第88話 便り
最終審査を二日後に控えた夜、ザインのもとへ一通の便りが届いた。
前線からの早馬が運んできたものだった。封を解くと、見覚えのある不器用な字が並んでいた。コルネリアだった。戦場では雄弁な女が、紙の上では言葉を選びあぐねたように、短い文を綴っていた。
隊は無事だ、と便りは始まっていた。ガロは相変わらず軽口を叩き、バルガは古参の顔で皆をまとめている。ティムは左の角をしっかり守り、マルトは斥候の足を鈍らせていない。誰も欠けていない。山を越えた時の顔ぶれがそのまま前線にある。ザインはその一行を二度読んだ。
便りの終わりに、ひとことだけ私情が添えられていた。「あなたの留守は、思っていたより大きい」。それだけだった。だがその短い一行に、彼女らしい不器用な情が滲んでいた。ザインは便りをそっと畳み、懐の小鳥の隣にしまった。
だが便りにはもう一つの報せが続いていた。前線の動きを伝えるドレクの副官の筆だった。それを読むザインの目が鋭くなった。
南の戦線で、名将ロウガが大きく動いている。王国軍を率い、帝国の補給拠点を次々と脅かしているという。カランド以来、軍を温存して退いていた宿敵が、ついに本格的に戦野へ戻ってきた。
ザインは便りを握ったまま、しばし窓辺に立った。後方で士官の席を争っている間に前線では宿敵が動いていた。盤面は自分の知らぬ間に大きく動いていく。一刻も早く前線へ戻らねば。その思いが士官への道をいっそう急がせた。
窓の外には後方の都の灯が連なっていた。安らかな夜だった。だがその灯の遠く南で、今この瞬間も兵が槍を握り血を流している。ロウガの采配の前で、帝国の補給拠点が次々と削られていく。ザインの脳裏に、カランドで見たあの退き際の見事さが甦った。あの男は焦らない。盤の隅々まで読み切り、最も安い手で最も深く斬る。生半な将ではその刃は受けられない。前線の戦友たちが、その刃の下にいる。ザインは便りを握る手に知らず力を込めていた。
「眠れないのか」
声に振り向くと、ユリアンが寝床から身を起こしていた。
「前線から便りが来た。宿敵が動いたそうだ」
「ロウガか」
ユリアンは目を見開いた。
「後方でもその名は聞く。王国の名将だ。帝国の将が何人も、あの男に煮え湯を飲まされている」
「俺は一度、あの男と戦った。カランドで」
ザインは静かに言った。
「采配が、別格だった。退き際の見事さは、今も忘れられん。あの男が本気で動けば、前線は揺れる。だから俺は、早く戻らねばならない。士官の席は、そのための足がかりだ」
ユリアンはしばらく黙り、それから口を開いた。
「君は、ここで席を争いながら、頭はもう前線にあるんだな」
「俺の戦場は、最初から前線だ」
ザインは便りを見つめた。
「後方の審査は、前線へ帰る門に過ぎん。門の前で足踏みしている暇はない。二日後の審査で、必ず越える」
ユリアンは小さく笑い、それから真顔になった。
「なら、僕にできることがある。最終審査の段取りを、僕は家の伝手で少し聞いている。ボードがどんな課題を仕組んでいるか、明日までに探ってみよう。君が門を越える、その助けになるなら」
「……いいのか。お前も貴族だ。一派に睨まれるぞ」
「家の格で人を測る流儀には、もう飽きたと言っただろう」
ユリアンは肩をすくめた。寝床に戻りながら、低く付け加えた。
「それに、君が前線で兵を生かしてきた話を聞くと、机で席を争う自分が、少し恥ずかしくなる。だから手を貸す」
ザインは静かに頷いた。後方にもわずかながら理を解する者がいた。それがこの磨かれた都でのひとつの収穫だった。
ユリアンが寝入ったあとも、ザインはしばらく便りを胸に置いていた。コルネリアの不器用な字が、闇の中で目に浮かんだ。あなたの留守は思っていたより大きい。彼女がそんな言葉を紙に書くまでに、どれほど迷ったか。戦場では迷いなく焔を放つ女が、ひとことの私情には何度も筆を止めたに違いない。その不器用さが、かえって胸に残った。早く戻る。戻って、また背中を預け合う。ザインは便りをそっと畳み直し、目を閉じた。前線の月と後方の月は、同じ夜空にかかっている。離れていても、見上げる空は変わらなかった。
窓の外、二つの月が都の空に澄んで見えた。大小ふたつの蒼い光が、便りを握る男と、前線で同じ月を見上げているはずの戦友たちを、遠く隔てて等しく照らしている。
ザインは便りをもう一度握り直した。前線で宿敵が動き、後方で席が争われている。二つの戦が、同じ時に進んでいた。
最終審査の日が、いよいよ明後日に迫っていた。




