第87話 後ろ盾
審査の合間の一日、ザインは思いがけぬ人物に呼ばれた。
練兵館の奥の一室で待っていたのは、ドレクだった。前線の上官が、後方の都までわざわざ足を運んでいた。古びた軍装は、この磨かれた建物の中ではかえって誇らしく見えた。
「ドレク殿。なぜここに」
「お前の後ろ盾が、俺一人で足りると思うか」
ドレクは苦笑した。
「ガレウス将軍が手を回した。俺はお前の軍歴の証人として呼ばれた。お前が前線で何をやってきたか、委員に直に語るためにな。机の上の点だけでは、お前のような男は測れん」
ザインは深く頭を下げた。前線で槍を握る恩人が後方の政治の場にまで出てきてくれている。その重みが胸に染みた。
ドレクは旅の埃を払いもせず、すぐに本題へ入った。後方に長居する気はないらしい。前線を空ければそれだけ兵が危うくなる。それを誰より知る男だった。ザインはその落ち着かぬ気配に、かえって安堵した。後方の磨かれた空気に染まらぬ者が、ひとり味方に立っている。それだけで盤面の手応えが違った。
「ボードという委員が、お前を潰しにかかっているそうだな」
ドレクは声を低めた。
「ヴェイル将軍の派だ。あの一派は、平民の士官を一人でも増やせば、自分たちの席が削られると思っている。だからお前を、家柄の壁で押し返そうとしている」
「壁は、もう何枚か越えました」
「ああ。机でも盤でも勝ったと聞いた。だが最後の壁が残っている」
ドレクは窓の外へ目をやった。
「最終審査は、衆目の前で行われる。貴族の重鎮が居並ぶ場でだ。そこでボードは、お前に恥をかかせる気だ。勝ち負けではなく、平民が場違いだという印象を、皆の前で刻みつけようとしている」
ザインは静かに頷いた。盤の中で勝てぬなら、盤の外で印象を操る。後方の敵の手口は、読んだ通りだった。
その時、扉が開いた。入ってきたのは恰幅のよい初老の将だった。胸に派手な勲章を並べている。ヴェイル将軍だった。ボードの背後にいる、後方最大の派閥の頭だ。
「ほう。これが噂の、家名なしの軍曹か」
ヴェイルはザインを上から下まで眺めた。値踏みする目だった。
「悪いことは言わん。身を引け。お前のような男が士官になっても、貴族の部下は従わん。命令は宙に浮く。戦は、家の格で動くものだ」
「将軍」
ザインは静かに答えた。
「前線で兵が従うのは、家の格ではありません。生きて帰してくれる将にです。私はそれをやってきました。家柄では、兵の命は守れません」
ヴェイルの目が、わずかに細くなった。
「……威勢のいい歩兵だ。だが衆目の前では、その威勢がどこまで保つかな」
将軍は鼻を鳴らし、部屋を出ていった。残されたドレクが、低く息を吐いた。
「敵に回したな、あの男を」
「初めから敵でした」
ザインは静かに言った。
「身を引いても潰される。なら、正面から越えるしかない。前線と同じです」
ザインは窓の外へ目をやった。後方の都は静かだった。市が立ち、子どもが石畳を駆け、酒場の灯が温かい。前線でこの平穏を守っているのは、家柄を誇るこの都の貴族ではない。泥の中で槍を握る兵たちだ。なのに席を決めるのは、泥を踏んだことのない者たちだった。ザインはその歪みを、静かに胸へ刻んだ。だから自分は昇る。現場で死ぬ兵の声を、席を決める場まで届けるために。
ドレクはしばらくザインを見つめ、それから不敵に笑った。
「変わらんな、お前は。徴募の頃から。いいだろう。最終審査、俺も証人として立つ。お前の前線を、貴族どもの前で洗いざらい語ってやる」
「助かります」
二人は短く頷き合った。前線の絆が、後方の磨かれた一室にも確かに通っていた。
窓の外、二つの月が都の屋根の連なりに昇り始めていた。大小ふたつの蒼い光が、後方の政治の渦に立つ男と、その後ろ盾となった恩人を、静かに照らしている。
ドレクが去ったあと、ザインはひとり一室に残った。窓辺に立ち、衆目の前で戦う自分を思い描いた。前線なら地形を読めばいい。だが衆目の前の戦は、人の心という地形を読まねばならない。居並ぶ重鎮が何を尊び何を侮るのか。その流れを掴み、自分の実績をどう見せれば刺さるのか。槍ではなく言葉で、盤を組まねばならなかった。ザインは目を閉じ、来るべき審査の段取りを一手ずつ並べていった。前線で岩と水を読んだように、今度は人の値踏みを読む。
ザインは拳を握った。最後の壁は衆目の前にある。家柄の重圧が最も濃く立ちはだかる場だ。
だが越えると決めていた。前線で兵を守ってきた、その実績を盾にして。
最終審査の日が、近づいていた。




