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第86話 仕組まれた盤

 演習で勝った翌日、ザインに一枚の通達が渡された。


 追加の実地課題だという。候補者の中でザイン一人にだけ課された、特別な試験だった。届けに来た若い書記官は、気の毒そうな顔をしていた。声をひそめ、周りを気にしながら紙を差し出した。


「軍曹殿。これは……正直、無茶です。少人数で、不利な配置で、模擬の防衛戦を行えと。守る陣は谷の底、敵役は高みから攻める。兵の数も、敵役の方が多い」


「ボードの差し金か」


「……名は申せません」


 書記官は目を伏せた。それで充分だった。ザインは通達を読み返した。守るのは谷底、攻めるのは高所の多兵。山で自分が置かれた、あの劣勢そのものだった。誰かがザインの山岳戦の記録を読み、最も不利な盤をわざわざ作り直したのだ。落とすために組まれた悪意のある盤面だった。


 ユリアンが通達を覗き込み、顔をしかめた。


「ひどいな。これは勝てる課題じゃない。落とすために作られた盤だ。守る側が谷底で、攻める側が高みで多兵。教本に照らせば、守る側の負けは初めから決まっている」


「いや」


 ザインは静かに言った。通達の文字を、もう一度なぞった。


「これは、俺が一度勝った盤だ」


「え?」


「谷底から高みの敵を降らせた。山でな。糧を断たれ、三方を囲まれて、それでも勝った。同じ形だ。負けろという盤を、敵は俺に渡した。だが俺は、この形で勝ったことがある」


 ユリアンが目を見開いた。ボードは、ザインを潰すつもりで、よりによって最も得意な盤を差し出してしまったのだ。記録を調べ上げた末の悪意が、皮肉にも裏目に出ていた。


 実地課題の当日、委員たちが演習場の高台に集まった。ボードが満足げに腕を組んでいる。谷底に置かれたザインの少数の兵。高みに構えた多数の敵役。誰の目にも結果は見えていた。すでに勝負はついたという顔で、貴族の候補たちが見物に集まっていた。


 だがザインは慌てなかった。彼は谷を歩き、地形を読んだ。水の流れ、風の道、岩の影。山でやったことと、同じ手順だった。地の形は嘘をつかない。本物の山も、模擬の谷も、読み方は変わらなかった。


「敵役は高みにいる。だが高みの兵は、いずれ水と食を麓へ取りに下りねばならん。模擬でも兵站の手順は同じだ。高い所ほど、糧の道は細く長くなる」


 ザインは少数の兵を散らし、高みの敵の補給路となる細道を、まず押さえた。正面では戦わない。敵が動くのを待つ。山で渇いた敵を待ったように、ここでも時を味方につけた。


 判定役の士官が眉を上げた。攻める側の敵役が補給路を断たれて動けなくなったのだ。高みにいながら麓へ下りれば待ち伏せに遭う。下りねば干上がる。盤の理が静かに裏返っていく。高所の利が、そのまま枷に変わっていった。


 見物の貴族たちが、にわかにざわめき始めた。勝負はついたはずだった。守る側が初手で負けるはずの盤だった。それが半日のうちに逆さまになっていく。彼らの教本には、谷底から高みを干上がらせる手など載っていなかった。盤面の前提そのものを、家名のない男が組み替えていた。ザインはその視線を背に受けながら、ただ淡々と次の駒を進めた。見物のざわめきは、戦場の喧噪に比べれば風の音ほどでもなかった。


「あの男……課題の前提ごと、ひっくり返している」


 ローレンが呟いた。高台から身を乗り出し、谷底の動きを食い入るように見ていた。


 半日の演習の末、高みの敵役は補給路を断たれ、攻めあぐねたまま判定で敗れた。守るはずのザインが、攻める側を干上がらせて勝った。落とすための盤が、ザインの勝ちを証する盤に変わっていた。


 ボードの顔から、笑みが完全に消えていた。


 演習場の空に、二つの月が薄く昇り始めていた。大小ふたつの蒼い光が、仕組まれた盤を覆した男を、いつものように静かに照らしている。


 ザインは汗を拭い、高台の委員たちへ一礼した。ローレンが小さく頷き返した。だがボードは席を立ち、肩を怒らせて去っていった。盤の上でも外でも、平民を沈める手は尽きた。残された手は、もはや一つしかないはずだった。


 ユリアンが駆け寄ってきた。


「やったな。あの盤を、本当にひっくり返すとは。皆が無理だと言った課題だぞ」


「敵が、俺の得意な形を選んでくれただけだ」


 ザインは淡々と言った。だが内心では警戒を強めていた。盤の外の敵は、これで黙る相手ではない。追い詰められた者ほど、なりふり構わぬ手に出る。前線でも後方でも、それは同じだった。


 後方の政治が、いよいよ本性を現そうとしていた。

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