第90話 読み勝つ
ボードが、衆目の前で立ち上がった。
「委員長。この者の采配は、口先では見事だ。だが所詮は机上の空言。家名なき者に、貴族の兵が従う道理はない。命令とは、格のある者が発してこそ通る。この者が士官になれば、軍の秩序が乱れる。私は、推薦の取り下げを動議する」
露骨な一手だった。実力で潰せぬなら秩序の名を借りて葬る。広間の貴族たちがボードに同調するようにざわめいた。家柄の壁が最後にして最も厚くザインの前に立ちはだかった。
ザインは黙したまま、その動議を聞いていた。反論しても無駄だと分かっていた。秩序という言葉は、それを操る者に都合よく形を変える。家名なき自分が口で覆せるものではない。だが盤面はまだ動いている。証人が二人、この広間にいる。前線の生の声と、貴族でありながら理を解する声。その二枚の駒が、まだ盤の上に残っていた。ザインは静かに、その二枚が動くのを待った。
その時、ドレクが証人席から進み出た。
「お言葉ですが、ボード委員」
前線の上官の声が広間に低く響いた。
「私はこの男の隊で共に槍を握ってきた者です。この男の命令に貴族の兵が従わなかったことなど一度もない。なぜか。この男の命令が兵を生きて帰したからです。格ではない。結果が兵を従わせた」
ドレクは広間を見渡した。
「皆様は家の格が兵を動かすとお思いか。前線では違う。矢の下で兵が振り向くのは自分を生かす将の声にだ。この男は糧を断たれても一人も死なせなかった。それ以上の格が、どこにありますか」
広間が静まった。前線の生の言葉が磨かれた広間の空気を一瞬で塗り替えた。
続いて、末席からユリアンが立ち上がった。家の格の低い、痩せた三男だった。
「私からも申し上げます。私はこの十日この男と席を並べました。机でも盤でも一度も勝てなかった。家名で人を測るなら私はこの男の上にいる。だが戦の理で測れば、私ははるかに及ばない。秩序とは家名を守ることですか。それとも、最も兵を生かせる者を将に据えることですか」
貴族の青年が、貴族の流儀に異を唱えた。広間のざわめきが、潮目を変えていく。
ローレン大佐が、ゆっくりと立ち上がった。
「動議は退ける」
その一言が、広間を貫いた。
「ボード委員。お前はこの十日、あらゆる手でこの男を試した。机で、盤で、不利な実地で、そして衆目の前で。だがこの男は、そのすべてを越えてみせた。我らが課したすべての壁を。それを潰すのは、審査ではない。私怨だ」
ボードが顔を赤らめ、何か言いかけた。だがローレンの目が、それを許さなかった。
上座のヴェイル将軍が、ゆっくりと腕をほどいた。しばらくザインを見据え、それから低く言った。
「……ローレン大佐。お前がそこまで言うなら、止めはせん。だが覚えておけ、歩兵。お前は今日、敵を一人増やした。後方の敵をな」
「承知しています」
ザインは静かに頭を下げた。
「ですが私は、敵を恐れて席を退く気はありません。前線でも、後方でも」
ヴェイルは鼻を鳴らし、席を立った。だがその背には、もはや先ほどまでの余裕はなかった。
ローレンがザインに向き直り、初めて表情を緩めた。
「ザイン。お前の審査を、すべて通す。家名なき軍曹が、あらゆる壁を読み勝った。その記録は、この大広間に残る」
ザインは深く頭を下げた。針の穴をついにくぐり抜けた。
高窓から、二つの月が午後の空に淡くかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、壁を越えた男と、その隣に立つ二人の味方を、静かに照らしている。
ザインはしばらく、その場に立ち尽くしていた。針の穴をくぐり抜けたという実感は、まだ薄かった。机で勝ち、盤で勝ち、衆目の前で勝ち、最後は二人の味方に救われた。だが家柄の壁は消えたわけではない。ヴェイルの言葉が胸に残っていた。お前は今日、敵を一人増やした。後方の敵は、これからも背後で糸を引くだろう。山でガレウス将軍が言った言葉と、同じだった。武功を上げるほど、後ろから伸びる手は増える。ならばその手ごと盤に呑み込んで勝つしかない。ザインは静かに息を吐いた。これは始まりだった。
ドレクが肩を叩き、ユリアンが微笑んだ。だがザインの胸には、まだ前線の宿敵の影があった。
士官への道は開いた。残るは任官の沙汰を待つだけだった。




