第92話 南へ
任官の翌朝、ザインは後方の都を発った。
来た時と同じ色褪せた外套だった。だが肩には少尉の徽章が新しく光っている。磨かれた石畳を歩くザインを、すれ違う兵がちらと見た。家名なき将校の噂はすでに都を駆け巡っていた。ザインはその視線を意に介さず、ただ南へ続く街道だけを見ていた。
城門でユリアンが見送りに立っていた。
「達者でな。南は激戦になる。ロウガが相手なら、なおさらだ」
「お前も、任地で生き延びろ。いつかまた、盤を挟もう」
二人は短く手を握り合った。後方で得た友は、別の戦場へ向かう。だが家名で測らぬ絆は、距離では切れなかった。
ザインは馬を駆り南の戦線へ向かった。都を離れるほど石畳は土の道に変わり、やがて泥の匂いが戻ってきた。前線の匂いだった。後方の香木よりもこの泥の匂いの方がザインには息がしやすかった。
道すがら、ザインは後方で過ごした日々を振り返った。机の試験、盤上の演習、衆目の審査。槍も矢も飛ばぬ戦だった。だが疲れの種類は前線と変わらなかった。笑顔の裏に刃を隠す者を見抜き、家柄の壁を一枚ずつ読み崩す。あれもまた、ひとつの戦場だった。後方を知ったことは、決して無駄ではない。これから将として立つなら、後方の政治もまた敵の一手として読まねばならない。ボードという男の手口を、ザインは深く胸に刻んでいた。盤の外から伸びてくる手を、もう見落としはしない。
数日の行程の末、ザインは南の戦線に着いた。そこで彼を待っていたのは見慣れた顔ぶれだった。ガレウス将軍の差配で、隊は山の戦線からまとめて南へ移されていたのだ。ガロが真っ先に駆け寄ってきた。
「おう、戻ったか少尉殿。後方でめかし込んだ坊ちゃん共に、ちゃんと勝ってきたんだろうな」
「机でも盤でも、衆目の前でも勝ってきた」
「は。そりゃ頼もしい」
ガロは大げさに肩をすくめ、それから真顔で笑った。バルガが古参の顔で歩み寄る。
「徽章が似合ってるぞ、少尉。だが俺たちにとっちゃ、お前は今も軍曹の頃と変わらん。生きて帰してくれる将だ」
「変わらん。これからもだ」
ティムが目を輝かせ、マルトが無言で頷いた。山を越えた顔ぶれが一人も欠けずに揃っていた。ザインはその顔を一つずつ見渡し、胸の奥が静かに満ちるのを感じた。後方の磨かれた広間では得られなかった、確かな温もりだった。
その輪の中にコルネリアが立っていた。何も言わず、ただザインを見ていた。ザインは歩み寄り、その手にそっと触れた。
「戻った。約束通り、死なずにな」
「……うん」
戦場では雄弁な女が、また言葉を失くしていた。だが握り返した手には、確かな力がこもっていた。ザインは懐の小鳥を取り出し、二人で見つめた。妹へ届ける約束は、まだ果たされていない。だがその約束のために、自分はここまで来た。
その夜、ガレウス将軍が陣へ現れた。痩せた、だが揃った隊を見渡し、太い眉を緩めた。
「よく戻った、ザイン少尉。早速だが任を授ける。南の戦線でロウガが暴れている。帝国の補給路を次々と脅かしてな。お前に一隊を預ける。独立して動け。ロウガの動きを、お前の読みで止めてみせろ」
ザインの目が鋭くなった。任官したばかりの新米少尉に独立指揮が任される。重い責だった。部下の命をすべて自分の判断が背負う。だが逃げる気はなかった。
ガレウスはザインの肩に手を置き、声を低めた。
「平民の少尉に一隊を預けると聞いて、後方は渋い顔をしている。だが俺は実績で人を使う。家柄では、ロウガは止められん。お前なら止められる。そう信じている」
「ご期待に、応えます」
ザインは深く頭を下げた。後ろ盾の将軍が、後方の風当たりを承知で自分を南へ送る。その信に、結果で報いるしかなかった。
将軍が去ったあと、ザインは陣の外に立ち南の闇を見据えた。その闇の彼方に宿敵ロウガがいる。カランド以来、温存されてきた決着の相手。だが本当の決着はまだ先だ。今はまず独立した一隊を率い、初めての将としての戦を生き抜く。
頭上に、二つの月が南の戦野にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、将校となった男と、再び揃った戦友たちを、静かに照らしている。前線でも後方でも、そして南の戦線でも、この月だけは変わらず頭上にあった。
「将としての、最初の戦か」
ザインは低く呟いた。槍一本から成り上がった男の前に、新たな、さらに重い戦が待っていた。




