二十三話
翌日の放課後、灰半に渡したファイル以外の資料を返すために、写真部の部室に向かっていた。
蒼空にメールでその旨を伝えると、「お待ちしております」と返ってきた。
ファイルの入った学生鞄を携えて歩きながら、今朝のことを思い浮かべる。
よく晴れた早朝は、雨上がりの大気がきらきらと輝き、通学路には水たまりが点在していて、その一つ一つが澄み渡った空を映している。
何か良いことがありそうな予感を抱きながら、下駄箱で上履きに足を入れていると、ちょうど夜子が登校してきた。
挨拶を交わした後、一緒に教室へ移動する。
予感が当たったなと気を良くしつつ、PRが歌に決まったことや、夜子の買い物が上手くいったこと、例のドレスを昨日の夜、翠から受け取ったことなどを話した。
楽しい時間だったと頬が緩みそうになるのを堪えて歩いていると、後ろから「五野さん」と名前を呼ばれた。
振り返ると、蒼空が嬉しそうに歩み寄ってきた。
結ノ介は資料の入った鞄から持ち上げ、
「これ、持ってきたよ」
「例のブツですね」
結ノ介が声を潜め、「ここじゃ、まずい?」と聞くと、蒼空は周りを見渡し、
「五野さん、気を付けてください。どこから狙われているか分かりませんので」
「腕利きのスナイパーでもいるの?」
「肉眼では確認できませんが、その黒く冷たい銃口があなたの額に照準を定めているはずですよ」
ぐっと近づき、結ノ介の額を指差す。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、頭がくらくらする。
「狙われてるのは俺だけなの?」
「私は安全対策万全ですから。懐に分厚い雑誌を忍ばせておりますし、額には鉄板を入れております」
蒼空は前髪を上げ、可愛らしいおでこを見せた。
「何やら物騒だな」
「そんなことを言っていては、危機管理能力がないと世間様の失笑をかってしまいますよ。この世界は危険なもので溢れています。諜報員、コマンダー、スナイパー、忍者、くの一、フジヤマ、ゲイシャ、ドゲザ、シャコウジレイ、セッタイゴルフ」
「何の話だよ! スナイパーだけじゃなく忍者もいるの?」
「天井裏とか換気管に、よく忍んでますよ。それはもう見事に」
蒼空は手裏剣のジェスチャーをした。
「殺伐とした学校だな」
「でもそう考えた方が、楽しいじゃないですか」
そうかもな、と結ノ介は少し思った。
「資料なんだけど、後一冊は、まだ借りといていい?」
「もちろん、大丈夫ですよ。参考になりそうですか?」
「すごく助かったよ。これが無かったら今頃どうなってたか。本当にありがとう」
「それは良かったです、お役にたてて嬉しい限りです」
蒼空はにっこりと笑った。余裕があって上品な笑顔だ。
彼女の振る舞いは洗練されていて、優雅に見える。
じっと見ていると、「どうかしました?」と聞かれた。
「ミスコン出たらかなり良い線いきそうだよね」
「それって口説いてるんですか?」
「いや、そういうわけじゃ、」
と慌てて否定すると、
「そうですよね、私なんかを口説いてくださるわけないですよね」
蒼空は両手で顔を覆い、泣く素振りを見せた。
「違うって、あ、いやだからって口説いてるわけじゃないんだけど、下心じゃなく、可愛いし愛想もいいからモテそうだなって思ったんだ、一般的にね」
言い訳するように説明すると、蒼空は「ありがとうございます」と瞬時に笑顔に戻り、結ノ介はからかわれたのだと分かる。
「でも、異性からモテたことありませんよ。男性とお付き合いしたことありませんし」
「それは意外だな。彼氏がいてもおかしくないけど、あ、女子校だったとか?」
「ずっと共学でしたよ。今のクラスではほとんど男の子から話しかけられませんし、どうやら私は相手にされてないようです」
「それは単に高嶺の花と思われてるんじゃないかな」
結ノ介も麗という接点がなかったら、こんな風に話すことはなかったと思う。
「私そんなに話しかけづらいですか?」
「悪い意味じゃないけど、緊張するかな。引け目っていうか、どこかのお嬢様っぽいし」
「どこかのお嬢様ですよ」
「そうなの?」
「この学校に来るまではずっと、エスカレーターの私立だったんですよ」
蒼空が口にした学校名は、この街にある有名で名門の学校の名前だった。
「じゃあなんでこの高校に?」
所謂お嬢様が公立の学校に通うということは、何か事情があるのかも知れないと思い、
「ごめん、家庭のこととかは不躾だよね」
「いえ、そんな深刻な話ではないんですよ。どこから話しましょうか」
蒼空は少しの間考え込んだ後、
「私の母はトロフィーワイフなんです」
「トロフィーワイフって、確か成功した男性が権力とか財産で、社会的な地位を見せつけるために迎える妻のことだよね」
何かの小説で読んだ知識だ。そんなものがあるのかと覚えていた。
蒼空は首肯し、滔々と話し始める。
「母はとても美しい人で、大らかな性格をしています。人当たりが良くいつもにこにこ笑っていて、資産家の父やお屋敷の使用人の方たちから大事にされています。仕事をする必要がありませんし、父の言い付けで家事をすることも禁止されています。私の育児ですら、させてもらえなかったと言っていました。授乳と、ただ成長していく私の頭を撫でることが、母の母親としての行為だったのかも知れません」
結ノ介は、自分とは違う世界の話だなと思いながら、耳を傾け続ける。
「今は毎日一日中広いリビングの大きなふかふかのソファに座って、お手伝いさんの淹れた高級な紅茶を飲んでいます。いつでしたか、母は自分の人生を幸せで退屈と漏らしていました。母の生家は日本有数の名家ですから、生きてきて苦労というものをしたことがないのだそうです。私は母の漏らしたその言葉がずっと心の片隅に残っていました」
蒼空は少し、憂鬱そうな表情になり、
「そうして私が中学生一年生のある日、いつものように送迎の車に乗って外の景色を眺めていたときのことでした。ふと、私と母は同じだなと思ったんです。毎日登下校は車で送迎してもらっていて、そういう生徒は珍しくなかったので、それが普通のことだと考えていたのですが、その普通が退屈だなと思ったんです。それまでの私の生活は、エスカレーターのため、幼稚舎から大学のキャンパスまで同じ敷地内で授業を受けるのですが、そのせいでずっとほとんど同じ場所、時間に登下校していたのです。車内から見える景色はいつも似たような印象で、それがちょっと嫌になって、私脱走したんです」
そう言って、可笑しそうに微笑む蒼空。
「使用人たちの目を掻い潜るのは骨が折れましたが、中学一年生の私は、何とか脱走することに成功しました。この街に、三年前完成した展望台があるのはご存知ですか?」
「知ってるよ。高い展望台ができるって、ちょっとした話題になったな。隣県に住んでた俺の耳に届くくらいの騒ぎっぷりだったし。実際に行ったことはないけど」
展望台はここからそう遠くない場所にある、小高い丘に建設された。
誰でも無料で入ることができる。
「脱走したとき、行先を決めていなかったので、私は以前から興味を持っていたその展望台に行くことにしました。遅い時間で私の他には誰もいませんでした。そこからは私が住むこの土地の街並みが一望できて、遠くに私が通っている学校が見えました。ふと焦燥感のようなものを覚えました。私の世界はなんて閉じられていたのだろう、と」
蒼空は目を瞑り、当時を思い出しながら、
「しばらく展望台を歩き回っていると、展望台の先端に設置された望遠鏡の側に人が立っているのを見つけました。暗がりでよく見えなかったのですけど、可愛らしい恰好をしていたので女の子だと分かりました。こんな時間に何をしているのか聞こうとして、それはお互い様だと思い直し、『何か星座は見えますか?』と聞くと、その子は『UFOは見えないよ』って言ったんです」
「UFO?」
「はい。面白い人だと思いました。それから二人で星空を眺めながら、お話をしました。私たちはお互いがどこの誰かということは聞きませんでした。何だか野暮に思えましたし、何より必要がなかったのです。ただ家のこととか親のこととか、お互い大変だよねみたいな、そういう理解だけがあって、親しい人にも言えないことも不思議と話せました。内容も覚えてないくらいの他愛のない話もしましたけど」
心底楽しそうに話す蒼空。
「彼女と別れた後、やっぱり名前くらい聞いておけば良かったと少し後悔して、すぐに意味がないと思いました。だって私たちは再会の約束さえしなかったのですから。展望台を下りたところで、私は大捜索していた使用人たちに見つかり、お屋敷に連行されて、頭に血が上った父にこっ酷く怒られました。その後は私への監視が厳しくなって、しばらく外出さえままならない状態が続いて。謹慎が解けてから、未練たらしく何度か展望台に行ったんですけど、結局あの子とは一度も会えませんでした」
「それは、残念だな」
「中学三年生になって、私は父にこの高校に進学したいと言いました。ここがあの展望台から、一番近い学校だったから。あの子は小柄でしたが、会話の内容と話し方から年上かなと思いました。年上でも年下でもどちらでも構いませんでした。もし会えたら、同級生として入学しても、すでに先輩として在校していても、私が先輩として迎えても、どれでもいい。父はもちろん大反対しましたけど、そのとき母が強く賛成してくれたんです」
蒼空の頬が綻んだ。
「この子の好きにさせて下さい、と頭を下げて。私が知っている限り、母が父に何か意見を主張したのは後にも先にもあのときだけでした。母の熱心な説得に、父が折れてくれて、私の希望は通りました。冗長になりましたけど、これが私がここにいる理由と経緯です。よく分からない話を聞いてくれてありがとうございました」
蒼空は深々と頭を下げた。
「いや、少しだけ分かる気がするよ。居ても立ってもいられなくなる、一度それに気が付くと、それまでの平穏が全部嘘、っていうか安全で心地いいけど、偽物っていうか。多少リスクがあっても飛び出した方が良い気がするんだ」
「そうなんです!」
蒼空は飛び上がって喜び、結ノ介の手を取った。
細く柔らかい指に力が込められている。
「同じこと考えてる人がいると嬉しいです! 間違ってないって言われたみたいで。だから、ありがとうございます!」
「いや俺は何も、」
あまりに真っ直ぐな感謝に、結ノ介は照れてしまう。
蒼空は声を弾ませて、
「私、今すごく楽しいんです。この学校に入って良かったです。登校するときにいつもと違った道を通ったり、桜雲を立ち止まって見上げたり、そのときにこういう景色を見たかったんだなって思います。こうしてあなたとも知り合えました。全部、運命の外で起きたこと。まだまだ私の世界は狭いですけど、これからもっと広げていきます。だからあなたも大丈夫ですよ」
二人目だった。大丈夫って言ってくれた。
この子の言うことは信用したいと思った。
蒼空と別れたとき、スマホが振動した。
差出人に翠の名前。本文にはこう書いてあった。
放課後、この街の展望台に行きませんか。正門で待っています。




