第91話 任官
審査の数日後、ザインに沙汰が下った。
練兵館の広間で、ローレン大佐が一枚の辞令を読み上げた。家名なき徴募歩兵ザイン、少尉に任ず――その一文が、磨かれた広間に響いた。一兵卒として泥の中に投げ込まれたあの日から、ザインはついに将校の列に名を連ねた。
ザインは辞令を受け取った。紙は薄く軽かった。だがその一枚に幾度もくぐった死と越えてきた壁のすべてが詰まっていた。胸に高ぶりはなかった。あるのは前線で待つ兵たちの顔だった。
将校の列に名を連ねるという実感は、まだ湧かなかった。徴募されたあの日、ザインはただの数だった。点呼で名を呼ばれ、槍を渡され、最前線へ送り込まれる数のひとつ。死んでも代わりはいくらでもいた。その数のひとつが今は人の命を預かる将になる。重さの種類がまるで変わった。槍一本で守れるのは自分の周りだけだった。だが将の判断は隊のすべての命を左右する。誤れば一度に多くが死ぬ。その重さをザインは薄い辞令の上に確かに感じていた。
「おめでとう、少尉殿」
ドレクが不敵に笑った。前線の上官が、初めてザインを階級で呼んだ。
「徴募の頃、お前を拾った時には、まさかここまで来るとは思わなかった。だが今は分かる。お前は最初から、将の目をしていた」
「ドレク殿のおかげです」
「俺は道を示しただけだ。歩いたのはお前だ」
ドレクは肩を叩いた。その手の重みが、長い道のりを物語っていた。
ユリアンも歩み寄った。彼もまた、審査を通り、別の任地への任官が決まっていた。
「君と席を並べられて、よかった。家名で人を測る流儀が、少しだけ揺らいだ気がする。君が前線で証を立て続ける限り、後方の壁も、いつか薄くなる」
「お前も、いい士官になる」
ザインは差し出された手を握った。後方で得た、数少ない味方だった。レイフ・ハルゲンの名は最後まで読み上げられなかった。盤上で敗れたあの貴公子は、審査の半ばで館を去ったと聞いた。
だが祝いの空気は長くは続かなかった。広間を出ると、ボードの取り巻きらしき若い士官が冷たい目でザインを見ていた。
「平民の少尉か。せいぜい気をつけることだ。お前に従う貴族の部下は、心の底ではお前を見下している。命令ひとつ間違えれば、すぐに背を向けるぞ」
ザインは静かに見返した。
「前線で背を向ける兵がいるなら、それは家柄のせいではない。将の力不足だ。俺はそれを、力で埋める」
若い士官は鼻を鳴らして去った。ザインはその背を見送り低く息を吐いた。任官は終わりではなかった。平民の士官への風当たりはこれから始まる。それもまた越えるべき壁だった。
廊下を歩きながら、ザインは前線の隊を思った。ガロもバルガもティムもマルトも、家柄など一度も口にしなかった。共に泥を這い、共に死線を越えてきた。彼らが従うのは、生きて帰してくれる将だけだ。後方の貴族の部下が同じように従うかは、まだ分からない。だが従わせる方法を、ザインは一つだけ知っていた。前線でやってきたことを、そのまま続ければいい。兵を生かす。守り抜く。結果で示す。家名で覆せぬものを、結果は静かに塗り替えていく。それを山で、机で、盤で、何度も証してきた。
その夜、ザインは小さな祝いの席に呼ばれた。ドレクとユリアン、それに審査で世話になった数人だけのささやかな卓だった。
「前線へ戻るのか」
ドレクが問うた。ザインは頷いた。
「すぐに。南でロウガが動いています。一刻も早く、隊のもとへ」
「ガレウス将軍が、お前の任地を南の戦線に望んでいる」
ドレクは声を低めた。
「ロウガの動きを止められる将を、将軍は探している。家柄ではなく、読みで戦える将をな。お前の名が、真っ先に挙がったそうだ」
ザインの目がわずかに光った。任官したばかりの新米少尉に、宿敵と相対する戦線が任される。重い任だった。だが望むところでもあった。前線の戦友たちと、再び肩を並べられる。
懐の小鳥に、そっと触れた。セドの形見だ。将になれ、と遺された言葉がようやく半ば形になった。だが昇るほどに守るべき命は増える。その重みをザインは新しい辞令とともに胸へ刻んだ。
窓の外、二つの月が都の空に澄んでいた。大小ふたつの蒼い光が、将校となった男と、その道を支えた者たちを、静かに照らしている。
ザインは盃を傾けた。後方の戦は終わった。針の穴を、くぐり抜けた。
残るは、前線への帰還と、宿敵の影だけだった。




