、一人称を僕にしたのは。僕は家にいるとき以外、自分のことを私と言わなくなった。僕の発育が悪いのはそのせいじゃないかと思っているよ、まったく滑稽だ」
麗は肩をすくめて見せた。
「当時は気づかなかったけど、今ならよく分かる。僕は特別になりたかった。それは今も変わってない。普通でいたくないくせに、他人の目は気になる。本気で好奇の目には晒されたくない、だから適度で都合の良い変わり者を演じている。学校で変な人のふりをしてるとね、すごく気分がいいし、楽なんだよ。あいつだからしょうがないって、あいつちょっと変だから、自分たちと違う言動をすることがあるって、特別視されてるみたいに感じるんだ。それがたまらなく嬉しいんだよ。つまらない人間だよ、僕は。卑怯で、どうしようもなく凡人だ。僕はただ目立ちたいだけなんだ。きっとそれが僕の全てだ。そして、この告白すら、計算に入っている。保身のための弁解に過ぎない。僕は看破されたくないんだよ、だから先回りして自分を客観的に批判する。そんな自分は視野の広い上等な人間だと心の中では思ってる」
結ノ介には、麗が言っていることがほとんど分からなかった。
「君とはいろいろな話をしてきたね。もう僕の言うことは信じないでくれ。今まで僕が君に話してきたことの一切は、実は嘘で、本当はたった一つの不満があるだけなんだ。僕が小難しいことを言うのは、不満があってぐずぐずしていると思われるのが嫌だからなんだよ。不満を隠して、さも難解な、もっともらしい理由で悩んでるふりをしてるんだ。そうすれば他人から見下されたり、非難されたりしないで済むからね」
麗は結ノ介を控えめに見つめる。
「僕は望みすぎてるのかな。僕はどうしてこんなおかしなことばかり考えてしまうのだろう、なんでこんなふうになってしまうんだろう、僕はどうしてしまったのだろう」
「前にも言ったけど、俺は麗の考えてること全部を理解できるって言うほど、思い上がってないつもりだ。だけど麗が、俺が理解できないことで悩んでるってことは、分かっていたい。写真のこと、本当にありがとう。麗は自分に余裕がないときでさえ、俺に気を配ってくれた。それがすごく嬉しかった。麗が俺のためにいろいろしてくれたように、俺も麗のために何かしたいよ」
「もう十分してもらってるよ」
「俺はまだし足りないと思ってる」
「際限がないよ」
「そうだ。きりがないし、そもそも始まりさえなかった。俺たちはお互い見返りを求めて仲良くなったわけじゃない。仲良くなってから、お互いが勝手にお返しを考え始めただけだ。最初は、気が合うから、居心地がいいからって、そんな感じでお互いに仲良くなった。そんなもんは考えることじゃなかったはずだ。それは実はすごいことだろ。そういうやつがいるってのは、それだけで幸せなことだよ」
結ノ介は麗を見つめる。
「俺は麗といると楽しい、もっと一緒にいたいよ。ただの目立ちたがりでも、ただの女の子でもいいんだ」
麗は顔を伏せ、固まってしまったが、しばらくして、
「僕にとって結ノ介と部屋が隣になったことは、運命だと思うよ。君の言う通りだ。世界にただ一人でも、自分のことを考えてくれてる人がいるというのは、嬉しいことだね」
苦悩のすべてを分かり合えなくても、苦悩していることを理解してくれる人がいれば、それだけでいい。
もしかしたらそれがすべてなのかも知れない。
「一つだけいいか」と言って、結ノ介は携帯のカメラで麗を撮影する。
レンズを向けると、麗は「なに?」と可愛く小首を傾げた。
「反復なんてことはないぞ。だって、同じ瞬間なんてないだろ。今だってそうだ。二度と繰り返しの効かないこの瞬間は、一回限りなんだぞ」
シャッターを切った。
嬉しそうに笑う麗が写っている。
撮った写真を見せながら、
「毎日はただの連続なんかじゃない。何もしなかったらループするように日々が過ぎていくかも知れないけど、そいつ次第で良くも悪くもなるよ」
麗が「猫」と呟き、
「公園の猫のこと、覚えているかな」
「あぁ、あの子猫のことだろ」
「あの猫の名前ね、まだ決めかねてるんだ」
そろそろ考えないとね、と言って、麗はベランダの向こうを見た。
「ねぇ、もう少しすると雲から月が現れるよ。今夜の月はね、きっといつもより綺麗だよ」
そして、まるで恋する少女のように微笑んだ。
「僕はずっと、そう、君に言いたかったんだ」




