第85話 盤上の兵
三日目は図上の演習だった。
広間の中央に大きな卓が据えられ、その上に山と川と街道を象った盤が広げられていた。木の駒が両軍に分けて置かれている。精巧な作りだった。山には影が刻まれ、川には水の流れまで描かれている。候補者は二人一組で向き合い、互いに兵を動かして勝敗を競う。机上の知識ではなく、盤を読む力が試される。ザインにとって、ようやく息のできる試験だった。
ザインの相手は、レイフ・ハルゲンだった。委員たちがそれを望んだのか、あるいは仕組まれたのか。レイフは余裕の笑みで駒に手を伸ばした。
「光栄に思え、歩兵。お前を盤の上で叩き潰すのは、この俺だ」
「よろしく頼む」
ザインは盤を見た。兵の数ではなく、まず地の形を読んだ。前線で泥と岩を相手にしてきた目だ。盤の上の山と川も、本物の地形と同じ言葉で語りかけてくる。川が一本、斜めに走っている。渡しは二つ。一方は広く、一方は狭い。街道は広い渡しを通っていた。広い方は誰の目にも要に映る。だからこそ、と彼は思った。
演習が始まった。レイフは兵を厚く固め、広い渡しから堂々と押し出した。古典の正攻法だった。数を集め、正面から圧す。貴族の好む戦い方だった。盤の上でも、彼は家に伝わる流儀を忠実になぞっていた。
ザインは正面から受けなかった。少数を広い渡しに置いて足止めし、本隊を密かに狭い渡しへ回した。
「逃げるか、歩兵。正面で戦う度胸もないか」
レイフが嘲った。ザインは答えず、駒を進めた。狭い渡しを越えた本隊が、レイフの厚い陣の側面へ回り込んでいく。盤の上で、ゆっくりと罠が閉じていった。
レイフが気づいた時には遅かった。正面に気を取られ、側面ががら空きになっていた。ザインの本隊が、その横腹へ食い込んだ。
「な――」
「厚く固めた陣は、正面には強い。だが横には脆い」
ザインは淡々と駒を動かした。
「あんたは数を一点に集めた。だから動きが鈍い。動けぬ敵の横を突くのが、いちばん安く勝てる。これは盤の話じゃない。本物の戦場で、何度もそうやって勝ってきた」
レイフは慌てて兵を反転させようとした。だが密集した陣は、すぐには向きを変えられない。ザインの読み通りだった。崩れは横から広がり、レイフの陣はみるみる崩壊した。駒が次々と盤から払われていく。
委員たちが身を乗り出していた。ローレンが低く唸った。
「……渡しを二つとも使ったか。広い渡しは囮、狭い渡しが本命。地形をそのまま策に変えた。誰に教わった戦い方だ、これは」
「誰にも。戦場が教えてくれました」
演習はザインの勝ちで終わった。レイフは盤の前で青ざめ、拳を握りしめていた。
「卑怯だ。正面から戦わぬとは」
「戦は、勝つためにやる」
ザインは静かに言った。
「正面から数を当てて、兵を多く死なせる将より、横から突いて少ない血で勝つ将の方が、俺は上だと思う。盤の上でも、戦場でも。駒なら払えば済む。だが本物の兵は、一人死ねば帰る家がひとつ消える」
レイフは何も言い返せなかった。盤の駒を、本物の兵と並べて語る男に、返す言葉を持たなかった。
末席のユリアンが、こっそり親指を立てた。他の候補たちも、ザインを見る目をわずかに変えていた。家名なしの歩兵が、名門の子弟を盤の上で破った。その事実は、広間に小さなさざ波を立てた。
だがボードだけは、冷たい目でザインを見ていた。盤の上で潰す目算も外れた。次はもっと露骨な手で来る――ザインはその視線から、そう読み取った。盤の中では負けぬ男なら、盤の外で沈めるしかない。敵の思考は、手に取るように見えた。
ユリアンが盤の片づけを手伝いながら、声を落とした。
「気をつけろ。ボードの背後にはヴェイル将軍がいる。後方で最も大きな派閥だ。点数も、推薦の重みも、あの一派がいくらでも動かせる」
「分かっている」
ザインは最後の駒を箱へ収めた。
「だが将軍も将軍だ。最後にものを言うのは実績だ。盤の上でも戦場でも、それだけは家柄では覆せん」
ユリアンは少し驚いた顔で、それから小さく笑った。家名のない男の言葉に、妙な重みを感じたようだった。
高窓の外、二つの月が昇り始めていた。大小ふたつの蒼い光が、盤を制した男と、その背に向けられた冷たい視線を、等しく照らしている。
ザインは盤の駒を片づけながら、後方の敵の次の一手を読んだ。机上でも盤上でも勝てぬなら、敵は盤の外から手を出してくる。
後方の本当の戦は、これからだった。




