十一話
三人が辿り着いたのは、小さな公園だった。
白いベンチに翠を腰掛けさせると、自力では体を支えきれず、ぐったりと倒れそうになる。
見かねた結ノ介が、ベンチに慎重に横たわらせた。
すぐ近くに設置してある自動販売機で飲料を買うことにした。
麗はよく分からないメーカーの珍しいジュースを選んだ。
結ノ介は自分の分のスポーツドリンクを選び、
「黒凍、何がいい?」
水を向けられた翠は、息も絶え絶えに、
「…………甘いの」
「漠然としてるな」
水とお茶を除外し、無難に缶のリンゴジュースにする。
「ほれ、飲めるか? 無理そうならここに置いとくから、回復してから飲めよ」
「ううん、今飲む」
翠はゆらゆらと起き上がり、缶ジュースを受け取る。
二人の手が触れる。
翠はじっと自分の手を見ていたかと思うと、ちらちらと結ノ介の手を盗み見た。
「開けようか?」
「いい、大丈夫」
翠は結ノ介の申し出を断り、プルタブを開けようとするが、指がぷるぷると小刻みに震え、上手く開けられない。
何度も試みるが、結果は変わらなかった。
「何やってんだよ、貸してみ」
翠の遠慮に付き合ってたら、翠がジュースを飲めない。
結ノ介はプルタブを開けて、手渡す。
翠は缶を受け取ると、こくこくと喉を鳴らして飲んだ。
それから一つ大きな息を吐き、
「……これ、ありがとう。開けてくれたのも」
「気にすんな」
結ノ介もベンチに座る。
ペットボトルを持つ自分の手と、翠の手がさっきまで繋がれていたんだなと何となく思う。
肌の感触がまだ残っている。
灰半と手なんか繋いでしまったら、歓喜と緊張で舞い上がってしまって、どうなるか分からない。
「逃げるとき、手、ごめん」
手を握るという行為が、急に恥ずかしくなり、ぎこちない日本語になる。
翠は缶に口を付けながら、ごにょごにょと、
「……別にそんなこと気にしてないけど。仕方ない状況だったんじゃないの」
「そうか。ならいいけど」
「うん、いい」
沈黙の時間が流れる。
そう言えば麗はどうしてるのかと思い、辺りを見回すと、自動販売機の向こうにしゃがみ込んでいた。
結ノ介は立ち上がり、
「何してるんだ」
「僕の友人がいるんだよ」
「友人?」
「彼だよ」
公園を生活の拠点にしているおじさんじゃないだろうなと思い、麗の視線の先を見る。
自動販売機の影から、何かが飛び出してきた。
茶色い子猫だった。
首輪を付けていないので、野良猫だと分かる。
「友人って、こいつのことでいいのか?」
「そうだよ。この小さな友達とは、少し前に知り合ったんだ」
この子猫がいるから、麗は休憩場所にこの公園を選んだのだろう。
麗は子猫の頭を撫でつつ、
「出会って以来、不定期だけどよく会いに来てるんだよ。目下のところ、彼の名前を考えているんだ。いつまでも名無しでは不便だし、『ねこ、ねこ』と呼ぶのは無体だからね」
そして、子猫を自分の顔の位置まで抱え上げ、
「吾輩は猫である。名前はまだない」
「夏目漱石はあまり読まないよ」
「それは残念」
子猫を下ろし、
「第一候補は、ピートがいいかなと思っているんだけどね」
「夏への扉、か」
ベンチに腰かけている翠が小首を傾げ、「ピート?」と言う。
麗が答える。
「夏への扉を探し続けた、勇敢な猫の名前だよ。彼はタイムスリップをしたんだ」
結ノ介が「海外の小説だよ」と付け加える。
子猫は麗の足元にすり寄り、ごろごろと喉を鳴らした。
麗に懐いているようだった。
翠は羨ましそうに麗と子猫を眺めている。
「猫好きなのか?」
「どちらかと言えばね」
結ノ介の質問に、そう答えた翠は子猫の一挙手一投足に目を奪われている。
どちらかと言えば好き、というレベルではないように見える。
麗は猫の顎の下をくすぐりながら、
「猫というのは、人間の良きパートナーとしていつも傍らにいる。その聡明さもそうだが、何より愛らしい。彼らはときに僕たちの愛をするりと躱してしまう。僕たちは彼らのきまぐれにいつも翻弄される。猫が僕に背中を見せるたび、またかと落胆する反面、まだこの関係性を続けることができるという思いも生まれる。そしてそれを嬉しく感じる。彼らがもしもっと従順だとしたら、僕たちはそれほど執着を持たないかも知れない。追いかけているときが、最も楽しいのかも知れないね」
結ノ介は子猫を見下ろしながら、
「その感覚は分からなくもないけど、俺はやっぱり振り向いてほしいな。背中ばかり見るのは辛いだろ」
「そうだね。僕は猫が好きだけど、それは二元論の範疇を出ない」
翠が子猫に近寄り、恐る恐る手を伸ばす。
子猫は素早く麗の背後に隠れてしまった。
「うぅ……」
翠は眦にうっすらと涙を浮かべ、悲しそうに呻く。
その姿を見ていた麗は、
「そう言えば、さっきは話の途中だったね。コツだっけ?」
翠は顔を上げた。
「あ、そうだった、教えてほしい」
麗はゆっくりと話し出す。
「人と仲良くする方法、それはね。あなたと仲良くしたいですと思いながら、笑顔で話しかけることだよ。それだけだ。今から知ったようなことを言うけど、許してね。世の中には本当に多くの人がいて、それぞれ相性というのがあるから、皆と仲良くというのは難しい。僕と仲良くしてくれる人がいるように、仲良くしてくれない人もいるから、そういう人とは相性が悪いんだと割り切っている。どうしても仲良くできない人や、僕に悪意を持つ人とは仲良くしない。だから僕は基本的に、僕と仲良くしてくれる人と仲良くしようと思っている。向けられる好意にだけ、同じ好意を返している。僕の主義と言っていい。ただ、コミュニケーションについて考えたとき、相手も僕と同じような姿勢でいるんじゃないかと思ったんだ。つまり、僕が相手にとって、自分と仲良くしてくれる人になれば、僕は受け入れられる人になる。そこで重要なのが、初対面の人を相手にするときじゃないかな。どんな友人とも必ず初対面を経験している。そのときにコツを強く意識するようになった。あくまで僕の考え方だけどね」
翠は麗の言葉を、頭の中で反芻しているようだった。
「……私にもできるのかな」
「誰にだってできるよ、もちろん黒凍さんにも」
翠は口を閉ざし、俯いてしまった。
誰にだってできる。
この言葉が引っかかっているのだろうか。
翠にとって、「誰にでもできること」は、「私にはできない」と同義になっているのかも知れない。
子猫は相変わらず、麗の足元でくつろいでいる。
翠は不安そうな顔で、子猫を見つめた。
辺りが急に明るくなった。
さきほどまで暗くてよく見えなかった公園の細部の輪郭が、はっきりとは言えないが、浮かび上がってくる。
街灯の明度が強まったのではない。
麗が上空を見上げた。
「今日は満月だったんだね」
結ノ介と翠も、麗に倣った。
空には、綺麗な円を描く月が煌々と輝いていた。
ここ最近ずっと空を覆っていた雲が、ゆっくりと千切れていき、隠されていた満月が姿を現したのだ。
結ノ介が翠を見やると、彼女は笑っていた。
とても自然に、とても無邪気に。
こちらの視線に気が付き、目が合う。
「綺麗だね」
初めて見る表情だった。
すごく可愛いと思った。
結ノ介にこの感情が生じたのは、引っ越してきてから三回目だ。
一回目はこっちに引っ越してきてすぐ、学生アパートのお隣さんに挨拶に行ったとき。
二回目は入学式の後、同じクラスの隣の席の子を見たとき。
「そうだな、綺麗だな」
月を見て綺麗だと思う。
出会ったときは、水と油のように混ざり合うことがないと思った。
でも今はこうして、同じように天蓋を見上げ、同じ気持ちを共有している。
初めてこの子と同じ風景を見ているのだと思った。
今なら聞ける。




