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第89話 衆目の中で

 最終審査の日が来た。


 会場は練兵館で最も広い大広間だった。壁際に貴族の重鎮が居並び、上座にはヴェイル将軍が腰を据えている。委員席にはローレンとボード。見物の目は数十を数えた。家柄の重みが空気そのものを重くしていた。家名のない男がこれほどの衆目の前に立つことなど、本来あり得なかった。


 前夜、ユリアンが探ってきた通りだった。最終審査は、各候補が即興で兵を指揮する口頭の演習だ。委員が状況を読み上げ、候補がその場で采配を述べる。だがザインに与えられる状況だけが、特別に仕組まれていた。勝ち目のない、絶望的な盤面を。


 候補が一人ずつ呼ばれた。貴族の子弟たちは、それぞれ無難な状況を与えられ、教本通りの采配を述べた。重鎮たちが満足げに頷く。やがてザインの番が来た。


 ボードが、待っていたように状況を読み上げた。


「軍曹に問う。お前の隊は街道で敵に挟まれた。前に二倍の歩兵、後ろに騎兵の一隊。退き場はない。横は断崖と河。兵糧は尽き、矢も残り少ない。さあ、どう指揮する。逃げ場はないぞ」


 逃げ場のない盤だった。衆目の前で、家名なしの男が立ち往生する――それがボードの描いた絵だった。広間の貴族たちが、薄笑いを浮かべて固唾を呑んだ。


 だがザインは慌てなかった。状況を頭の中で実際の地形に置き換えた。前に歩兵、後ろに騎兵、横に断崖と河。前線で似た形を彼は知っていた。


 ザインは目を閉じ、語られた盤面を一枚の絵に組み上げた。これは前世から続く彼の癖だった。言葉で語られた状況も、いったん本物の土と石と水の流れに置き換えれば、おのずと弱みが浮かぶ。広間のざわめきも、居並ぶ貴族の視線も、その瞬間には消えていた。残るのは盤面だけだった。挟まれている。退き場はない。だが挟む側もまた、狭い街道に閉じ込められている。逃げ場のない地形は、敵にとっても逃げ場のない地形だ。そこに勝ち筋があった。ザインは静かに目を開けた。


「まず、後ろの騎兵を恐れません」


 ザインは静かに語り出した。


「騎兵は街道では強い。だが断崖と河に挟まれた狭い道では、馬は速さを活かせません。狭い場所こそ、騎兵の墓場です。私は隊を河際の最も狭い一点へ退かせ、騎兵の方を狭路へ誘い込みます」


 広間がわずかにざわめいた。ボードの眉が動いた。


「前の歩兵はどうする。二倍の数だぞ」


「正面からは当たりません。狭路で騎兵を止めた隙に、矢の残りを一点に集めます。狙うのは敵の指揮官ではなく、馬です。馬を倒せば、狭路は馬の屍で塞がる。後ろの騎兵は、味方の屍に退路を断たれます」


 ザインの声に淀みはなかった。


「そうして後ろを塞いだら、前の歩兵に向き直ります。二倍とはいえ、街道では一度に当たれる数は限られる。狭い正面なら、こちらの少数でも受けきれる。前線で、私は幾度もそうやって挟撃を凌ぎました。逃げ場のない盤は、裏を返せば、敵も逃げ場を失う盤です」


 広間が静まり返った。絶望的なはずの盤が、ザインの口の中で、互角の盤に変わっていた。


 ローレンが、感に堪えぬように身を乗り出した。


「逃げ場のない地形を、逆に敵の檻に変えたか。挟まれた側が、挟み返す。……見事だ」


 ボードの顔が、見る間に赤らんだ。仕組んだ絶望の盤が、またしても覆された。衆目の前で恥をかかせるはずが、衆目の前でザインの読みを証してしまった。


 ヴェイル将軍が、上座で腕を組んだまま、初めて鋭くザインを見据えた。


 頭上の高窓から、昼の薄い二つの月が差し込んでいた。大小ふたつの蒼い影が、衆目に囲まれた男の背を、いつものように淡く照らしている。


 ザインは静かに席へ戻った。背に貴族たちの視線が突き刺さっていた。だがその視線の質は、初日とは変わっていた。侮りの目に、わずかな戸惑いが混じっていた。家名なき歩兵が、与えられた絶望をことごとく勝ち筋に変えていく。彼らの教本には載らぬその読みを、目の当たりにした戸惑いだった。末席のユリアンだけが、誇らしげに小さく頷いていた。ザインはその頷きに、わずかに応えた。盤の中の戦は、ほぼ勝った。残るは盤の外の戦だけだった。


 ザインは一礼して下がった。だが審査はまだ終わっていなかった。ボードが最後の手を出そうと口を開きかけていた。


 盤の外の、最も露骨な一手がこれから来る。ザインはその気配を背中で感じ取っていた。

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