第98話 はじめての血
睨み合いの均衡を、先に破ったのはガディウスだった。
ある朝、鴉が餌の道にも、本命の道にも現れなかった。代わりに、糧道から離れた小さな村の外れで、ひとまとまりの軽騎が動いた。村に蓄えられた帝国の予備の糧を、まとめて奪いに来たのだ。守りの薄い、ザインの読みの網からわずかに外れた場所だった。
「外された」
報せを受けたザインは即座に隊を動かした。読みの網は完璧ではない。穴はある。その穴を、ガディウスは辛抱強く探し当てた。狩人の将らしい一手だった。だが奪われてから嘆いても遅い。ザインは半数の兵を率い、村への近道を駆けた。
「囲んで討つのではない。追い払う。村を焼かせるな」
村が見えてきた。鴉の軽騎が糧倉に取りついている。村人が隅で身を寄せ、震えていた。ザインの胸に、かつてマレン村で見た光景が重なった。占領の後の、あの匂い。だが今は将だった。守る側に立っている。
「行くぞ」
ザインの隊が村へ雪崩れ込んだ。鴉は奪う手を止め、迎え撃つ構えを取った。狭い村道で、槍と槍がぶつかる。馬上の鴉と、地に立つ歩兵。間合いの取り合いだった。ザインは先頭で槍を振るい、敵の一騎を馬から引きずり落とした。ガロが続き、バルガが横を固める。混成の隊が、初めてひとまとまりの戦いを見せた。
その中に、ヨナがいた。
守りに置くはずだった若い兵が、今日は人数の都合で前に出ていた。ザインが気づいた時には、ヨナはすでに一騎の鴉と向き合っていた。敵の槍が突き出される。ヨナは無我夢中で槍を合わせ、馬の脇腹を突いた。馬が暴れ、乗り手が落ちる。落ちた鴉へ、ヨナの槍が震えながら伸び――そして、突き刺さった。
鴉が動かなくなった。
ヨナはその場に立ち尽くした。槍の先から伝わる感触に、若い兵の体が硬直していた。初めて人を殺した者の顔だった。ザインにも覚えのある顔だった。マレン村の、あの日の自分の顔だ。
「ヨナ」
ザインは駆け寄り、その肩を掴んだ。
「下がれ。よくやった。あとは俺が引き受ける」
ヨナはうつろな目でザインを見た。何か言おうとして、声にならなかった。ザインはその背を後ろへ押しやり、自ら前へ出た。鴉は村の糧を奪いきれぬまま、頭目の指示で散っていった。深追いはさせなかった。村は焼かれず、糧も大半は守られた。
戦いが終わったあと、ヨナは村の外れでうずくまっていた。ザインはその隣に腰を下ろした。
「気持ち悪いか」
「……はい。手が、震えて、止まらない」
「止まらなくていい。止まったら、その時こそ危ない。人を殺して何も感じなくなったら、兵は獣になる。お前は、ちゃんと震えている。それでいい」
ヨナは膝に顔を埋めた。ザインはその背にそっと手を置いた。慰めの言葉は持たない。この震えは誰かに肩代わりできるものではない。ただ隣に座ることしか、ザインにはできなかった。
陣へ戻る道で、バルガが古参の顔で並んだ。
「あの坊主、堪えるな。最初の一人は、誰でも重い」
「お前もそうだったか」
「ああ。三日、飯が喉を通らなかった。だが通るようになる。それが良いことか悪いことかは今も分からん」
バルガは低く笑い、それきり口を閉じた。慣れること。それは生き延びるために要る。だが慣れた分だけ何かを失う。ザインはその両刃を、自分の身でも知っていた。
その夜、コルネリアがヨナのそばに座った。戦場でだけ饒舌になる女が、震える若い兵に何を語ったのかは知らない。ただ翌朝、ヨナの目から少しだけ虚ろが消えていた。コルネリアはザインに短く告げた。
「あの子、生きる側に戻ってきた。まだ細いけど」
「お前が引き戻したんだ」
「ううん。あの子が、自分で戻った。私はそばにいただけ」
ザインはその言葉を胸に留めた。震えを抱えた兵を無理に前へは出せない。だが後ろに隠し続けても育たない。どこでどう使うか。その匙加減もまた将の務めだった。一人ひとりの心の傷を見て、駒として人として、どう扱うか。分隊長の頃には背負わなかった重さが今は肩に積み上がっていく。
ザインはふと、セドのことを思い出した。北の戦線で散ったもう一人の若い兵。あの時は守りきれなかった。懐の小鳥にそっと指で触れた。今度こそ、と胸の奥で呟いた。だが将の願いと戦場の理は、いつも噛み合うとは限らない。それをザインは誰よりも知っていた。
日が傾き、村の上に二つの月が淡く昇り始めた。大小ふたつの蒼い光が、初めて血に触れた若い兵と、その隣に黙って座る将を照らしている。
ザインは胸の奥で、静かに案じた。ヨナはまだ若い。震えを抱えたまま、次の戦に立てるか。守ってやりたい。だが戦場は、いつまでも後ろに隠してはくれない。
その予感が、ザインの胸を冷たく撫でていった。




